第4話
佐々木美和と駅前で別れたあと、ロータリーからタクシーに乗り込み、駅から十キロほど離れた場所にある晴文の自宅へと向かった。
平日の昼間ということもあってか、駅前の中心街にも人はまばらで、ぱらぱらと歩道を歩いている人のほとんどは自分の母親と同じくらいの高齢の女性ばかりだった。駅前のアーケード通りもかつての賑わいはなく、中高生の頃よく映画やドラマを借りたレンタルビデオ店はシャッターが下ろされていて、当時付き合っていた女の子と学校帰りにしょっちゅう立ち寄ったデパートは建物全体が学習塾になっていた。
初めて就職支援講座に参加した日の晴文は、こうやって自宅へと戻るタクシーの車内で、それまでの気落ちした様子が嘘のように、明るく興奮気味に将来への展望を語った。講師である佐々木美和の親身な対応と的確な指導を賞賛し、どんな話題になっても三言目には「佐々木さん」という言葉を発した。どこか浮かれた晴文の態度からは誰が見ても佐々木美和への好意は明らかだった。
その日以来、晴文は就職活動に驚くほど積極的になり、一定期間を試用期間として設け、その後雇用側が本採用するかどうかを決めることができる『トライアル雇用』という制度を採用している企業を中心に採用試験を受け始めた。毎週末は市役所での講座に通い、しばらくするとペーパードライバーを返上して自分でも車を運転するようになった。
それらの変化は実にめざましく、本来であれば喜ばしいことであるはずだったが、晴文の行動がやにわに積極性を増していくごとに俺にはその姿がなぜか痛ましく映り、やり切れない気持ちが募った。
晴文の家の前でタクシーを降りた。そのままインターフォンを押さずにドアを開けて中に入る。取材を重ねる中で、家を訪れる際は事前に大まかな時間さえ伝えていれば、勝手に入って二階の部屋まで上がって行って良いという了解が出来ていた。
靴を脱いで玄関の上がり口に立ち、階段へと向かう短い廊下に足を踏み出す。ふと斜め前方にある半分開きっぱなしになっている扉の方に目をやると、隙間から仏壇に飾られた晴文の母親の遺影が見えた。
「今日も少し遅かったね」
二階の部屋に入ると、晴文がいつものようにヘッドフォンを外して振り返り、眼鏡の奥の眼を細めて言った。
カメラの電源を入れて晴文にレンズを向ける。画面のなかの晴文は疲れが溜まっているのか目の下にうっすらくまが出来ていて、少し頬がこけているように見えた。
「ちょっと腹減っちゃってさ。駅で昼飯食ってたら思ったより時間かかっちゃった」
「一人で?」
「ああ一人ですませてきた」
「そっか」
晴文は口角を上げて微笑むと、再びパソコンに向き直った。
「昨日面接の撮影いけなくてごめんな。どうしても抜けられないレギュラーの仕事があってさ。それでどう、最終面接進めそう?」
「うーん、結果がどうかはわからないけど、いつも佐々木さんと練習してる通りには出来たと思うよ。今ちょうど佐々木さんとその報告のメールやりとりしてたとこ」
その穏やかな口ぶりからは少なからず手応えがあったことが感じられた。今回受けている法律事務所は今求人が出ている中では晴文が最も希望している就職先だった。これまで学んできた知識を活かすことができ、尚かつその事務所ではまだ資格のないスタッフに対して行政書士の資格を取る為の様々なバックアップを行っているとのことで、晴文の思い入れも格別だった。
晴文にカメラを向けながら、殺風景な部屋のなかに唯一そびえる本棚を見やる。そこには司法試験の参考書や資料集、問題集などが何十冊と隙間なく並んでいて、マンガや小説といった娯楽と呼べる書籍は数えるほどしか見当たらない。その徹底した姿勢は、屋上で夢を語り合った中学時代からこれまで、晴文が目標を目指して積み重ねてきたひたむきな年月を思わせた。
「今さら俺がこういうこと言うのもなんだけどさ、晴文はもう弁護士に未練はないの?」
晴文がキーボードを叩いていた指を止め、身を固くしたのがわかった。
「ないよ。俺、大学院中退してるから受験資格を得るための予備試験から受けなきゃなんないし、それを通っても本試験の受験チャンスは三回までだしさ。もともと亮平から今回の番組の話がなくても、そろそろ年齢考えて司法試験の勉強には見切り付けなきゃなっては思ってたんだ」
取材の最初に行ったインタビューで晴文が今の状況に至る経緯は聞いていた。
関東の法科大学院に通っていた二十三歳の時に母親を交通事故で亡くし、そのショックから茫然自失の状態となって大学院を二年の在学の後に退学。その後一度は弁護士の道を諦め地元に戻ったものの、時間が経つにつれ弁護士への想いが蘇り、この二年間は実家で司法試験の勉強に励む日々を送ってきたとのことだった。過去二年間の司法試験予備試験は一応申し込みだけ行い、まだ実力が不十分であるとの自己判断から、いずれも当日に受験を辞退したらしい。
