桜のキャンバス

緑茶

桜のキャンバス

 開花情報と照らし合わせれば、『うえ』の考えてる卒業式の演出は、早計としか思えなかった。

 それでも、私達実行委員は、それに従って動かなきゃいけない。


「放課後にさせるいうんが、そもそもおかしいやんな」

「ジダイサクゴやで、ジダイサクゴ」


 夕暮れの光が差し込む廊下を、級友たちが歩いていく。両手には準備に必要なものをガサガサと持っている。


「なぁ、咲もそう思うやろ」


 後ろを振り返って、聞いてきた。


「え? うん……」

「なんやぼーっとしてたん、大丈夫?」


 むろん、大丈夫と答えた。

 級友は肩をすくめる。

 ……先に行く。私は取り残されて、廊下に長い影が伸びる。

 それを見る。

 浮かない顔なのは、放課後残らされるからでも、我が校が旧態然としていることに不満をいだいているからでもなかった。

 この時期になると、ひとつの過去が、私を縛り付けるからだった。


 姉は去年、卒業式の日に死んだ。生きていたら今日、同じ高校を卒業しているはずだった。



 結局、説明されたところで、姉の病気のことはよくわからない。

 でも、精神に作用し、やがて身体にも影響が出る病気だとは分かった。


 実際に姉は、心がすり減って、おかしくなっていって、最後は空気みたいになって、消えるように死んだ。

 自分が自分であることさえ分からなくなって死んだのだろう。

 ずっと窓の外を眺めて、それで死んだ。


 何かを、そこに見ていたんだろう。でも、喋ることも出来なかったから、結局窓の外に何があるのかも、私達には分からないままだった。

 ろくに、遺言も遺さずに死んでいった。


 唯一残ったものと言えば、ずっと廃人のようだった彼女が、時折取り憑かれたようにして向き合ったたくさんの画用紙だけ。

 それはピンク色のクレヨンで塗りつぶされていて、何が描いているかなんて分かりはしなかった。


 目だってだんだん見えなくなっていったはずだから、紙を一色で埋め尽くすぐらいしか出来なかったのだろう。

 結局、最期まで――何を見ていて、何を描きたかったのかは、分からないままだった。


 姉は、何も語れずに死んでいった。 

 病院では、叔父が働いていたけれど。彼がどれだけ手を尽くしてもダメだった。



 馬鹿らしい。何もかもが。

 私がいつ頃からその思いに苛まれているのかはわからないけれど、人生は虚しい。受験も、友人関係も。

 彼氏にも振られた。経済のこととかよくわからないけど、この虚しさだけはずっと続いている。

 将来に希望なんて持てない。私はこのまま生きていくのか。そんなのつまらない。


 そこに、姉が理由として入っているのかどうかは、考えたくない。

 ――私は、おかしくなり始めた頃の姉と喧嘩して、それ以降、仲直りできていなかった。



 くたくたになった身体と、相変わらず虚しさの続く心を引きずって家に帰る。

 そこには客が居た。


「ああ……咲ちゃん。ごめんね、寄らせてもらってる」


 くしゃっとした笑みを浮かべる、眼鏡の男の人。


 ひと目で分かった。

 姉の、恋人だった人。


 何をしにきたのか聞くと、彼は申し訳無さそうな顔をして、言った。


「今度の卒業式の日……1周忌だろう。それまでに、見つけたいんだ。ヒントがないかなと思って」


 ――何を。


「有希が見ようとしていたものがなんだったのか……確かめたいんだ」


 つまり、それは。

 姉がずっと、窓の外から眺めていた『何か』のことで。

 気持ちはわかる。

 私は彼ではないけれど。

 だけど。申し訳無さそうに笑う彼に対して、私は感情を抑えられなかった。


 ――バカバカしい。

 実際にそう言った。

 ――そんなことをしたって、姉は戻ってこない。


 そういうと、彼は一瞬呆けたような顔になって、それから、また、あの人好きのする笑みを浮かべて、言った。


「それでも。悔いが残っていたら……前に進めない気がするんだ」


 どういうわけか、私にはそれが、自分に対して言っているように聞こえて。

 身勝手にも、それに対して腹が立って。

 ――やりづらい人だ、という感想を浮かべた。

 きっと、それ以上のことを、色々考えて居たのかもしれないけれど。


 私は、怖かった。その先について見据えるのが。



 だけど。彼の言っていることは、あながち間違ってもいないのだと、そこそこあっさりと、知る羽目になった。



 その日の準備が一通り片付いて、後は帰るだけになった時。

 私達は、準備室でその日の疲れを分かち合いながら夕陽を浴びていた。

 いい加減に帰らなければ、その色に藍色が混じり始めることになるのだが。


 私がお手洗いから戻ってくると、みんなが、何かの話題で盛り上がっていた。

 ――ずるい、私も混ぜてよ。何の話。

 すると、一人が言った。


「あのな、この子、ネコ飼うんやって」


 言われた一人は、恥ずかしそうに肩をすくめた。

 なるほど、その話で盛り上がっていたのか。

 それからも、猫トークが続いた。

 私もそれなりに参加させてもらったが、ふと、違和感。


 ……というより、気付いた。

 言うべきかどうか迷ったが、結局、言った。


 ――あれ。あのさ、既に一匹、飼ってなかったっけ。二匹目?


 ……その割には、はじめて飼う、みたいな言い方だったのが、気になったのだ。

 すると彼女は……一瞬黙り込んだ。まわりも、まずい、みたいな顔をした。

 しかし、その子は、眉を曲げて、困ったような笑みを浮かべて、言った。


「最初の子ね……このあいだ、死んじゃってん。病気で」


 背中がひやりとする。

 私はすぐに謝った。

 彼女は首を振って、別にいいよ、と言ってくれた。

 それをいいことに……私は、理由を聞いた。

 

