黒の雫

下村アンダーソン

黒の雫

月乃へ

 転院してもう一週間になりました。言い訳したくはないのですが、投薬による頭痛と吐き気が酷く、なかなかペンを握る気力が持てずにいました。忘れていたわけでは決してありませんので、どうかご容赦ください。次の手紙は、なるべくお待たせしないように書くつもりです。

 部屋は七階です。カーテンを開ければ中庭を見下ろせるのですが、今のところベッドを出ることがほとんどできずにいます。使っている薬が血管に負担をかけるらしく、一日に十数回、注射針を刺し直して位置を変えなければいけません。朝も夜も関係なく看護師がやってきては、私を起こして注射をしていくのです。痛みというのは慣れないものですね。何度やっても厭なものです。

 血管にもうほとんど場所がないらしく、今では手首の近くに針が入れてあります。肘から下が青い斑点だらけで、あまり見栄えのいいものではありません。手が痺れてしまって、ここまで書くのにもずいぶん時間がかかっています。読みにくかったらごめんなさい。

 今の薬が効くかどうかは、まだはっきりしないようです。来週にも検査があるのですが、少しでも状況が好転しているといいな、と思っています。

 検査が終わったらまた報告します。


月乃へ

 検査がついさっき終わったところです。血のほかにも、骨の内側の液、内臓の液などを採る必要があるということで、信じられないほど太い針を体じゅうに打たれました。麻酔をすると成分が変わってしまうらしく、そのままの状態で、と指示を受けました。もちろん痛いのですが、痛みを通り越してなんだか重さを感じたような記憶があります。無機質で機械的な、ぎりぎりと締め上げるような感覚でした。中断が許されないということで、泣きじゃくりながら堪えていました。また同じ検査を繰り返さねばならないのかと思うと憂鬱です。

 もうじき夕食の時間ですが、おそらく喉を通らないでしょう。最近はあまり味も感じず、もっぱら薬で栄養を執っているような有様です。せめて食事が楽しみになる程度に回復すればいいのですが。

 それではまた。


月乃へ

 結果はまだ出ていません。体調はあまり変わっていないので、まだ入院生活が長く続くかもしれません。

 針の刺し直しの頻度がますます上がったような気がします。ほんの数十分で、薬が体内に流れていかなくなってしまうのです。代わり、私の血が逆流してパックが赤黒く染まります。そうなるとまた看護師がやってきて、注射をやり直す羽目になるのです。小刻みにしか眠れていないので、なんだか頭もぼんやりとして、日時の感覚も曖昧になっています。なるべく頻繁に手紙を書くと約束したのに心苦しいのですが……本当にごめんなさい。お忙しいとは思いますが、お返事を貰えると嬉しいです。いつでも構いません。

 待っています。


月乃へ

 検査の結果はあまり芳しくありませんでした。あるていど予想していたこととはいえ、やはり残念です。まだもうしばらくは、ここに居なければならないようです。

 起きている時間はほとんど手紙を書くのに充てているので、看護師から叱られることがあります。頭や体を休めるように指示されるのですが、約束を破るわけにはいきません。ゆいいつ見逃してくれる看護師――深瀬さんに頼んで、手紙を出してもらっています。本当は自分の足で、ポストまで行ければいいのですが。

 返事が来たらすぐに持ってくる、と深瀬さんは約束してくれています。私もとても楽しみにしています。もしも私を許してくれるなら、お返事をいただきたいです。

 どうかお願いします。


月乃へ

 手紙を書くのをやめなさい、と繰り返し言われます。もうまともに手が動いていないし、判読できる字にもなっていないのだと、皆が口を揃えます。私の今の仕事は体を休めることだと理解してはいるのですが、どうしてもやめることが出来ません。あなたのことが気にかかってしまって、つい言葉を連ねたくなるのです。

 一言でも構いません。あなたの言うとおりにしますから、何かお返事をください。


月乃へ

 ペンというペンを取り上げられてしまったので、指でこれを書いています。看護師が注射をしに来る前に、血が逆流したパックをこっそりと開け、中の黒い液体をインクの代わりにするのです。これが見つかったら、さすがの深瀬さんも手紙を出すのをやめてしまうかもしれません。看護師が来る時間は把握しているので大丈夫だと思うのですが。

 あなたは今、どうしていますか。


月乃へ

 あなたと過ごした日々のことばかり考えています。同じ病室の、隣のベッドにあなたがいたのは、私の人生でもっとも幸運な出来事だったかもしれません。顔色が悪いのが厭だと言って、なかなかこっちを向いてくれませんでしたね。思い返すのは横顔ばかりです。じっと見られていると落ち着かない、と何度も言われたのに、私はいつもあなたのことばかり気にしていました。未来を悲観しては泣き、痛みに耐えかねては泣き、果ては理由も分からないままに泣き……ぐずぐずと自己憐憫に浸ってばかりの私に比べて、あなたの何と毅然としていたことでしょう。あなたの凛とした横顔は、ずっと私に勇気を与えてくれました。

 月乃、もう一度あなたに会いたい。


月乃へ

 深瀬さんから話を聞きました。あなたはもう、この世の人ではなかったのですね。私が転院してすぐに容態が急変し、そのまま意識が無くなって目を覚まさなかったのだ、と言われました。

 知らされなかったのは、私があなたへの想いだけで命を繋ぎとめているのが明白だったから――きっとそういうことなのでしょう。

 教えてもらえてよかったと思っています。だって何も知らなければ、向こうであなたを探すことさえ出来なかったかもしれないのですから。真実を胸にしていれば、迷うことはありません。私は真っ先に、あなたのもとへと行くでしょう。

 あと数か月、と主治医にも宣告されました。そのあいだ、治療も、投薬も、検査も、やはり続けなくてはいけないようです。どうせ生きていられないのに何か意味があるんですか、と問いたかったけれど、私はかろうじてその言葉を呑み込みました。勇敢なあなたはきっと、あらゆる苦痛を引き受け、最後まで精一杯戦った上で旅立ったのだと確信しているからです。

 それでも――やはり怖い。あなたも怖かったでしょう。傍にいてあげられなくて、本当に本当にごめんなさい。私なんかでも、手を伸ばせば握ってあげられる距離にいたのに。

 後悔と恐怖で胸がいっぱいで、どうしていいか分からずにいます。残された時間をどう過ごせばいいのか、届くべくもない手紙を書き続ければいいのか、あるいはあなたとの思い出だけを振り返っているべきなのか。頭が空っぽで、何も分かりません。

 いま、深瀬さんが病室に入ってきました。手紙を書いても、もう誰にも咎められることはありません。左腕で針を受けながら、右手でこれを書いています。

 終わりました。いつもと少し、薬のパックの色が違うように見えました。黒の雫が混じっているような――気のせいでしょうか? 深瀬さんは仕事が終わるとすぐに出て行ってしまったので、訊ねることも叶いませんでした。

 何だかとても眠くなってきたので、続きはまたにします。こんなにも眠気を感じたのはいつぶりでしょう。体はずっと、眠りを求めていたのでしょうね。

 お休みなさい、月乃。あなたのいる世界の夢を見られますように。

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黒の雫 下村アンダーソン @simonmoulin

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