My EVANGELION/エヴァンゲリオン論

子持柳葉魚改め蜉蝣

My EVANGELION

 浅学の知識しかない私に、エヴァンゲリオンなど論じられるのか、全く自信なく書き始める。日本だけじゃなく世界中にファンがいて、超詳しい人、超理解してる人、それはそれはディープコアなファンもたくさんいるエヴァンゲリオン。日本が誇る天才アニメクリエーター庵野秀明氏がそれこそ命がけで作っていると言っても過言ではないエヴァンゲリオン。私などは蟻、微塵子以下かもしれない……。




 ◯オタク嫌いだった私


 嫌いだった、というかあまり良くは思っていなかった。これは父の影響だと思うのだけど、幼き頃、週刊少年ジャンプを毎週欠かさず購入していた。父はあまり子供の趣味に干渉する人ではなかったが、ある日、子供部屋に入ってきて、そのジャンプを手にとり読み始めると、突然「こんな下らない漫画があるか!」と私のすぐそばで怒鳴った。父は決して漫画嫌いではなく、手塚治虫漫画を買ってきて私に勧めるような人であった。元々美術家志望の父でもあり、それ故芸術に関心が強く、ルネッサンス時代以降の様々な画集を収集したり、当時の流行している音楽アルバムをたくさん買うような、そんな人であった。なのに、表現の自由を謳歌するようなその父が、そうやって怒鳴り、その場で読んでいたジャンプを床に叩きつけた。



 私は猛反発し、ブチ切れた。「だったら読むな!」と。泣きながら父に猛抗議すると、「そんなに怒るんだったら、俺を殴ってみろ!」と父は私を恫喝した。本気なら殴れる、というわけだ。――私は怒りの拳を爪が掌に食い込んで内出血するほどに握り締めながらも、遂に殴れなかった。父はそれで部屋を出て行った。悔しかった、悔しくて悔しくて、寝るまでずっと泣いていたと思う、そのジャンプを胸に抱いて。それからも数年はジャンプを購読し続けたが、あんなに父に反発した筈なのに、何故かずーっと頭の片隅に「もしかしてこれは父の言った通り下らないものなのかもしれない」とぼんやりと疑問を持ち続け、そうやっていつの間にか、ジャンプも立ち読みで済ませるようになり、漫画の世界に興味を失っていったのだった。で、漫画やアニメの世界の没頭するオタクたちを「あんな下らないものよく趣味にするなぁ」と心の中で、まるであの日の父のように馬鹿にするようになったのである。


 しかし――。私の妙な性格はそれでは終わらなかった。とは言え、気になるのである(笑)。漫画やアニメが全て嫌いになったわけでもなく、例えばジブリは好きだったし、ルパン三世などは大好き。オタク臭が強いと思える界隈を忌避していただけだ。あと、群れるを好まなかったというのもある。で、オタク界隈を中心に爆発的にヒットしたエヴァンゲリオンを、ずーっと忌避していたにも関わらず、「あんな下らねぇオタク趣味の権化のどこが面白いんだ?」と思いつつ何年も横目で気にし続けていたのだった(アホである)。エヴァンゲリオンブームもさり、とっくに鎮静化していたある日のこと、近所のTSUTAYAに行くと、「エヴァンゲリオンDVD他、アニメDVD半額貸し出し中!」とあるではないか。半額なら借りてやろうと、ふとその時思ってしまったのが運の尽き。見事にハマった(笑)


 で、パソコンでそのDVDをリッピングコピー(コピープロテクトを解除してコピー作成すること)し、コピーDVDが傷でうまく読み取れなくなるくらいまで何度も何度も繰り返し見るくらいに取り憑かれたわけである。ネットで情報を調べ、解説を探し、解説本にまで手を出し、と言った具合。ネット上のコミニュティに参加するには至らなかったが、もはやエヴァンゲリオンは私に呪縛霊として取り憑かれたかの如く――。それでもなお、オタク界隈にはまだまだ拒絶反応は残しているのだけどね。