 その時、それを聞いたのは、何故だろう。

 ただ、おさえきれない何かが、私の口をついて出たのだ。


「なんかね……崩れてしまいそうで。新しい子、飼わんと……うち、あの子のこと……」


 彼女は、笑って言った。

 その割に、随分と……泣き顔に、似ていた。


 ――私が次の行動を決めたのは。

 彼女のそんな表情と、言った言葉が、理由だった。


 決心というのは、案外すぐにやってくるものだ。



 私は、姉の恋人――修二さんに連絡をとった。

 彼は、意外そうな反応をした。

 私だってそうだ。自分の行動が、信じられなかった。

 だけど、あの子の、泣きそうな笑顔を見た時、自分の中で、何かが動いたのだ。

 失ったものがある人間がどうすべきなのか。それを知った気がしたのだ。


 私は、言った。


 一緒に、調べてくれませんか。

 姉はずっと、窓の外から、何を見ようとしていたのか。



 調査を、彼とともに進めていった。

 そのなかで、姉のことが、ずっと避けていたあの人のことが、記憶の縁から、どんどん蘇っていった。

 姉の――有希の、人間の部分そのものについてだ。

 そこに触れるたび、新しく発見をするたび……私の心は、かき乱された。


 優しい人だった。

 信じられないくらいやさしくて、すぐに消えてしまいそうな。

 私が意見を押し通しても、それを黙って受け入れてしまうような。

 それは時に、苛立ちすら伴うほどで。

 いじめだって受けていたらしい。そんなの、あまりにも、あまりにも――。

 ……そんな側面が、現れては消えていく。


 私は悲しかった。

 いや、ある意味では、それ以上に、腹がたった。


 どうして。

 どうして貴女は、そんなに優しくて、弱々しかったの。

 私だって、貴女にひどい仕打ちをたくさんしてきた。

 もっと、もっと仕返しをしたってよかったのに。

 それでも、蘇る記憶の中で、姉は消え入りそうな笑みを浮かべるだけだ。

 私は、苛立った。


 しかし――その苛立ちこそが、私を前に進ませて、知ろうとさせた。

 どうして姉が、そんな姉が、珍しく必死になって、何かを外に見出そうとしていたのか。



 やがて、分かった。

 ヒントは、病院の立地と、入院していた部屋の場所に関係があった。

 病院と、私達の家は、そんなに離れていなかった。


 姉が窓際からずっと見ていたのは、家のベランダだったのだ。



 そこには何があったのだろう。

 思い出せそうで、でも忘れてしまっている、あるいは記憶の中にしまいこんでいる何かが、あった。


 私は卒業式の準備を日々続けながら、それを探す。


 やがて――思い至った。


 私が、準備室で、折り紙で作った紙吹雪に触れた時だった。



 家に帰る。

 暗い。母しか居ない。

 ずっと薄暗いリビングで、テレビを見ている。姉が死んでから、ずっとそうだ。

 憔悴し、朽ちた木のようになっているその人に声をかけるのは、ひどく罪深いような気がしたけれど。

 私は、しなければならなかった。


 ――お母さん。ベランダ、大きく、スペースあいてるけど。昔、何かあったよね。なんやっけ。忘れちゃった。


 すると、母は……ほんの少しだけ、生気のようなものを取り戻して、身を起こして、言った。


 ――桜の木。あそこには、小さな桜の木があったんよ。


 そうだ。屋上に、ほんの小さく植えられていた桜の木。

 そのまま育てば、大きく、大きくなるはずだった。



 後から知った。

