能楽物語 其の弐 「松風」

浮世坊主

序章

 古びた草子そうしをめくる手が、ふと止まった。

 暫しの静寂―――。

 先刻からにわかに降り出した雨音だけが、静かに響き渡る。

 それ以外の物音は、一切耳に入ってはこない。

 時折、目の前の蔀戸しとみどが夜の風に吹かれてカタカタと小さな音を立てたが、それが止むと、再び周囲は不気味なほどの静寂に包まれた。


 名も無き村のはずれ。そこに一軒のいおりがある。

 その庵室の一角に設けられた小さな寝所に、一人の僧が座していた。

 不器用にり上がった頭髪には、わずかな白髪が残っている。身に付けているものも、決して立派な法衣ではなく、墨染すみぞめの木綿でつくられた粗末な作務衣であった。

 慈雲じうん―――。これが、この僧の名であった。

 元は高野山に僧籍を置く身であったが、故あって山を降り、今ではこの山村に庵を構えている。

 庵室には数人の弟子たちが寝食を共にしていたが、あくまで己一人の気侭きままな時間を過ごすことが、慈雲にとっては何よりの楽しみであった。

 それも夜半過ぎ、己を訪ねて来る村人や、何かと面倒をかける弟子どもが寝静まった頃にむっくりと起き出し、一人で茶を点てたり草子を読んだりすることが、この僧にとってかけがえのない喜びであった。


 しかし慈雲は、いま明らかに己の背後に何者かの気配が存在することに気付いていた。

 しかもそれは常人ただびとのものではない。

 初めは物の怪の類が悪さでもしようと己の寝所に忍び寄ってきたのかと思ったが、微かに感じるその気配は紛れもなく【人間】のそれであった。


 じっと息を殺し、背中越しに相手の動静をうかがう。

 背後に潜むその気配は、おそらく凡人の能力では到底感じることの出来ない物であろう。それほどにかすかな気の力を、この僧は瞬時に察していたのだ。


 やがて慈雲は、草子を置いた経机から静かに右手を下ろすと、自身の膝元に置かれた風呂敷包みをそっと解き始めた。

 今、この部屋にいるのは自分のみ。他の弟子どもはとっくに眠りについている。

 僧侶である以上、むやみな殺生は行いたくないが、護身のためならばある程度はやむを得ない。

 そう、心の中でつぶやいた慈雲は、あくまで冷静にその風呂敷包みを解き終えると、敵に気付かれぬようゆったりとした動きで中に収められた鉄製の法具に手を置いた、その刹那せつな―――。

 

「ふっ」

 慈雲の口元に、安堵あんどの笑みがこぼれた。やがて下ろしたままの右手を再び経机の上に戻すと、草子に目を置いた姿勢のままで静かに口を開いた。


 「空也くうやか。何用かな、このような夜更けに」


 すると、先程まで毛先に触れるか触れないか程であった小さな気配が一気に放出されると、背後のふすまが静かに開き、中から一人の剃髪ていはつした僧侶が平伏の姿勢のままで姿を現した。

