第2話
「へー、それで今晴文撮ってるんだ」
岡本が大して興味もなさそうに呟いて、ビールの入ったジョッキを口へ運んだ。
「うん、二ヵ月前から。昨日も地元帰って撮影してきた」
「ご苦労さまだねー。それにしても中学時代はあんなに優秀で人気者だった晴文が、いま無職でずっと実家にいるって、ほんと人生ってわかんないよなー」
少しだけ上機嫌に言ってまた岡本はジョッキからビールを啜る。
週末土曜日の夜ということもあって、渋谷の文化村通りにあるビルの五階の居酒屋は満席で、そこかしこから若い男女の甲高い歓声が上がっている。席横にある窓からは、ビル下の通りを無数の人々が行き交う光景が見え、視線を上げると、向かいのビルの壁面に貼られた映画の看板広告がライトアップされているのが目に入った。
「でも二ヵ月って結構撮影期間長いよな。いくらドキュメンタリー番組のメインエピソードだっていっても、今そんなに手間かけて撮影するの珍しいっしょ」
「まあ通常はこっちで欲しい画をなんとなく決めて、なかば演技的に必要なシーンを撮っちゃったりもするんだけどね。ただ今回は、当初は想定してなかった『就職活動チャレンジ企画』を俺の方から晴文に提案することで、なんとか取材を承諾してもらってるからさ。出来る限り撮影に赴くのが筋かなって思ってるんだ」
お通しの冷や奴を口にしながら、岡本が小刻みに頷く。
「ああ、それがさっき言ってた晴文の就活をサポートして、その過程を追っかけてるってヤツか。いくら取材を受けてもらうためとはいえよくやるよ」
「まあ両親や周囲の目を考えると、ただの『無職で引きこもってる存在』として取り上げられることに抵抗を感じるっていう晴文の気持ちもわかるからね。それに『就職へのチャレンジ』っていう全編通して視聴者を引っ張るエピソードができるのは、番組的に助かる部分もあるんだ」
「それでその就職活動の調子はどうなのよ」
「結構良いところまではいくんだけど、未経験ていうのもあってなかなか決まらないね。明後日が晴文が一番行きたいって言ってるところの一次面接。とりあえず撮影は二ヵ月って約束だったし、そこの結果が出るまでは追っかけるつもり」
岡本は大皿からもも肉の刺さったやきとり串を取り上げ、一切れ口に含んで咀嚼して、ビールで流し込んだ。ジョッキの中のビールがみるみる減っていき、あっという間に空になる。
「そんなに晴文が貢献してるなら、情報提供者の俺にも、もう少し誠意があってもいいんじゃない?」
空になったビールジョッキを顔の横に持ちあげて、やや顎を引いた上目遣いの眼差しで岡本が言う。その瞳は普段の粗野な態度や口調に似合わず、童女のようなつぶらな輝きを称えてこちらを見つめている。
「わかったわかった、一杯おごるよ」
俺がそう言うなり、岡本は「やりぃ」と歓声をあげて通路を巡回している女性店員を大声で呼び止め、ビールと出し巻き玉子を追加注文した。
中学時代のクラスメイトである岡本とは、一年ほど前にテレビ番組の収録スタジオで再会した。俺がADとして入っていた番組のスタジオの廊下で、フリーの芸能ライターとして取材に来ていた岡本とばったり出くわしたのだ。それから時折こうやってテレビ局のある渋谷で食事をするようになり、いつも業界の愚痴や地元の同級生の噂話をしては憂さを晴らしている。晴文が働かずに実家で暮らしているということも、そんな幾度目かの席で岡本から聞いた情報だった。
「それにしても晴文も難儀だよなー。きっと頭が良過ぎて色んなこと割り切れないんだろうな。割り切っちゃえばそれなりに気楽で楽しい世界なのにさ」
岡本はそう言って、新しく届けられたビールを勢いよくあおった。大粒の水滴がジョッキグラスの表面をなめらかに滑ってテーブルの上に落ちる。