 その時まさに、修二さんは、姉の遺した、あの画用紙の群れと向き合って、ある発見をしたのだった。

 それらはただでたらめに色が塗りたくられているわけではなかったのだ。

 彼は、組み合わせると、そこにあるものが浮かび上がることに気付いた。

 ピンク色と、茶色。

 完成すれば、途方もなく大きなものができあがる。


 ――それこそまさに、桜の木の絵だったわけだ。巨大な、一枚の。



 私は母に、理由を聞いた。

 木は、どうしてなくなったの、と。


 すると母はひどく取り乱した。

 聞かなければ良かった、と後悔したが……母は、自らを制御するすべを知っていた。

 台所で飲み物を作って、喉に流し込むと。

 ……ゆっくりと、理由を語った。


 ――幼い頃。貴女と有希は、よく喧嘩をしてた。

 ――有希はドジだったから。余計なことをして、そのたび、貴女を怒らせてた。

 ――それである日、貴女と有希が、言い争った。


 何を言ったのかまでは、母は覚えていなかった。

 だけど、私の頭の中に、その場面が、ぼんやりと浮かんでしまった。

 ああ、たしかに。そんなことがあった気がする。

 そして私は、その時……姉に、ひどいことを言ったのだ。


 それで、姉は、酷くショックを受けた。

 でも、姉は――有希は、そのショックを、怒りを、吐き出す手段を、あまりにも知らなさすぎたから。

 衝動のままに、ベランダに飛び出して。

 未整理の感情を、桜の木にぶつけたのだ。

 頭をぶつけて、何度も何度も、血が出るまで。

 ――なくなればいい、こんなものなくなればいい、と叫びながら。



 そこまで思い出せば、後はもう、すぐだった。


 私の中で、バラバラだった断片が全て組み上がった。

 震えが止まらなくなって、寒気すらしてきた。

 それは罪悪感。あるいは、もっと大きな何か。


 知らぬ間に、とんでもないことをしでかしてしまったのではないか、という感覚。

 だが、そのままにしてはいけないということを、何よりも分かっていたから。


 私は、修二さんに連絡した。

 そして、自分たちがすべきことを伝えた。

 彼は驚き、しばらく黙り込んだけれど……その言葉を呑み込んで、静かに、肯定した。


 本当に優しくて、心の大きな人だと思った。

 ――姉のそばに居たのが、私じゃなくて、この人で良かった、と思った。



 休みの日に、姉の入院していた病院に行った。

 それから、叔父に無理を言って――本当に無理を言って、かつて、姉が居た病室に案内してもらった。

 誰も入院していなかったからこそ、出来たことだった。


 同時に、修二さんは、私の家のベランダに。

 あの沢山の画用紙を携えて、ある『準備』をしてもらう。


 ――どくん、どくん。

 心臓が、強く鼓動する。

 昼下がりの外の光と対照的に、少し薄暗い病室。

 足を踏みしめる。

 ――どくん、どくん。


 そして、私は窓辺で立ち止まる。

 かつて、姉が目をこらしていたその場所で。


 ……心地よい風で、カーテンが揺れて。


 窓の向こう側に見えていたのは。


 桜だった。

 満開の桜。

 修二さんが組み合わせ、ベランダに飾った桜の絵が、そこに咲き誇っているのが、遠くに見えた。

 私は膝をついて、心の中にぽっかりと穴が開くのを感じた。


 姉がずっと幻視していたのは、あそこに植えられていた、咲くはずの桜だったんだ。



 それは、私の罪であるような気がした。

 姉は、自分が原因で壊れてしまったようなものだと。そう感じた。

 