 「夜陰やいんに及び失礼を致しました、慈雲様」

 りんとした声が辺りに響く。

 「本来ならばお声をかけるべきところ、もしや、お休みになられていては如何かと思い」

 「気にすることはない。それにしても己が気配を殺してまで我が寝所に近付こうとは、おだやかではないな。空也よ」

 慈雲はそう言うと、ようやく体を後ろに向け、皮肉な笑みをその僧に見せた。

 「いえ、私はそのようなつもりでは」

 「ならば、わしがまたひそかに庵室を抜け出さぬよう、夜目を効かせておったのかな」

 「御容赦下さりませ、慈雲様」

 空也と呼ばれたその僧は静かに剃髪した頭を上げた。理知的な光をたたえた瞳が、真っ直ぐに慈雲の視線を捉える。


 空也とは、慈雲の弟子の中でも長なる僧の名であった。

 長とは言っても、年齢は慈雲の半分にも満たない若年僧である。

 身体はやや細めであったが、貧弱な印象は微塵みじんも感じられない。

 しかも面立ちは少女のようになまめかしく、言い知れぬ気品に満ち溢れていた。

 父親は豪族で、生まれながらに裕福な家庭に育っていたが、母の逝去をきっかけに世をはかなみ、その後生ごしょうとむらう為に出家した。

 初めは都の有力な寺院で修行に励んでいたが、勤勉で真面目すぎる性格の為にやがて寺内の人々からうとまれるようになり、しまいには寺を追い出されてしまう。

 もっとも、己の私利私欲しりしよくに走る傲慢な住職とは元よりウマが合わず、新たな修行の場を求め都の中の寺院を転々としたが、朝廷と結びついたような寺に求道ぐどうの精神は全く見出せなかった。

 そんなある日のこと。純粋に仏道を志した空也の耳に、一人の高僧の噂が届いた。

 『素性すじょうは分らぬが、真に徳の高き僧がある―――』。

 こうして最後に辿たどり着いたのが慈雲のもとであったのだ。

 

「して何用であるかな、空也よ」

 言いながら慈雲は、再び落ち着いた様子で手元の草子をめくり始めた。

 「恐れながら、今宵こよいは慈雲様に物申したきことがございまして参上致しました」

 空也の目にはすでに遠慮の色がなかった。その言葉に、慈雲は人知れず苦渋くじゅうの表情を浮かべた。

 実のところ、慈雲にとって空也の存在は苦手以外の何者でもなかった。

 人々から高僧と言われし慈雲も、もとは気侭きままな性格の持ち主である。

 しかし空也は、一切の妥協も無秩序むちつじょも許さぬ実直の固まりであった。

 この庵室の中でも、主である慈雲に真っ向から意見できるのは、空也を置いて他にはいなかった。

 やがて慈雲は、あきらめたように草子から手を離すと静かに後方へ向き直り、真っ直ぐに己を見つめる空也に視線を合わせた。

 「物申したきことか。皆まで言わずとも良い。わしの『旅行癖りょこうへき』について苦言くげんを呈しに来たのであろう」

 それだけ言うと、慈雲は面白くなさそうにぷいっと空也に背を向けた。

 「苦言とは聞き捨てなりません。慈雲様。私は今まで幾度いくどとなくお願いをして参りました。別に旅に出るなとは申しません。ただ一言、行く先と帰省の時節をおっしゃって頂かなければ、我らも気が気ではないのです」

 「……。」

 「それに、慈雲様がこの庵室あんじつを空けられた間、留守を預かるのは我らです。それも、村の人々が尋ねる位ならばまだしも、他の高僧や貴人の訪れを接待することには無理があります。その辺りをもっとわきまえて頂かないと」

 「……。」

 「慈雲様? どうされました。ちゃんとお聞きになられているのですか!」

 無反応な師匠の態度に思わず癇癪かんしゃくを起こしそうになった空也。しかし慈雲は、変わらず無言のままで背を向けている。その不遜ふそんな態度にいよいよ腹立ちを覚えた空也は、すっくとその場に立ち上がると物も言わず寝所に入り込み、経机に向かう慈雲の手元を背後から覗き込んだ。

 「これは」

 思わずつぶやく空也。見ればそこには、幾つもの三十一文字みそひともじを連ねた草子が広げられていた。


 「古今和歌集……ですか?」

 「さよう」

 一言だけを返し、慈雲は再び草子に没入した。

 「何故にまた、このような時分に和歌集などを紐解ひもとかれるのですか?」

 「いや、ただ何となく」

 素っ気無い慈雲の返答に、空也は大きく溜め息をらした。

 ――― 何もこんな夜更けに。本当に何を考えているのか解らぬお方だ―――

 心の中で呟く。


 「のう、空也よ」

 やがて、暫しの沈黙を破ったのは慈雲であった。

 「何事でしょう?」

 あきれた口調で、空也が言葉を返す。

 「この歌は誰の歌であるか。知っておるか」

 言いながら慈雲は、草子の片隅につづられた一首を指さした。

 

