第2話

 寄せては返す波の音が、絶えず耳元に届いてくる。

 降りしきる雨は一向に止む気配もない。

 福祥寺の参道を抜け、一路、南へ下った慈雲は、程なく須磨の海岸にたどり着いた。


 吹きすさぶ風が、群生ぐんせいする松林を激しく揺らせて行く。

 まだ夕刻には程遠かったが、立ち込める雨雲に日が隠れている為に、定かなる時刻は全くつかめなかった。


 浜辺には、粗末そまつな造りの塩屋が置かれていた。

 塩屋とは、海水を汲んだ海人がそこで塩を焼くための小屋である。

 先刻の住職が申す通り、このような時分に潮を汲む者などいるはずがない。

しかし慈雲は、初めてこの浦に立ち寄った際、確かに一軒の小さな塩屋から煙が立ち上っているのを目にした。

 けれども今は、どの小屋に目を向けても煙など見当たらない。

 「やはり、見間違いか」

 一人呟つぶやく慈雲。ふと視線を変えると、彼方の浜辺にひっそりとたたずむ一本の松の木が目に付いた。

 「はて。これほどに群生する松林から、何ゆえあの松だけが取り残されているのか」

 不思議に思った慈雲は、何となしにその松の木へ近付こうとした。

 するとどうしたことか、先ほどまですさまじい勢いで吹き荒れていた風雨が一気に止み、眼前の海原が静かにいだ。

 「これは、一体……」

 さすがに驚きの色を隠せない慈雲。するとそこへ、一人の里の者が声をかけてきた。

 

「坊様。このようなところで、何をなさっているのですか」

 見ると、片手に古びた投網とあみを掴んでいる。どうやら地元の漁師のようだ。

 浅黒く引きしまった肉体が、先程の風雨に打たれたせいか、びっしょりと濡れている。

 身にはほころびの激しい布を腰に巻きつけているだけで、上半身は真裸。無造作に結い上げられた髪は伸び放題で、しかも口元には濃いひげが蓄えられていた。

 「いや、ただ何となく」

 静かに答える慈雲を、その漁師は怪訝けげんそうな顔つきでじっと見つめると、すっかり穏やかに静まった海原に視線を移した。

 「それにしても驚いた。さっきまで狂ったように吹き荒れていた風が一気に収まった。……坊様、もしや何か面妖めんような術でも使われましたか」

 変わらず不審そうに見つめる漁師に、慈雲は無言のまま静かに首を振って見せた。

 

「ところで、あの松の木は、何ゆえあのようなところに生えているのですかな」

 慈雲の問いに、漁師はどこかに落ちないといった顔つきをしながら、手元の網をどさりと浜辺に捨て置いた。

 「あれは昔、在原行平ありわらのゆきひら殿がこの地に下った折、その寵愛ちょうあいを受けた二人の海人の古跡。土地の者は『松風、村雨の旧跡きゅうせき』と呼んでおります」

 「在原……行平」

 思わず呟く慈雲。行平といえば、ちょうど庵室を抜け出したあの夜、空也くうやに教えられた歌人の名前。

 「さようか。ところで数日前に、あれなる塩屋から煙が立ち上るのを目にしたのだが」

 言いながら慈雲は、自身が目にした例の塩屋を指差してみせた。するとどうしたことか、その漁師は何かにおびえるような顔つきで慈雲に視線を合わせた。

 「坊様。失礼ですが他所よその国のお方で」

 「いかにも」

 「ならば悪いことは申しません。あの塩屋には決して立ち寄ってはいけませんぞ」

 「はて。何ゆえか」

 「あそこには、夜な夜な『これ』が出るそうです。このところの時化も、実はあの塩屋に現れる『これ』の仕業ではないかと、みな口々に申しております」

 言いながらその漁師は、己の両腕を胸の高さまで上げると、その手首をだらりと下げて見せた。

 「もしや……化生の者か」

 「何でも、女二人の幽霊とのこと」

 そこまで言うと、漁師は足元の投網をむんずと掴み、蒼ざめた顔つきのままその場を離れはじめた。

 「とにかく、くれぐれも近付かぬように」

 遠くから響く漁師の声が、静かなる波の音に紛れて掻き消えた。

 

 

 福祥寺の住職と話していた折に感じた胸騒ぎは、いまだ収まることはなかった。

 ひとまず慈雲は、最前に見つけた一本の松の木に近付いてみた。

 するとそこには、一首の歌を書き連ねた短冊が結び付けられており、浜風の中を静かに揺らめいていた。

 先程まであれほどの雨が降っていたのに、何故かその短冊には全く濡れた形跡がない。

 不審ふしんに思いつつも、慈雲はその短冊を手に取り、そこに書かれた一首を目で詠じた。


 たちわかれ いなばのやまの みねにあふる まつとしきかば いまかえりこむ


 「行平の歌か―――」

 そう呟いた時、ふと目の前の海原が沈む夕日に照り映えているのを目の当たりにした。

 いつしか雨雲は去り、浦々の景色がきらびやかに輝いている。

 暫し時を忘れ、面前の風景に眺めいった慈雲は、やがてふところから数珠を取り出すと、二人の海人――松風、村雨の旧跡に向かい静かに経を唱えた。


 どれほどの時間が過ぎたであろう。

 いつしか日はとっぷりと暮れ、水平線の彼方には満天の星空が広がっている。

 見上げる月は中天よりやや傾きかけ、絶えず冷たき光を放っていた。

 月明かりに照らされた浜辺が、深い闇の中に白く浮かび上がる

 通り過ぎる潮風が、慈雲の頬を静かにでていった。

 里に戻るにはかなりの距離がある。ひとまず慈雲は、かねてより気に留めていた塩屋へと足を向けると、一夜の宿をそこに求めた。

 

 


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