第3話
板間より差し入る月明かりが、
狭き床の中央には、塩を焼くための囲炉裏が設えられていた。その他には何物も存在しない。寂しい塩屋であった。
ひとまず慈雲は、手にしていた笠を枕に置くと、冷たい床の上に衣の袖を
暫くして、ほとほとと扉を叩く音に、慈雲はふと目を覚ました。
初めは沖の浜風が
―――かような
心の中で呟くと、慈雲は不審ながらその物音する戸に手をかけ、外の様子を注意深く
するとそこには、最前、この浜辺で出会った漁師が、綻びの激しい布を腰に巻きつけた姿で佇んでいた。
「これは、漁師殿」
「坊様。やはりここに
そう言うと漁師は、相変わらず怪訝そうな顔つきで、眼前の僧侶を凝視した。
「あれほど、この塩屋に立ち寄ってはならぬと申しましたのに……」
「いや
その言葉に漁師は、何故か物悲しそうな表情を見せると、先ほどと同じように手にした
「
「はて、何ゆえか」
「最前に申したとおり、この浦には夜な夜な女二人の幽霊が出ると聞きます。
「ほほう。それはまた奇特なること」
「坊様。恐ろしくはないのですか」
「何も恐れることなどございません」
その言葉に、漁師は半ば呆れたような顔で慈雲を見つめると、無言のままで投網を掴み、物も告げずにその場を立ち去っていった。
それを見届けた慈雲は、そのまま夜の浜辺へと足を向けると、冷たい月明かりに照らし出された一本の松の木に近付いた。
「松風、村雨の旧跡か―――」
一人呟く慈雲の言葉が、沖を渡る浜風に掻き消された。
と、その時。彼方の浜辺に、何やら白く浮かび上がるものが目に付いた。
一瞬、浜に打ち上げられた流木か何かが、月明かりに照らされほのかな光を放っていたのかと思ったが、よくよく目を
ふと見上げると、ちょうど月が中天に差し掛かっている。
ひとまず慈雲は、眼前の松の木に身を隠すと、彼方にある女の様子を暫し窺った。
二人の女は、見るからに年若であった。
手には、それぞれに小さな
しかし、このような夜更けに汐を汲むことなどあり得るのだろうか。
「もしや、最前の漁師殿が申す女二人の幽霊……」
思わず心の中で呟く。すると、打ち寄せる波の音に紛れて、女たちの小さな歌声が慈雲の耳元に届いてきた。
「わくらはに 問う人あらば 須磨の浦
――― 夜の浦には、寄せる波の音のみが響き渡る。人里を離れ、行き通う人もいないこの道には、月より他に友とするものはない。賤しき業に身を任せ、幸薄き境遇に心の涙を流す。しかし、うらやましくも澄む月が海に出づる上は、変わらず夜汐を汲まねばならない。寄り藻を掻く海人でさえ捨て置く海草と同じような身である我らは、人知れず流す涙に袂が朽ち果てて行く有様を、今日も虚しく見つめることしかできないのだ―――。
「海人の捨て草いたづらに 朽ちまさり行く袂かな」
優しくも悲しげな女の声が、夜の浜辺に小さく響き渡っていく。
やがて二人の女は、手にした桶を潮車に乗せると、静かなる足取りでかの塩屋へと向かった。
白き浜辺に、車の跡が微かな線を引いていく。
しかし、どういうわけか、女たちが歩を進めていくその後ろには一切の足跡が残っていなかった。
不審に思う慈雲。すると、再びあの言い知れぬ胸騒ぎが、自身の中に起こるのを感じた。
考えるよりも早く、慈雲は手にした数珠を強く握り締めると、女たちの消えた塩屋へ向かい、その扉を叩いた。
「申し。誰ぞ居りますかな」
程なくして、屋の内より一人のうら若き女性が姿を現した。その身には、先ほどと同じく白き衣を纏っている。
「何か」
明らかに不審そうな顔つきで、慈雲を見つめる女。
吸い込まれそうな黒き瞳と、
「いや、愚僧は旅の坊主なのですが、ここに一夜の宿を所望したいと思いましてな」
その言葉に、女は無言のままで首を横に振った。
「見ての通り、ここは
「しかし、里に戻るにはかなりの時間を要する。どうか不知案内の坊主を哀れに思い、一夜だけでもお貸しくださらぬか」
「いや、叶わぬこと」
そう言い残し、女は強引に扉を閉めようと手をかけた、その時、
「暫く」
女の背後から、
「世を捨てたるお方に、宿を貸さぬ謂れなどございません。こちらに控えなさい」
その言葉に、はじめ応対に出た女が静かにその場を退くと、中から同じく白き衣を身に纏った若い女性が、静かに微笑しながら慈雲の前へとやって来た。
見るからに若年の女。海辺に住む身でありながら、その長き黒髪は美しく輝いている。
衣からは潮の香りではなく、明らかに焚き染められた香の匂いが漂っていた。
最前の女とは違い、頬が雪のように白い。また蕾のように小さな唇には、ほのかな紅が差されていた。
「所の海女は人との交わりを持ちません。何卒、非礼をお許し下さいませ」
そう言うと女は、慈雲を
「かたじけなきこと」
静かに呟く慈雲の言葉が、遠く響き渡る潮騒の音に掻き消された。
能楽物語 其の弐 「松風」 浮世坊主 @kuyabou
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