 ◯エヴァンゲリオンと自分。


 前述したとおり、エヴァンゲリオンという作品は私と父の関係そのものだった。そして母は優しかったから、まさにエヴァンゲリオンを通じてよく語られるエディプスコンプレックスそのもの。碇シンジが自分で、碇ゲンドウが当然父、碇ユイが母と完全一体一の写像関係だ。そして、碇シンジの「逃げちゃダメだ」は漫画を床に叩きつけた父の「下らないもの」という考えたから逃げなかったこととも言えるし、私は延々とエディプスコンプレックスに苛まれていたわけだ。で、エヴァンゲリオンにハマったことで父に復讐を果たしたのである(違うかw)。


 エヴァンゲリオンは多数の解釈者によって、様々な解釈がなされているのだけども、多くの人が自分自身に投影する。庵野氏がそうであったのだろうし、そこが人気の最も主要な要因であったわけでもあり、しかし自分自身に投影した作品を作って世間にひけらかすことなど馬鹿馬鹿しいことであると、庵野氏は旧劇場版「まごころを君に」でファン相手にやってのけた。よく言われるように、オタク批判の文脈で読まれることも多いそれは、私はそうではなくて、庵野さん自身に向けてそう主張したのだと思う。それが旧劇場版のアスカによるラストのセリフ「気持ち悪い」の意図するところだったのだと、私は思っている。実際、その台詞はこんな庵野氏の意図で実現されたらしい。


「もし宮村が寝てて部屋で、自分の部屋で一人寝てて、窓から知らない男が入ってきて、それに気づかずに寝てて、いつでも襲われるような状況だったにも関わらず、襲われないで、私の寝てるところを見ながら、あのさっきのシンジのシーンじゃないですけど、自分でオナニーされたと、それをされたときに目が覚めたらなんていう?」


 話を戻す。――ずっとずっと、私は父の言った「下らないもの」と戦い続けていたのかなぁと。今でもそうかもしれない。父はいわゆる昭和世代の古い人だから、家では尊大に振る舞い、家族はみんなが父に平伏す、いつもビクビクして私などは家族団欒を装う夕食時間はいやで嫌で仕方なく、いつブチギレるかもしれない父と一秒でも一緒にいたくなかった。でも優しい母の願いは聞かざるを得なかった、「お父さん怒るから」と。母も怖かったけど、泣き虫の私はしょっちゅう母の膝の上で目を晴らした。こんなの、本当にエヴァンゲリオン世界観そのものであり、共感する以外にないではないか(笑)


 過去のTV版エヴァンゲリオンは今の若い世代はあまり共感しない、だなんて話も聞くけど、もしかすると父が怖くなくなり、母も働くのが当たり前の時代になって、親子関係がまるで友達のような関係に変化してきたからかもしれない。


 父は別に、人類補完計画など実行していたわけではないけれど、人類を救うと言って、妻ユイと再び一緒になることだけ、そのエゴだけで人類補完計画を完遂させようとしたと言えるから、それは父が自身のエゴで家族を支配しようとしたという意味でそっくりに思えた。共通点だらけの自慢みたいになるけど、他にも共通点が沢山あって、例えば碇シンジがTV版壱拾弐話「奇跡の価値は」で「よくやったなシンジ」と碇ゲンドウにたった一言言われて喜ぶシーンがある。もうね、これなんか嫌になるくらいそっくり。あんなに嫌だった父に褒められると、私も本当に嬉しかったから。成績で褒められたり、描いた絵で褒められたり、父に褒められると、ものすごく嬉しいのだ。大好きな母に褒められるより何倍も嬉しかった。私はそれほどにまで、父に心を支配されていたのだった。


 シンジが「楽しいこと見つけたんだ。楽しいことばっかりやって何がいけないんだよ!」と壱拾六話とその内心で葛藤するシーンがある。これも父である。私は小学生の頃、UFOにハマった。空飛ぶ円盤宇宙人の乗るUFOだ。父もSFが大好きで、父に影響されて私も大のSF好きである。宇宙の話をよくしたし、「宇宙人がいたっておかしくない、宇宙はものすごく広いから」のような父の話も聞いていたから。だから、UFO好きは父も喜んでくれるだろうと思っていたら、そうではなかった。その時はジャンプのように父は怒ったりはしなかったが、UFOの存在を信じるが如き話をウキウキ父にしていたら、父は少し残念そうな表情で「あんまり信じすぎるのも良くない」と言ったのである。その時、まさか父がそんなことを言うとは信じられず、シンジの叫んだとおり「UFOを信じて何が悪いんだよ!」と心の中で思った。父にしてみれば、多分教育のつもりで、嘘くさい話を信じるな程度のものであったのだろうけど、その時はかなりショックだったのが忘れられない。


