第16話

美佳の面会謝絶が解けるまでの二週間、毎日がとても濃かった。朝一番で先生からの報告を受け、それを智子に伝える。智子はもうこのことは終わったことのようでとても上機嫌だ、これからの色々な計画を話してくれる。昼間は結構たまった仕事を片付けるので忙しい、けれど夕方になるとそわそわして来てしまう。何故かこの後に起こることに時めいてしまうのだ。毎日加代子が心を込めた料理を出してくれる、こんなことがあるようになって一切の宴会や会合の誘いは全て断っている。直帰だ。どんな料亭の優れものより出来立ての家庭料理は美味しい、それに加代子付きだ。毎夜のささやかな宴会とその後の濃密な時間、これが俺の体に決定的に彫り込まれていった。智子に会うのが怖い、女はきっとこの変化を見逃さないはずだから。でも長年理性で仕事して来た、家族のために、その結果がこれだよ、もう俺には真っ当に生きる意味がなくなっている、その時の思うままだよ、この一瞬に溺れてしまう。何が悪い、これでいいのだ。

美佳の明日面会謝絶が解けるという日、いつものように、そう、もういつものようにという言葉がおかしくないほどに俺は加代子と抱き合っていた。そして俺の胸に顔を埋めながら、突然加代子は言った。

「私ね、来月ドイツに帰るつもりなの」

「え、何でまた、ハンスのいないドイツでどうするわけ」

「大丈夫よ、職を探してくれる友人ぐらいいるし、ドイツはとても今景気がいいの、どこも人手不足、こんなおばさんだって雇ってくれるところは見つかると思うの、それに家だって空き家にしたままだし」

「ちょっと待ってくれ、俺をこんなにしておいて、俺は、俺は勝手だけれど、今の状態が続くのがいいと思っていた。智子は鎌倉、そしてお前が俺の周りにいる」

「ありがとう、初めてお前って呼んでくれたわね、私それで十分。私もうたくさん私の中にあなたを刻み込んだから。実はね、日本に戻った最初の日、智子姉さんがここへ来たじゃない、そして約束したの。いろいろ落ち着いたらまたドイツに帰るって。お姉さんに『あんたは私たち夫婦を裏切ってドイツに行ったのよ、もう日本にいる場所なんかないの、早く向こうに戻って』と言われたわ。

確かに姉さんは昔の私とあなたのことを忘れてない、あれは若かったから。ほんと勢いでそうなってしまったのだけれど、でも本音だった。私どんなにか姉さんがいなくなってくれればと思ったことかしら、でも所詮それは後から来たものの横恋慕。私満足よ、もういっぺんこうしてあなたとの時間を持てたから、私の体はもうあなたを忘れない」

そう言ってまたしがみついて来た。

今日は美佳の面会謝絶の解ける日、でも俺の心は全くそぞろだ。一体どうしたらいいのだろう、俺は自分で自分の心がわからない。誰か教えて欲しい、俺はどうすべきなのか。

二週間ぶりの美佳は本当に精魂尽き果てたような状態だった。二言三言交わしたと思うとすぐ寝入ってしまう。でも明らかに血色は良くなっている。ホッとした。周りの誰もがこれで大丈夫と感じたはずだ。先生からは全てが順調です、でも回復には後三ヶ月くらいはかかりますと告げられた。それはいいだろう、これからはいい季節だ、湘南の春風に吹かれてゆっくり静養すればいい、鎌倉の別荘もその意味ではとてもいい拠点になる。

移植後初の面会が終わって智子が言った。

「本当によかったわ、これも何も全て長崎さんのおかげよ。あなた、今日はこれからどうするの、よかったら食事にでも行きましょうよ、美佳の回復祝い」

ホテルの最上階のレストランで特上のローストビーフを食べながら俺はまじまじと智子の顔を見ていた。

食事はもちろん美味しい、景色も雰囲気もいい。でも周りにはウエイターや他の客がたくさんいる。そしてこの後智子は鎌倉へ俺は品川へだ。これと加代子の手作り料理とくつろぎの時間。やはりこの差は大きい。俺が間違っているのだろうか。食べました美味しかったです、さようなら、より食べながら碎けて行く方に流れてしまう。

その晩ひときわ激しく乱れた後で胸の中に顔を埋めながら加代子が言った。

「私悪い女になろうかと、私たち言って見ればもう晩年よ、他人のことなんて気にしている時間がないの、思いの儘に生きようかと、それってあなたも同じでしょ、だからね、私来月ドイツに帰るわけなのだけど、あなたも一緒に向こうに行かない、いいえ行って欲しいの、絶対に。私もう離れられない、この時間がなくなるなんてとても耐えられない」

この時俺はそんな加代子の願いを全く当然のことのように受け止めていた、何も不思議はなかった。こうした毎日が続くのは当然のように思えていた。

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