第5話
「まったくお前はもう晴文の人生の恩人だな。もし結婚式やる時は友人代表で祝辞読んでもらえよ」
岡本が投げやり気味に言った。その右手には例のごとくビールジョッキが握られている。すっかり行きつけになった文化村通りにある雑居ビル五階の居酒屋は夜七時という食事時の時間にも関わらずめずらしく空いていて、威勢の良い岡本の声は店中に響き渡った。
「まあまだ決まったわけじゃないけどね。とにかく番組的にも前向きなメッセージを伝えられそうでホッとしてるよ」
少しなだめるつもりで穏やかに言う。
「ほんと晴文は良い友達持ったよな」
岡本はこちらの思惑など意に介さずさらに張りのある声で言葉を続け、ビールをあおった。
「忙しいなか二ヵ月も撮影に通ってくれてさ、それなりにギャラも払ってくれて、終いには就職の面倒までみてくれるなんて、このご時世どこ探したってそんなヤツ亮平くらいしかいねえよ。いくらなんでも話として出来過ぎだろ」
「まあ晴文も晴文なりに頑張ったわけだからさ」
「お前もお前だよ。番組のためだからってちょっと甘やかし過ぎじゃねえか」
「まあ仕事だからな」
なぜか引け目を感じてそう弁解した。
「ほんと俺もお前に相談すりゃ良かったよ」
岡本がそう呟いたので詳しい事情を訊ねると、「いやなんでもない」といつになく素っ気ない調子で言って、ジョッキの中に残っていたビールを飲み干した。
晴文の最終面接は昨日の昼に行われた。その前日、新幹線を待つホームで一次面接の通過と翌日最終面接が行われることをメールで知らされた俺は、急遽そのまま地元のホテルに一泊して最終面接に同行した。
面接の場に設置させてもらった固定カメラに映っていた映像を見る限りでは、面接は終始和やかに進んでいるように思えた。やはり今回は晴文の中でも思い入れが違うのか、これまでの面接で時折みせていたどこか入社に迷いを感じさせるような沈黙も見られなかった。終了間際には、面接官の方から具体的な入社後の流れなどが語られ、正式な合否は二日後に連絡するとのことではあったものの、その対応からは採用はほとんど確実なものであると思われた。
「あんまり期待し過ぎないようにしないとね」
面接を終え喫茶店で一息ついた晴文は冷静さを保ってそう言っていたが、その佇まいからは安堵が伺われ、顔の表情には控えめながら自信が滲んでいた。
俺は、スマートフォンで佐々木美和への報告メールを打つ晴文にカメラを向けながらも、すっかり周囲の風景に馴染んで見えるそのスーツ姿にどこかでまだ胸苦しさを憶えていた。
「まあこれで晴文もようやく社会で自分の身の程を知って大人になるんだからめでたいことだよな。いつか一緒に美味い酒を飲めるかもしれないしな」
気をとりなおした様子で岡本が言って、いつの間にか届けられていた新しいジョッキからビールを啜った。
「結局男はさ、仕事して甲斐性のひとつもねえと、世の中に認めてもらえないわけよ。つまりこの世界で生きてる資格なんてないわけ」
岡本はひとりごちてまたビールを口に運ぶ。岡本の一連の発言には性格や環境といったその人が抱えている個人的な条件がごっそり抜け落ちているような気がしたが、今日の岡本に異論を挟むのは得策とは思えなかったので、窓の外に視線を逸らしながら無造作に頷いた。今日もビル下の通りには、無数の人が絶えることなく道を流れていく光景が見える。不覚にも向かい側のビル壁の映画の広告が目に入ってしまい、明日の番組撮影のことが頭をよぎって少し憂鬱な気持ちになった。
「でもこんなことして本当に良かったのかな。仕事とはいえこっちの都合で晴文に就職けしかけて、これまでの人生をいきなり振り切るようなことさせちゃって」
「何言ってんだよ。良かったに決まってるだろ。可能性の低い夢に身切りつけるきっかけ与えてやって、希望に沿った就職先まで決めてやったんだから。それに、最後の方はむしろ晴文が自分から積極的に動いてたんだろ?まっとうに働いて収入が得られれば、愛しの佐々木さんにも堂々とアプローチできるわけだし。どこからどう見ても亮平は感謝されこそすれ、文句言われる筋合いはねえよ」
「それなら良いんだけど」
確信に満ちた口調に気圧されて思わず同意の返事をかえした。ただそう答えながらも、積極的に振る舞う晴文の姿から受けるどこか希薄でちぐはぐな印象は消えなかった。この二ヵ月、就職を目標とし、仕事や収入や恋愛といった一般的な社会の価値基準に突き動かされて行動しているうちに、そもそも晴文が今まで働くことに向かうことができなかった根本的な要因を、俺も、そして晴文もおざなりにしてしまっている気がした。
「わりい、今日これから原稿書かなくちゃだからさ、そろそろお開きにしてもいいか?お前も明日また地元で撮影あるんだろ」
「ああ昼間のトーク番組のADやったらその足で地元に向かう予定。明日の午後には晴文の正式な採用結果が出るからさ」
合計金額を確認し、クレジットカードでまとめて会計をするという岡本に自分の分の代金を渡して席を立った。
扉を押し開けて外に出る。店の外の三畳ほどの空間は店内と打って変わって薄暗く、エレベーターの階数を示す数字だけが煌々と橙色の灯りを点していた。なかなか岡本が出て来ないので、ドアのガラス越しにレジの方を覗くと、複数枚のカードを手に店の人と話している岡本の姿が見えた。
駅へ向かうという岡本と店の前で別れテレビ局へ戻る道を歩く。夜が更けても街は爛々と光を放ち昼間よりも多いとさえ思える無数の人々を照らしている。圧迫感に思わず視線を上方に逃がすと細長い薄紫色の空が見えた。
「なんで晴文は弁護士になりたいの?」
晴文と二人、中学校の屋上で空を見上げ話していた会話が思い出される。
「母さんの夢だったんだ。ずっと目指してたんだけど、親に結婚急かされて諦めたんだって。俺勉強好きだし、だったらその夢を俺が叶えるって、小さい頃に約束したんだよね。亮平は?」
「俺はほんと単純。小さい頃から親が映画だけはよく連れてってくれてさ。それで映画が好きになって、自然と自分も映画を作る人になりたい、って思ったんだ。親も『お前の好きなことをやれ』って言ってくれてるし、特に母さんは応援してくれてるから期待にも応えたいしね」
「お前が映画の権利関係で訴訟起こされたら俺が弁護してやるよ」
「誰がお前みたいな腕の悪い弁護士に頼むかよ」
今思えばむずがゆくなるような言葉の数々に恥ずかしさが込み上げる。あの場所から見える空はいつも頭上いっぱいに広がっていて、晴れた日は真っ青な空が山の向こうまで続いているのを見通すことが出来た。
一つ息を吐き改めて頭上に目を凝らす。視線の先にある仄明るい今日の渋谷の空は、マッチングアプリと消費者金融と家電量販店の看板広告に縁取られて汲々としているように思えた。
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