 そんなわけで、エヴァンゲリオンはまさに私自身の話だったのだった。ていうか、そっくりすぎてビビったわ(笑)



 ◯新劇場版エヴァンゲリオンについて。


 新劇場版は、旧版を踏襲しつつも、印象としてはまるで異なる。ただ、これは今年6月にならないと、完結しない作品なので、どう評価していいのか良くわからない。三作目になるQなんかは、一体何の話なのかさっぱりわからない。世間的には酷評した人もかなりいる。新劇場版を庵野氏が作ろうと思い立った経緯は、日本のアニメに危機感をもったので、自分にしかなしえないエヴァンゲリオンというコンテンツを使って、アニメ世界の発展を目指してその一助となる、というような意志を抱いたからだろうと思います。その根本的なテーマはどうやらこれらしい。新劇場版制作にあたっての庵野氏による所信表明から引用。


「「エヴァ」はくり返しの物語です。主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。わずかでも前に進もうとする、意思の話です。曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話です。同じ物語からまた違うカタチへ変化していく4つの作品を、楽しんでいただければ幸いです。」


 これもまた、庵野氏自身に向けた言葉だろうと思われる。庵野氏自身が、同じことばっかりやってる。その度に傷付いたり挫けそうになったりするけれど、それでもその度に立ち上がり前に進むしかない。こうした想いは他人に共感を得られるかどうかわからないという意味で曖昧な孤独感を抱くのではあるけど、それでも共感を得たいから私の作品を期待する人たちの世界で生きていたい。そういう覚悟を示す作品です――と。


 エディプスコンプレックスといういわばとんでもないど恥ずかしい自慰行為を見せつけることを目的にしてしまった、旧エヴァンゲリオンとは随分違う。酷い言い方かな(笑)


 三作目までの単純な感想を言えば、序と破で共通したのは、旧版にそっくりなのにも関わらず、父から逃れるとか、父から褒められたいとか、そうしたことを行動原理にするのではなく、自らの意志で立ち向かおうとする碇シンジの強い意志だった。破で葛城ミサトが覚醒した初号機にいるシンジに向かってこう叫ぶ。


「行きなさいシンジ君!誰かの為じゃない!あなた自身の願いのために!」


 感動した人も多いと思われるこの台詞。庵野氏の所信表明にも何となく一致するように見えます。ところが――。


 三作目Qで、そのせいでサードインパクトを起こしてしまい、世界はめちゃくちゃになってしまったことを15年後に目覚めたシンジは目の当たりにしてしまう。またその前に、仲良くしてくれていた筈のネルフの旧メンバーやその他の人たちからも冷たくされてしまっていた。破でシンジが助けたと思っていた綾波レイにすら、別人のように冷たい(設定上別人であるが)。それでも何とか、渚カオルがそんなシンジに見かけ上は共感を示してくれたのもあって、じゃぁ自分が壊した世界を自分の力で修復しようと、エヴァンゲリオン第十三号機に乗り込む。


 しかし、それは信じていたたった一人の渚カオルの裏切りとも言える非協力的な態度を示された上に、カオル自身がシンジの目の前で死んでしまい、最悪なことにフォースインパクトまで始まってしまう有様。……あのですね、これってもはや「絶望」ですやん(笑)


 まぁ、確かに、旧劇場版では結論としては絶望感が残っただけでした。あの世界のシンジ君はただただ絶望感の中で生き、戦い、苦しんだだけです。だから、新劇場版はその対比として、テーマを一言で言えば「希望」にしてあるのだろうと思われます。だから、最終作シン・エヴァンゲリオンではその絶望から立ち上がって前に進むシンジが描かれるのであろうとは、容易には推測はできるんですが……。


 新劇場版の現時点での感想はそんなところだけど、何はともあれ、面白いのは面白いエンターテインメント作品です。旧版のように自分自身のトラウマみたいなところへの共感は少ないですけど、6月が楽しみですね。ワクワクします。


 以上、浅学の私からのエヴァンゲリオン論でした。

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