「あーうめえ。ほんと単純な頭に生まれて来てよかったー」
ジョッキをテーブルに置いた岡本が目をつむり感嘆の声をあげた。その一連の所作はあまりに紋切り型過ぎた為か、どこか芝居がかっているように感じられた。
「岡本はたくましいな」
「フツーだよ、フツー。いちいち働く意味なんて考えてたらキリなくて動けなくなっちまうよ。みんなそこは割り切ってゴハンのために働いてんの。晴文みたいに夢とかいって、いつまでも働かないでいる奴は自分で自分のことを買い被って甘えてるだけなんだよ」
岡本は投げやりな調子で言い、再びビールのジョッキを持ちあげてビールを一口飲んだ。
「亮平だってそうだろ。毎日ディレクターやタレントにこき使われることに大げさな意味なんて求めてたらやってらんなくないか?そこをなんとかやりこなして、ここまで続けてこられたから今こうやって自分で美味いメシが食えてるんだろ?」
岡本が同意を求めるように俺の目を覗き込んで来たけれど、俺は過大評価されているような後ろめたさを感じて、わずかに目を逸らし口許に笑みを浮かべてうなずくことしかできなかった。
「お前もあんま余計なこと考えてると仕事できなくなっちまうぞ」
「ああ気をつけるよ」
二十七歳になっても自身の在り方に迷いを感じていることに情けなさを憶え、やき鳥の大皿からねぎま串をとって鳥肉をかじる。相変わらず賑わう店内には、男女が数人で笑い合う声が溢れ、どこか近くの席からは学生と思われる男子が『就活』を効率よく進める方法について得意気に語るのが聴こえた。やみくもに肉を咀嚼し続けるうち、冷めて若干固くなった肉の細切れの肉片が、歯と歯の間に挟まった。
「お待たせしました」
甲高い声とともに女性店員がテーブルに出し巻き玉子を運んで来て、テーブールに置いた。岡本がだらしなく口許を歪めながらその店員に何やら声をかけると、店員もまんざらでもない表情を浮かべて応えている。
俺はその光景から目を背け、ガラスの向こうに視線を逃がす。視線の先にある映画の看板広告には『監督・高橋和成』という文字が太字で記されているのが見えた。歯に挟まったとり肉の肉片の端を舌先で触りながら、焦点を手前のガラスの方に合わせると、自分自身の顔が広告に重なるようにうっすらと浮かんだ。
夜十時ごろに岡本を店に残してスタジオに戻り、その後深夜の収録を終えると時計は午前二時を回っていた。朝まで休憩をしようと戻った会社のフロアには、先輩の男性スタッフが部屋の奥のソファの上でうずくまって寝ているだけで、他には誰もいなかった。
寝ている先輩を起こさぬよう、暗い部屋を忍び足で歩いて自分の席まで行き、ノートパソコンの電源を入れる。小さく起動音が鳴る中オフィスチェアに座って社内を見渡すと、薄暗闇に包まれた静かな光景に、少しだけ内面の騒々しさが鎮まるのがわかった。
大学を卒業しテレビ番組の制作会社で働き始めて四年目になった。入社以来一貫して渋谷にある放送局の番組のADを勤めている。世間一般に認識されているイメージ通り、この業界の労働環境は過酷だ。勤務時間が不規則で拘束時間は長く、特に新人の頃はレギュラーで幾つかの番組に入ってしまうと一週間の間に家に帰れる日の方が少ない。プライベートな時間など滅多に持てず、今日のように番組と番組の合間の空き時間にスタジオを抜け出して一、二時間人と会ったりすることが許されるようになったのも、ようやく仕事での立場が出来てきたこの一年ほどのことだ。
入社当時は『自分の脚本でドラマ作品を作る』なんていう淡い志を抱いていたものの、忙しない毎日の中でその想いはみるみるすり減っていき、表現したいストーリーの一つも見つからないまま、気づけば丸三年の月日が経っていた。