 それからは、何も手が付かないようにおもった。

 卒業式の準備も、普段の生活も、何もかも――。



 だけど。

 対照的に、母は、あの日、ベランダのことを聞いてから、少し元気を取り戻したようで。


 ある日、混乱し、疲れ切っていた私のそばにやってきて、そっと寄り添って。

 私に、そっと、ある事実を教える――。



 卒業式、当日。

 下級生が騒ぎ、保護者たちが互いに話し合っている。なんとも落ち着きのない空間。

 その中で私は、会場である体育館の入口の上にある通路に待機していた。

 両手に、紙吹雪の入ったかごを携えて。


「なあ、咲」


 友人が、小さな声で聞いてきた。


「――ちょっと、前より、顔色、良くなってない?」


 それは、そうだ。

 だって私は。


 ――まもなく。

『卒業生、入場』

 アナウンスとともに。

 門が開いた――。



 これも、後から知った。

 昨日、修二さんは、画用紙の裏側に、小さくメッセージが添えられていることに気づいていた。

 崩れた字で、最初なんと書いているのか分からなかったそうだが、目を凝らせば理解できたそうだ。

 その内容といえば――。



 そして、卒業生が、姉が生きていれば、その中に居たはずの、彼らが、彼女らが、入ってくる。

 拍手の海が会場を満たし、その中を、困惑しながら、胸を張りながら、不安でいっぱいになりながら、歩いてくる。

 一歩、また一歩と進んでいく。後ろに進むことはない。

 前へ、前へ。


「さあ、行くで」


 合図。

 私は頷いて、紙吹雪を、一気に真上から、散らした。


 それは、桜色。

 桜のはなびらそのもの。



 母は、教えてくれた。

 自分がまだ小さい頃、姉が絵本のずかんから、植える木に選んだのが、桜だったということ。

 理由を聞くと、幼い姉は、言った。


 ――桜がみどりになっても、桃色だったことは忘れないでしょ。そしたら、頑張ろうっておもう。

 ――あたし、咲と一緒に、桜を見たいんだ。



 ――咲ちゃん。なんて書いてあるのか、分かったよ。

 ――有希から君への、言葉だ。


「……『ごめんね、ありがとう』。そう、書いてあったよ」


 それは、姉からの赦しであり。

 桜の木を見たがっていた理由だった。



 遅すぎた、あまりにも。

 姉は、もう居ない。


 紙吹雪を散らす。

 桜色を浴びながら、くすぐったそうに笑う卒業生たち。

 そのなかに、姉は居ない。

 

 だけど。私は居る。

 こうして、未来にみんなを送り出すために居て。

 そして、私自身も、先に進むために、居る。


 遅すぎるのかな。本当に遅すぎるのかな。

 でも、姉さん。


 ――私、姉さんのおかげで、前に進む気になりそうなんだけど。

 ――そう思うことも、いけないことなんだろうか。


 手は動いていたし、体育館の中は喧騒と祝福に満ちていたけど。

 私は、別の誰かの声が、がらんどうの空間の中に、そっと静かに、優しく響いたような気がした。


 ――姉さん。

 ――姉さん。私、ここにいるよ。


 ――ごめんね、ありがとう。

 ――私、生きてみようと思う。つまらないかもしれないし、辛いだけかもしれないけど。

 ――とりあえず、もう少し、生きてみようと思う。


 せめて、来年、桜吹雪を浴びるまでは。


「どうしたん、咲……泣いてるの?」


 これも、後から知った。

 その時、画用紙を抱きしめてひっそり泣いていたのは、修二さんだった。


 私は泣かなかった。

 でも、私達はふたりとも、たぶん、この先を歩いていける。

 そう思った。


 ――姉さん。

 ――一年後の未来から、桜をお届けします。

 ――届いているといいな。


 ――姉さん、

 ――姉さん。



 彼女は、変わらず外を見ていた。

 少し風が吹いて、カーテンと、髪が揺れたようだった。

 ほんの少し窓が空いているらしかった。

 閉めようと、手を伸ばした。


「……あら」


 隙間から流れ込んできたものが、そっと手のひらに落ちた。


 ……桜の花びらだった。

 彼女はそれを見ると、そっと微笑んだ。


 もう一度窓の外を眺めてから、彼女は自分の目の前に向き直った。



 それから再び、桜色のキャンバスに、手をのばす。

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