episode 14. 二つ葉のシロツメクサ

 まるで夢を見ているようだ、と少年は思った。

 そうでなくては、こんな美しい人が自分の目の前にいるはずはない。落日の余光をまとい黄金に輝くその姿は、神秘的でさえあった。

 親しい人を失った哀しみも、名前を取り上げられた虚しさも……少年は自分を取り巻くすべての状況をこのときばかりは忘れて、目の前の美しい人に見入った。

「あなたは……だれ?」

 その人は瞳と唇の両方に、静かな笑みを浮かべた。

「私は名前のない魔法使いだ。お前が理不尽に失ったものを与えに来た」

(このきれいな人が、魔法使い……)

 少年は枯草を握り締め、一歩、また一歩とその人に近づいて行った。


 名前を持たないふたりが、互いに互いを認識したうえでの初めての邂逅かいこうだった。


* * *


 無名の魔法使いは、ずっと見ていた。

 キャロリーヌの錯乱、アルベールの冷淡さ……それによって少年が傷つく様を。

 無名の魔法使いが、少年に害を及ぼすものを排除することは簡単だった。だが同時に、それが秩序にもとる行為であり、少年の幸福に寄与しないことを理解してもいた。だからこそ、グランミリアン夫妻への干渉は避けたのだ。

 そして、なにが少年を幸福にするか――無名の魔法使いは考えた。千年以上の時を存在して初めて、人間を幸福にする方法に知恵を絞った。そして決めた。世界の営みに、私意をって介入することを。つまり、たったひとりの人間に心を砕くことを。


 無心に自分を見上げる、初夏の光を浴びた新緑のような瞳を見返し、心の中で自身をあざける。

(もう何年も前に。その瞳が、その指先が、私に小さな魔法の光を与えたときから、私の心は決まっていたようなものだ)

 それは今日にいたって初めて自分の心に気付いた自分自身の愚かさへのさげすみであり、自分に心というものが存在した事実についての嘲弄ちょうろうでもあった。


 あの時。

 人間たちが「幸運のお守り」という小さな魔法が、無名の魔法使いを文字通り刺したとき。

 無名の魔法使いを形づくる膨大な魔力に、ひびが入った。その小さな小さな亀裂は未だふさがることなく、修復を試みてもまったく修復されない。初めて負った傷は、決して癒えない不治の傷だった。それを与えたのが、当時わずか一歳そこそこの人間の赤子だったのだ。

 フォ・ゴゥルが“愛情のしるし”と呼んだ光が。春の木漏れ日に似た、ひたすらに優しいその光が。つまりは、人間の心が生み出す“愛”という心だけが――。

 無名の魔法使いの存在を破壊する、唯一無二の方法である。

 そのことを無名の魔法使い自身が悟り、それともに未来を受け入れた。いつの日か、自分が滅びる未来を……。


 この世界は、箱庭なのだ。

 無名の魔法使いが管理する、飢餓も戦争もない安息の世界。

 それは、二つ以上の価値観を持つ人間たちが決して築くことのできない、いびつな世界。


 新秩序の成立から、すでに一千年以上が経過した現在いま

 もうそろそろ、箱庭の世界は崩れ去るときが来たのだ。互いに憎み合い、互いの正義を譲らず争い、それでも手を差し伸べ合って綱渡りの平和の上に成り立つ混沌の世界へ、人間たちはかえるべきなのだ。


 そのための、これが最後の自分の役割だ。


 無名の魔法使いは、両手の中に花を閉じ込めていた。そっと手を開くと、そこにあったのは二つ葉のシロツメクサ。

 無名の魔法使いはやわらかに微笑みながら、それを少年に差し出した。

(お前にもらったものを、今、お前に返そう)