「でもほら、せっかくだから一回くらい試験にチャレンジしてみてもいいんじゃないか」
「いいんだ。二年も勉強続けてきて自分が合格できるレベルじゃないってのはわかってるし、もう気持ちの整理はついてるから。それにそんな中途半端な気持ちで就職活動するのは佐々木さんにも悪いしさ」
晴文が顔を俯かせたまま呟いた。机に向かう晴文の斜め後ろからレンズを向けている俺にはその表情を伺い知ることはできない。カメラを持つ右の手のひらが汗で湿って少しベタついた。
「今受けてる法律事務所に就職できれば父さんも、そしてきっと母さんも喜んでくれると思うから、今はそこに受かることだけに集中してる」
「そっか」
いつになく思い詰めた晴文の口ぶりに、それ以上踏み込んだ発言をすることをやめた。気づくと窓の外の空はうっすらとした雲に覆われていて、部屋全体に薄闇が落ちていた。
それから今後の撮影の段取りなどの確認をし、一時間ほど世間話をした後で俺は引き上げることにした。
「なんかナーバスな時に来ちゃって悪かったな。もし昨日の面接結果わかったら連絡くれな」
「一人で結果待ってると思い詰めちゃうし、良い気分転換になったよ。結果きたらすぐ連絡する」
晴文は振り向きいつもの笑みを浮かべてそう言った。
階段を降り、家の外に出て一度後ろを振り返る。こうやって正面から向き合った晴文の家は、中学の頃に遊びに来た時の印象とほとんど変わらず、なんだか時間が止まっているように感じられた。
私鉄の電車でターミナル駅まで戻り、新幹線乗り場の改札を通ったのは午後五時のことだった。
一番早い列車の出発時刻まで二十分ほどあったので、待ち合い室のソファに座って新幹線の到着を待つことにした。座った席の斜め前方に設置された大型テレビではローカル向けのニュース番組が放送されていて、全国的に有名な地元出身の陸上選手がスタジオでインタビューを受けていた。
十年近く前、大学に進学する為に上京した時もこんな風にこの待ち合い室で出発を待っていたことを思い出す。あの時は不安というよりは、妙な気持ちの高揚から、そわそわと落ち着かなかったことを憶えている。
俺は中学卒業後も、「好きなことをやりなさい」と寛容に振る舞う両親のもと、『映画監督になる』という夢を健やかに育んでいった。高校では放送部の活動に打ち込み、卒業後の進路にも迷わず東京の芸術大学の映画学科を選んで、現役で合格した。
そこまでの歩みは順風満帆で、当時の俺はどこか全てが思いのままにいくような感覚を憶え、満ち足りた日々を謳歌していた。今後場所や周囲の人が変わっても、自分の歩みはこれからも順調に進んでいくのだと盲目的に信じていた。その物語に初めて綻びが生じたのは、大学に入学した直後、同級生の高橋和成という存在に出会った時だった。
ジーパンのポケットに震えを感じスマートフォンを取り出すと、母親から遠回しに帰省を催促するメールが入っていた。否応なく罪悪感を疼かせる母親のメールに苦々しさを憶えながらも、努めて平静を保って多忙のためしばらく帰れない旨を返信した。
働き始めてからかれこれもう三年以上、実家には帰っていない。この二ヵ月のあいだ撮影で頻繁に地元と東京を行き来するようになってからも、一度も実家に顔を出しておらず、それどころか帰って来ていることを知らせてさえいなかった。けして家族の顔が見たくないわけではないけれど、それまで彼らと育んできた夢や理想が根拠のない虚像だったと知ったあの日から、俺は両親と向き合って話すことなどなくなってしまったのだ。
東京行きの新幹線の到着を知らせるアナウンスが流れ、立ち上がって出口へと向かう。去り際に見えたテレビの画面にはゲストの陸上選手がメダルをクビにかけた笑顔の写真が映し出されている。自動ドアをくぐる瞬間、その選手が惑いのない声で夢を持つ大切さについてことさら力強く語るのが背中に聴こえた。
階段を上りホームに立ったところで、再びポケットが振動したので母親からの返信だと思いうんざりしながらスマートフォンを取り出した。
金属が激しく擦れ合う騒音が聞こえ、ライトを点けた新幹線がホームに入ってくるのがわかる。
スマートフォンを操作しメールを開くと、届いていたのは晴文からの一次面接の結果を知らせるメールだった。
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