そして、そんな毎日にも慣れ、現状に甘んじる自分を肯定しつつあった二ヵ月前のある日偶然目にしたのが、大学の同級生だった高橋和成(たかはしかずなり)が商業映画の監督としてデビューするというニュースだった。
パソコンの画面の眩しさに目を細めつつ、映像編集ソフトを立ち上げ、ビデオカメラと外付けハードディスクをパソコンに繋いで、ハードディスクに映像を取り込む。
取り込み作業を行っている間、椅子の背もたれに体重を預けてぼんやりしていると、机に積み上げられた書籍の中にある、晴文にアポを取る時に参照にした中学の卒業文集が目に入った。手を伸ばし抜き取って、所属していた三年一組のページをめくる。開いた最初のページにはクラス全員の将来の夢が書かれていて、俺の名前の隣には『映画監督』、晴文の隣の欄には『弁護士』と、誰か編集委員の女子が書いたのであろう丸みのある丁寧な文字が並んでいた。
あの頃はみんな漠然と理想の未来を信じてはしゃいでいた。
思い浮かぶ細切れのイメージの中の当時の友人たちの表情は皆一様に明るく、それぞれが何かしら将来に対する期待に満ちているように感じられる。
でも今思えばそれは、保護された温かな箱の中で成功した誰かが語る夢を貪らされ続けていただけで、その数年後いざ一歩踏み出した時僕らは、この世界に自分の想い描いて来た夢物語はおろか、自分の為の物語など何一つ存在していなかったことを知るのだ。
文集を閉じて、パソコンの画面に目をやる。画面の中では取り込み中の映像が無音で流れ、晴文が大きな口を開けて何かを言い、おじぎをしていた。その市役所の一室には晴文のほかにも二十代から三十代と思われるスーツ姿の男女が十人ほどいて、彼らも真っすぐ立ったまま前を見て同じように何かを言い、おじぎをするという行為を繰り返している。彼らが視線を向けるホワイトボードの前に立つ佐々木美和(ささきみわ)は、晴文たちに向けて真剣な表情で何かを熱心に説いていた。恐らく第一印象の大切さとか、そのための心がけとか、そんなところだろう。身振り手振りを交えて語る佐々木美和の厚ぼったい唇は艶やかで、薄いベージュ色のスーツを纏った細身の体は程よく胸が突き出ている。その生真面目な顔を見ていると自分の顔が愉悦に厭らしく歪んでくるのがわかった。
再び画面に晴文の顔が映し出された。晴文は依然たまに笑顔さえ見せながら、佐々木美和に輝く眼差しを向けて、快活に発声とおじぎを繰り返している。「よろしくおねがいします」「ありがとうございました」「失礼します」。撮影をしながら聴いていた彼らの声が映像に合わせて頭の中で再生される。正直あんなに溌剌とした挨拶を働き始めてから聴いたことがなかった。それどころか自分は採用面接の時ですら、あんなにしっかりとした挨拶をしていただろうか。
「よろしくおねがいします」
「ありがとうございます」
「失礼します」
放るように発したその言葉は言ったそばから霧散して薄闇の中に消えた。
画面の中の佐々木美和が一瞬カメラの方に視線を向け、照れたような笑みを浮かべて視線を逸らす。それとほぼ同時に、スマートフォンがメールの着信を示すリズムで小刻みに揺れて、机と響き合って物々しい音をたてた。眠りを妨げてしまったことを懸念し恐る恐る仮眠用ソファの方に目をやると、うずくまった太めの男のシルエットが窮屈そうに寝返りを打っていた。
俺は安堵して、スマートフォンのボタンを押しメールをチェックする。入社以来あいさつをまともにしたところなど見たことがない先輩スタッフの気持ち良さそうないびきが、静まり返った社内に高らかに響いた。
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