 少年は何度か瞬きし、おずおずと両手を差し出した。その手の中に、二つ葉のシロツメクサを乗せる。

「お前の名前は、トレフル・ブラン。今日からお前は、無名の魔法使いの弟子たるトレフル・ブランだよ」

「トレフル・ブラン……?」

 それがシロツメクサを指す言葉だと彼が知るのは、もう少し先の話になる。

「そうだ。私はお前に、食べるものと住むところと、新たな魔法を授けよう。お前は私のもとで、どうすれば幸福になれるのかを考え、それを実行しなさい」

 そう、人間の幸福は他人から与えられるものではない。自分から掴みに行って、掴むもの。

 少年の幸福のためにどうすればよいか。考えて、出した結論がこれだった。


 少年の瞳が、不安と戸惑いに揺れた。

「じゃあ僕は、あなたのために何をすればいいの? どうすれば、あなたはずっとその名前で僕を呼んでくれるの?」

 無名の魔法使いは、ゆるゆると首を振った。

「お前は私に何も与える必要はない。そして、ひとついいことを教えてやろう」

 無名の魔法使いは言葉を区切り、腰をかがめて少年と視線をあわせた。

「その名を呼ぶものがいる限り、その名はお前のものだ。だから、お前はその名を呼んでくれるものをたくさん増やせばいいのだよ」

 無名の魔法使いは、少年の髪に触れた。そこに、やさしい魔法の光は宿らない。無名の魔法使いは、秩序を生み出すことはできても、幸福を生み出すことはできない存在だった。

 それを少し残念に思いながら、言葉をつづる。

「簡単なことだよ。まずは、お前が好もしく思うものたちに手紙を書けばいい。そして、新しい名前を教えてやるのだ。そうすれば、彼のものたちは新しい名前でお前を呼ぶだろう」


 それから五年の日々が移ろうあいだに、少年の背は伸び、たくさんの魔法を覚えた。そして彼は何通もの手紙を書き、何通もの手紙を受け取った。手紙に記されたありきたりの文句が、「トレフル・ブランへ」というその一文が、少年にはなによりも誇らしいものだった。


 嬉しそうに町へ手紙を出しに行く少年の背を頬杖をつきながら見送り、無名の魔法使いは微笑んだ。足元には、見事な毛並みの白い獣がうずくまっている。常にそばに付き従うそのものにさえ悟られぬよう、胸の中でひそかに願いを口にする。


 我が弟子よ、人間たちよ。どうか真実の愛を手に、いつの日か我を滅ぼさんことを――。


<了>




* * *


あとがき


こんにちは。まずはお読みいただきありがとうございました。

作家(未満含む)にとってはみなそうでしょうが、こうしてひとつの作品を最後まで読んでいただけることは望外の喜びであり、冥利に尽きます。


今回は、「見習い魔導士と、雪原の孤児」で主役をつとめたトレフル・ブランと、その魔法の師匠である先生の関係をつかみたくて書き始めたお話です。

こうして書き終えてみると、意外な事実が数多く散らばっていて驚きました。


まず、先生。ろくでもない人物だろうと予測はしていたのでそれはまぁいいのですが、人間の赤ん坊にめちゃくちゃ甘かった。というか、ふたりが赤ん坊のころに出会っていたことに驚きです。しかも出会った当時のことを忘れずに名前をおくるとか……先生って意外にまともな情緒も持ってたのね、という感じです。

お気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、「トレフル・ブラン」は仏語でシロツメクサを意味し、二つ葉のシロツメクサに込められた意味は要約すると「幸運な出会いを君に」です。


そしてトレフル・ブランですが、小さい頃は可愛かったんですね……十五歳の彼はだいぶすれてましたけど。ほっぺにチュッとか、人並みに愛情表現のできる子で良かったです。大きくなっても、心のどこかにそういう部分は残ってると思うので、描けるようにしていきたいです。


本編もまだ書いてないくせに、ネタバレ満載の中編をつくってしまい、申し訳ない気持ちもあります……。

もし、読者さまが本編をお読みになられるときは、どうかこの物語を心の隅に封印されることを望みます。


それでは、いずれ本編で出会うことができますように祈りを込めて。


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無名の魔法使いの物語 路地猫みのる @minoru0302

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