第18話
ルフトハンザ航空78便ミュンヘン行き
隣に座った加代子はさっきからしゃべりっぱなし。とても嬉しいのだろうか。
もう出発してから8時間、シベリアの上を飛んでいる。窓からは沈みそうでなかなか沈まない地平線上の太陽がまぶしく光っている。この刺すような光はわたくしの心の中まで突き通してくれる。いろいろのもやもやを焼き尽くすように。
でもなぜか心は晴れない、置いてきたものの大きさがずっしりとのしかかってくる。
しばらく微睡んでいたがまもなくミュンヘンに到着しますというアナウンスで起こされた。隣の加代子はさっきまでのテンションの高さとはうってかわって深く眠っている。きっと東京の夢でも見ているのだろうか。
もうドイツだ、とにかくドイツなのだ。これからはここで暮らすのだ、加代子と。日本ははるかに遠い、そう遠いのだ、すべてが遠く離れてしまったのだ。
隣の加代子がわたくしに唇を寄せてきた。瞳が濡れている。寝ていると思ったら静かに声を殺して泣いていた。
「啓一さん、ありがとう。とても幸せ。本当にありがとう」
しばらくして大きく一息ついて加代子がじっと俺を見つめて来た。
「でもね、もういいの。あなたはやはり姉さんの夫よ。二五年間連れ添ったのだもの、それは変わらないのよ。私はもう十分満足。ドイツまであなたを誘惑できたのだから。これからはドイツ人として生きていくわ。これ、今夜の東京行の航空券。東京に帰って。明日の午後には着くから。いまなら姉さん、ドイツまであなたが行ったことに気が付いていないわ。
一気にそういうとむしゃぶりつくように唇を重ねてきた。
俺はひしっと加代子を抱きしめた。抱きながらうめくように言った。
「本当にいいのか」
「いいのよ。楽しい夢をみさせてもらったわ」
俺は泣けてきた、けれど情けないほどに体の力が抜けていく。泣きながらほっとしている。本当に優柔不断だ、俺は。いつも女の決定で動いている。それで自分を許している。何という卑怯なやつ。でもでも心は揺れる。加代子とのこの五か月の甘く素晴らしい時間。もう得られないと思うと本当にやり切れない。しかし同時に智子との冷静な関係にも未練がある。いい年になってこれから大きな賭けに出る勇気はやはりないというのが本音だ。二五年の家族が丸く収まればそれがいいのだろう。
ミュンヘンでの滞在三時間で俺は再び機上の人になった。ルフトハンザ航空東京行77便。
翌朝定刻に羽田に着きまっすぐ鎌倉に行った。 鎌倉の別荘の扉を半年ぶりにあけた。中はめちゃめちゃに散らかっていた。
そして奥の居間のほうからは、必死に呪文を唱えている狂った女の声が聞こえてきた。
ルフトハンザ航空ミュンヘン発東京行き @aihajime
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