第1話

 立ち別れ

 因幡の山の峰に生ふる 松とし聞かば 今帰りこむ

 いま かえりこむ―――



 「暫くは時化しけも収まりそうにはないですな……」

 慈雲じうんの言葉に、福祥寺の住職は落胆の表情のまま静かにうなずいて見せた。


 「このひと月、波は全く静まる気配を見せません。所の漁師たちも、思うように船を出すこともできず、皆それぞれに頭を悩ませております」

 「それは気の毒なこと……。須磨すまの浦より眺める朝日は絶景と聞いていたが、もはやそれも望めそうにはございませぬな」

 「まことに」

 そう呟くと、住職は手元の茶を静かに口に運んだ。


 慈雲がこの須磨に辿り着いたのは、自身の庵室あんじつを抜け出してから十日ほど経ってのことであった。

 初めのうちは好天に恵まれ、久しぶりに気持ちの良い道中であったが、程なく摂津せっつの国に入り、更に西を目指すうち生憎あいにくの雨に見舞われた。

 本来ならば海岸線を辿ってのんびりと浦の景色を眺めようとしていたのだが、須磨に近くなるほどその天気は次第しだいに荒れ始めてきた。

 途方とほうに暮れた慈雲は、人家に宿を求めようとしたが、どういう理由か固く戸を閉ざし、なかなかに宿を貸してはくれない。

 そこで、かつての知人である福祥寺の住職を頼り、数日前からこの寺に逗留とうりゅうさせてもらった。


 「このようなことは今まで一度もなかった。里の者どもは、もしや道真みちざね公のお怒りかも知れぬと、板宿の八幡にて祈りを捧げたりもしましたが、それでも波は一向いっこうに静まる様子もございません」

 「さようか……」

 慈雲の呟きが、境内を吹く風にかき消された。

 「しからば、一つ御坊のお力で、この荒波をおしずめになられては如何か」

 「おたわむれを」

そう言うと住職は、口元に悲しそうな笑みを貼り付けたまま、静かに茶を飲み干した。


 「そう言えば」

 暫くの沈黙の後、突如、慈雲は何かを思い出したように口を開いた。

 「実はこちらに赴く途中、浜に並ぶ塩屋しおやのうち、ただ一軒のみ煙が立ち上るのを見かけたのだが」

 「まさか、そのようなことは。ご覧になられた通り、海上は荒れるばかり。このような時分に、塩を焼く者など居りましょうぞ」

 「はて……ならば愚僧ぐそうの見間違いであったか」

 「左様でございましょう」

 呟く住職。しかし慈雲は、どこか説明のつかぬ胸騒ぎを密かに感じていた。

 「慈雲様。如何なされましたか」

 「いや」

 すると、本堂の隅にあるふすまが静かに開き、中から新たな茶を盆に載せた若年僧が二人の元にやってきた。

 それを見た住職は、手元に置かれた茶を受け取ると、無言のままで慈雲の膝元に差し出した。

 しかし慈雲は、そのもてなしを丁重ていちょうに辞退すると、脇に置いた笠を手にすっくと立ち上がった。

 「これはこれは。はや、おでか」

 「長らく世話になりました」

 静かに合掌がっしょうしてみせる慈雲に、住職はまだ何か言いたげであったが、結局、それ以上口を開くことはなかった。


 「道中、くれぐれもお気をつけて」

 「御坊もお達者で」


 にわかに降り続く雨の中、慈雲は鈴のついた杖を静かにつきながら、福祥寺の参道をあとにした。









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