能楽物語 其の弐 「松風」
浮世坊主
序章
古びた
暫しの静寂―――。
先刻から
それ以外の物音は、一切耳に入ってはこない。
時折、目の前の
名も無き村のはずれ。そこに一軒の
その庵室の一角に設けられた小さな寝所に、一人の僧が座していた。
不器用に
元は高野山に僧籍を置く身であったが、故あって山を降り、今ではこの山村に庵を構えている。
庵室には数人の弟子たちが寝食を共にしていたが、あくまで己一人の
それも夜半過ぎ、己を訪ねて来る村人や、何かと面倒をかける弟子どもが寝静まった頃にむっくりと起き出し、一人で茶を点てたり草子を読んだりすることが、この僧にとってかけがえのない喜びであった。
しかし慈雲は、いま明らかに己の背後に何者かの気配が存在することに気付いていた。
しかもそれは
初めは物の怪の類が悪さでもしようと己の寝所に忍び寄ってきたのかと思ったが、微かに感じるその気配は紛れもなく【人間】のそれであった。
じっと息を殺し、背中越しに相手の動静を
背後に潜むその気配は、おそらく凡人の能力では到底感じることの出来ない物であろう。それほどに
やがて慈雲は、草子を置いた経机から静かに右手を下ろすと、自身の膝元に置かれた風呂敷包みをそっと解き始めた。
今、この部屋にいるのは自分のみ。他の弟子どもはとっくに眠りについている。
僧侶である以上、むやみな殺生は行いたくないが、護身のためならばある程度はやむを得ない。
そう、心の中でつぶやいた慈雲は、あくまで冷静にその風呂敷包みを解き終えると、敵に気付かれぬようゆったりとした動きで中に収められた鉄製の法具に手を置いた、その
「ふっ」
慈雲の口元に、
「
すると、先程まで毛先に触れるか触れないか程であった小さな気配が一気に放出されると、背後の
「
「本来ならばお声をかけるべきところ、もしや、お休みになられていては如何かと思い」
「気にすることはない。それにしても己が気配を殺してまで我が寝所に近付こうとは、
慈雲はそう言うと、ようやく体を後ろに向け、皮肉な笑みをその僧に見せた。
「いえ、私はそのようなつもりでは」
「ならば、わしがまた
「御容赦下さりませ、慈雲様」
空也と呼ばれたその僧は静かに剃髪した頭を上げた。理知的な光をたたえた瞳が、真っ直ぐに慈雲の視線を捉える。
空也とは、慈雲の弟子の中でも長なる僧の名であった。
長とは言っても、年齢は慈雲の半分にも満たない若年僧である。
身体はやや細めであったが、貧弱な印象は
しかも面立ちは少女のように
父親は豪族で、生まれながらに裕福な家庭に育っていたが、母の逝去をきっかけに世を
初めは都の有力な寺院で修行に励んでいたが、勤勉で真面目すぎる性格の為にやがて寺内の人々から
もっとも、己の
そんなある日のこと。純粋に仏道を志した空也の耳に、一人の高僧の噂が届いた。
『
こうして最後に
「して何用であるかな、空也よ」
言いながら慈雲は、再び落ち着いた様子で手元の草子をめくり始めた。
「恐れながら、
空也の目にはすでに遠慮の色がなかった。その言葉に、慈雲は人知れず
実のところ、慈雲にとって空也の存在は苦手以外の何者でもなかった。
人々から高僧と言われし慈雲も、もとは
しかし空也は、一切の妥協も
この庵室の中でも、主である慈雲に真っ向から意見できるのは、空也を置いて他にはいなかった。
やがて慈雲は、
「物申したきことか。皆まで言わずとも良い。わしの『
それだけ言うと、慈雲は面白くなさそうにぷいっと空也に背を向けた。
「苦言とは聞き捨てなりません。慈雲様。私は今まで
「……。」
「それに、慈雲様がこの
「……。」
「慈雲様? どうされました。ちゃんとお聞きになられているのですか!」
無反応な師匠の態度に思わず
「これは」
思わず
「古今和歌集……ですか?」
「さよう」
一言だけを返し、慈雲は再び草子に没入した。
「何故にまた、このような時分に和歌集などを
「いや、ただ何となく」
素っ気無い慈雲の返答に、空也は大きく溜め息を
――― 何もこんな夜更けに。本当に何を考えているのか解らぬお方だ―――
心の中で呟く。
「のう、空也よ」
やがて、暫しの沈黙を破ったのは慈雲であった。
「何事でしょう?」
「この歌は誰の歌であるか。知っておるか」
言いながら慈雲は、草子の片隅に
『立ち別れ
「
怒ったような口調で空也が答える。
「ほう、行平とな……。如何なる人ぞ」
「行平は伊勢物語に見る『在原業平』の兄。文徳天皇の御宇に従四位下に昇叙され、
「ほほう、さすがは博識だな、空也よ」
珍しく
「いや博識などとは……ちなみに行平が自邸にて催した『
「おお。そうだった、はたと失念した」
そこまで聞くと慈雲は、突如、己の右ひざを軽く打ちすえた。
「どうされましたか?」
「実は先日、都より帝の使者が参られてな。宮中にて行なわれる『歌合せ』に加わるようにと、
「そんな大事なることをお忘れだったのですか! して、期日は?」
「明日」
「それで、歌のほうは?」
「まだ
「何を
「ならば空也よ。わしの書庫に、和歌を収めた草子がある。済まぬが、それを手元に持ってきてはくれぬか」
「書庫に、ですか?」
「さよう。扉の右、三つ目の書棚の三段目に紫の草子がある。わしがまだ高野の学僧だった
「はあ、三つ目の書棚ですね?」
「うむ」
その言葉に、空也はやや
慈雲の言う書庫とは、庵室の東南に設けられた二十畳くらいの部屋。その中には、慈雲がこれまで愛読してきた様々な分野の草子やら冊子らが収められている。実直な青年僧である空也は、師僧の言われるままに扉の右にある三つ目の書棚に向かうと、
しかし、どんなに目を
「はて? 慈雲様の見当違いだろうか」
疑念を抱きつつも、もう一度、隅から隅まで探してみるが、やはり見当たらない。
「ええい、誰ぞおらぬか!」
いよいよ
「ふぁ~い……、まったく何事ですかぁ? こんな夜更けに」
程なくして、
「今すぐ慈雲様の寝所に行き、例の草子は何処にあるか尋ねてくれぬか」
「はあ? 例の草子って何ですかぁ~?」
「ええい! 聞けば解る。早く行かぬか!」
「そうは言っても……和尚様なら、とっくにお出かけになりましたよ~」
「何と?」
「ついさっき、たくさんの
そこまで聞くと、空也は寝ぼけまなこで
しかし、既に部屋の中はもぬけの
「してやられた! すべては逃げ出す為の
空也は
その様子を、街道筋の大木の影からじっと見つめる慈雲。
「しばらくは庵室には戻れぬな」
そう言いながら、まだ夜も明けきらぬ道を歩むその姿は、どこか嬉しげであった。
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