第17話

何か特別大きな使命を負ったかのように、その後俺は全てのエネルギーをドイツ行きに集中した。仕事は当面後継者に全てを任せるべく手はずを整えた。幸いなことに今はネットの時代、これでどこにいてもかなりのことは代替えできる。

美佳は順調に回復していた、さすが若いということは大きい。問題は智子だ、毎日のように電話が来る、会社にも。いろいろ三十分は話すだろうか、機嫌はいいし以前よりはずいぶん優しくなった。一つ変わったことは話終わった後またすぐかけてきたり、時には夜中に電話が来る。知り合ったばかりの恋人同士ならまだ声が聞きたかったからとかもう少し話していたかったからとかわかるのだが、決まって今何していたかとか聞いてくる。夜中だから寝ていたよと言ってもいつ寝たのかどこに寝ていたのかとか細かい質問が続く。何かとても不安定になっているようだとは理解できる。不安定の理由はよく分かる、どんなに相手がストレスでも一人で居るよりはいい。けれどその一方で鎌倉に行ったのは自分の勝手だろうし俺と離れて暮らすのを選択したのは君の方だよと呟く俺がいる。加代子の事はさておいてこんなふうに思ってしまう俺もかなり酷いやつだとは自分でも感じるが、でも鎌倉に行かれた被害者意識を本音から拭い去る事はできなかった。

それから三週間後、街にはクリスマスの音楽がかかっている。美佳は来週には退院が決まってとても上機嫌、智子も全てのことがうまく行ったと思っており、いつになく俺に優しい。

美佳の病室で久しぶりにゆっくり話ができた。随分若さが戻ってきた。

「本当もう退院どきよ、ここのまずい食事は飽き飽き、ここって病院は綺麗だけれど、本当食事は全く酷いわ。ほんと患者のこと何も考えていない。早くとびきり美味しいお寿司マグロの大トロでも食べに行きたいわ。あと鎌倉の鰻も悪くないわね」

「まあ順番に、まずは日本橋の寿司屋から始めようか」

「そうね、先生ももう生活はどんどん普通にしていいと言ってくれたから」

「食事の文句が出るのは上等だよ、ほんの一月前は何も食べられなかったのだから」

「それはそうだけど、食事って基本の基でしょ、患者の回復にも大きい影響があるはずよ」

「はいはい、ご不満十分にお伝えしておきます」

「ははは」

久しぶりの大笑いだった。

病院の帰り道、つい半年前に美佳が結婚式を挙げたホテルの同じロビーに立ち寄った。

「美佳の結婚式でここへ来たのがつい先日のように思い出されるよ」

「そうね、それから色々の事があったわね、ありすぎ。でも私、今またあなたとこうしてここでお茶飲めるなんて神様に感謝してよ。本当に全てが治ったからこうして座っていられるのだわ。あなたに本当に感謝、ご苦労様だったわ」

「まあ、とにかく長崎があったのが最大のラッキーだ」

「そうね、あの方にはとても言い尽くさないほどの感謝だわ」

そんな時に智子の顔がほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ陰ったのに俺は気がついた。でもそのまま続けた。

「あの人長崎から来て、実費だけもらってそれ以上は何も受け取らなかったよ、全く奇特な方だよ。でも遺伝子が似ると顔もよく似るものだという事がわかったよ、本当に。まるで向こうの方が親子みたいだったからな。」

「そうね、長崎だか北海道だか感謝感謝よ、これはでももう過ぎた事。あとは美佳の赤ちゃんを見たいわ」

「おいおい、まだ退院前だよ、そんな先走ってプレッシャーかけない事、当面は静養が必要なのだからな」

「わかっている」

「ほんと今日はゆっくりとしたいい気分だわ、クリスマスツリーがとても綺麗ね」

「そうだな、本当にいい日和だ、ははは」

俺はどうしても言い出せなかった、明日俺はドイツ行き飛行機の中だとは。

今ようやく俺たちの家族は元に戻ろうとしているのかもしれない。でもタイミングはもう遅すぎる。今頃家では加代子が明日の荷作りをしている。智子がいない分ゆっくりと自分の家から出かけるみたいに荷物を広げているのだ。何かがうまく行きそうになる頃にはもう場面が替わってしまっている。どうしてこんなにずれてしまうのだろう。

「じゃあこの次は美佳の退院の時にね あなたもとても生き生きして来たわ、頼もしい。なぜかシワも少なくなったみたい、ではまた」 

智子は上機嫌で新幹線のホームに向かっていった。

とてもほっとした気分だ。清々しい。確かに世の中には卒婚というのもある。長く一緒にいたのだから、それぞれが好きなことをして着かず離れず暮らすというのもあるだろう。そういうことって、ドイツ人みたいに面と向かって言うとはっきりしすぎるかもしれない。こんな風になし崩しでやっていくというのもありだ。でももう賽は投げられている。明日の午後には出発なのだ。このまま行くしかないのか、行くべきか、もうわからない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る