 『立ち別れ 因幡いなばの山の峰にふる 松とし聞かば 今帰りこむ』


 「在原行平ありわらゆきひらですよ。それがどうかなさいましたか?」

 怒ったような口調で空也が答える。

 「ほう、行平とな……。如何なる人ぞ」

 「行平は伊勢物語に見る『在原業平』の兄。文徳天皇の御宇に従四位下に昇叙され、因幡守いなばのかみを拝命し任国に赴任したと聞きます。これは、自国を出立する際に詠まれた歌でしょう」

 「ほほう、さすがは博識だな、空也よ」

 珍しく世辞せじを述べる慈雲に、空也は少し戸惑いを見せた。

 「いや博識などとは……ちなみに行平が自邸にて催した『在民部卿家歌合ざいみんぶきょうけうたあわせ』は、我が国で現存最古の『歌合せ』と言われております」

 「おお。そうだった、はたと失念した」

 そこまで聞くと慈雲は、突如、己の右ひざを軽く打ちすえた。

 「どうされましたか?」

 「実は先日、都より帝の使者が参られてな。宮中にて行なわれる『歌合せ』に加わるようにと、勅命ちょくめいを賜わっておったのだ」

 「そんな大事なることをお忘れだったのですか! して、期日は?」

 「明日」

 「それで、歌のほうは?」

 「まだ初句しょくすら出来ておらぬ」

 「何を呑気のんきに構えておられるのですか! 然らば一刻も早く歌をつくり上げ、明日の歌合せに間に合わせなければ」

 「ならば空也よ。わしの書庫に、和歌を収めた草子がある。済まぬが、それを手元に持ってきてはくれぬか」

 「書庫に、ですか?」

 「さよう。扉の右、三つ目の書棚の三段目に紫の草子がある。わしがまだ高野の学僧だった時分じぶんに綴った歌が、そこに収められておるのだ。多少なりとも参考になるかもしれぬからの」

 「はあ、三つ目の書棚ですね?」

 「うむ」

 その言葉に、空也はややあおざめた顔つきで慈雲の寝所を後にすると、急いで書庫に向かった。

 

 慈雲の言う書庫とは、庵室の東南に設けられた二十畳くらいの部屋。その中には、慈雲がこれまで愛読してきた様々な分野の草子やら冊子らが収められている。実直な青年僧である空也は、師僧の言われるままに扉の右にある三つ目の書棚に向かうと、ほこりを被った草子をひとつずつ丁寧にあらためた。

 しかし、どんなに目をらしてみても、慈雲の言う紫の草子など何処どこにも見当たらない。

 「はて? 慈雲様の見当違いだろうか」

 疑念を抱きつつも、もう一度、隅から隅まで探してみるが、やはり見当たらない。

 「ええい、誰ぞおらぬか!」

 いよいよごうを煮やした空也は、夜陰にもかかわらず庵室中に響き渡るような大声を張り上げた。

 「ふぁ~い……、まったく何事ですかぁ? こんな夜更けに」

 程なくして、欠伸あくびをしながらやってきたのは、弟子の中でも一番格下の小坊主であった。

 「今すぐ慈雲様の寝所に行き、例の草子は何処にあるか尋ねてくれぬか」

 「はあ? 例の草子って何ですかぁ~?」

 「ええい! 聞けば解る。早く行かぬか!」

 「そうは言っても……和尚様なら、とっくにお出かけになりましたよ~」

 「何と?」

 「ついさっき、たくさんの草鞋わらじを手にしながら外に出て行かれたのを見かけましたが……。空也様は御存じなかったのですかぁ~?」

 そこまで聞くと、空也は寝ぼけまなこでたたずむ小坊主を置き去りにし、疾風の如き勢いで慈雲の寝所へ駆けつけた。

 しかし、既に部屋の中はもぬけのから。見れば、経机の前方にある蔀戸が大きく開け放たれている。

 「してやられた! すべては逃げ出す為の妄語もうごであったか!」

 空也は地団太じだんだを踏むと、剃りあがった頭を真っ赤にしながら何やらわけの分からぬ言葉を叫びつつ、寝入っている他の弟子たちを叩き起こした。

 

 その様子を、街道筋の大木の影からじっと見つめる慈雲。 

 「しばらくは庵室には戻れぬな」

そう言いながら、まだ夜も明けきらぬ道を歩むその姿は、どこか嬉しげであった。

 







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