幻のエース

澤田慎梧

幻のエース

 昔から自分の名前が嫌いだった。

 財部義輝たからべ よしてる――それが僕の名前だ。やや古臭くて字画が多いことを除けば、まあ普通の名前だろう。だから、名前自体が嫌いという訳じゃない。

 理由は僕の父の名前にある。


 父の名前は財部儀輝のりてるという。僕の名前に人偏にんべんが一つ増えただけの、似通った字面の名前だ。

 ――いや、正確に言うならば「僕の名前の方が父のそれに似ている」か。何せ、父が自分の名前にあやかって付けたのだ。似ているのは当たり前だった。


 なんでも、父は昔から名前を「義輝」と間違えられることが多かったのだそうだ。読みも「よしてる」と勘違いされることが多かったらしい。

 そして僕が生まれた時、何を思ったのか、昔から縁のあったその「義輝」という名前を付けよう、等と思ってしまったらしい。本当に迷惑な話だ。


 義輝と儀輝。この二つの名前のせいで、僕はいらぬ苦労をしょい込んでいた。

 父宛の郵便は、未だに宛名を「義輝」と誤記されたものが届くことがあった。そのせいで、僕が父宛の郵便を間違えて開けてしまうことが、多々あったのだ。

 その度に僕は理不尽に怒られて……いつしか自分の名前と、それを付けた父を嫌うようになっていた。


 けれども僕が高校一年の時、そんな嫌悪感が薄れるような出来事が起きた。

 あれはそう、出場予定だったeスポーツの春大会が中止になり、僕が目的を失って腐っていた二〇二〇年の夏の出来事だ。


 ***


 二〇二〇年の夏。日本は――世界は未だに、新型ウィルス騒動の只中にあった。

 世界中に蔓延したウィルスの影響で、春先から幾つもの人が集まるイベントが中止になっていた。当時僕が目指していた、高校生向けのeスポーツ春大会も全て中止。中学時代からの僕の努力は、全て無駄になってしまった。


 夏が近づくにつれ、ウィルス騒動はピーク時よりも収まりつつあった。けれども、まだ予断を許さない状況が続いていて――日本では、夏の甲子園を中止にするか否かで議論が巻き起こっていた。

 連日連夜、テレビの向こう側やネット上では、人々がやれ「中止しろ」だの「決行するべきだ」だの、意見を戦わせていたのを覚えている。


 正直、高校野球に全く興味のなかった僕は、中止しようが決行しようがどちらでも良かった。議論がある分、再開の目途が立たないeスポーツ大会よりもかなりマシで、「うらやましいな」くらいにしか思っていなかった。

 けれども――。


「無観客でもいいから決行してほしいなぁ……。球児達が可哀想だ。中止だなんて、負けるより辛い」


 ある日、一緒に甲子園関連のニュースを観ていた父が、ポツリとそんな言葉を漏らしたのだ。

 それまで、野球に興味のあるそぶりを全く見せたことのなかった父。それが球児達の無念に思いを馳せるだなんて、どういった心境の変化だろうか?

 うっすらとそんな疑問が湧いてしまったのが運のつき。気付けば僕は、父にこんな言葉をかけてしまっていた。


「へぇ、親父って野球に興味なんてあったっけ?」


 すると父は、びっくりしたような――どこか寂しそうな表情を浮かべて、でもすぐにいつもの仏頂面に戻って、とんでもない答えを返してきた。


「そりゃあな。これでも元甲子園球児だし」

「ふーん……って、ええっ!?」

「あれ、言ってなかったか?」

「一度も聞いたことないよ!」


 「元甲子園球児」という言葉は、甲子園を目指して野球をやっていた、という意味ではない。甲子園の出場経験があることを指す。野球に興味が無くても、それくらいは知っていた。


「高三の夏に、一度だけな。これでもエースで四番だったんだぞ」

「マジで……? で、で! どこまで行ったの?」

「あーそれがなぁ……」


 僕の質問に、父は困った顔をしながらポリポリと頬をかき始めた。

 「ああ、これは一回戦敗退かな?」等と思った僕だったが、父の返答はその更に予想の上を行っていた。


「一回戦でその年の優勝校に当たって、あえなく敗退。……でもな、そもそも俺はその試合に出ることすら出来なかったんだよ」

「えっ? どういうこと……?」

「試合の前日にな、原因不明の下痢に襲われて……結局、当日にはもうヘロヘロ。監督が出場を許可してくれなかったんだな、これが。で、エース兼四番を欠いた我が校はボロ負けもボロ負けさ」


 ハハハッ、と笑いながら語る父だったが目は全く笑っていなかった。きっとその時の悔しさを思い出しているのだろう。


「監督も仲間達も『運が悪かったんだ。お前のせいじゃない』って言ってくれたけど、悔しいわ悲しいわでな。結局、それがショック過ぎて野球はやめてしまったんだ。だから、試合にすら出られないことの悔しさは、誰よりも分かると思う。――センバツが中止になったんだ。せめて、夏の大会くらいはやってもらいたいなぁ」


 そう呟く父の表情は、今まで見たことがないくらいに寂しそうだった。


 ***


 それから数日後のことだ。

 僕がいつものように郵便受けの中身を確認していると、ダイレクトメールの束に紛れて白い封筒が目に入った。

 宛名を見ると「財部義輝様」とある。はて、これは僕と父どちら宛だろう? と思いながら差出人の名前を見ると、「千堂 広美」と書いてある。

 僕に覚えはないから、恐らくは父宛だろう。


 けれども、ここで僕の中に少しだけ悪戯心が湧いた。

 差出人はどう見ても女性。もしや父の昔の恋人とかだったりしないだろうか? 等と。

 そこで僕は、いけないとは思いつつも封を開けて中身を読むことにした。「自分宛と思って間違えて開けた。中身は読んでない」と言い訳すれば大丈夫だろう、と根拠なく考えたのだ。


 ――そして僕は深く後悔することになった。


 差出人の「千堂広美」は、名前とは裏腹に女性ではなく男性、父の高校時代の野球部監督その人だったのだ。

 封筒の中身は監督からの手紙――だった。


 手紙にはこんなことが書かれていた。

 甲子園の初戦前夜に父が下痢をしたのは、監督が下剤を仕込んだからだった。

 どうあがいても勝てない、超高校級の投手や打者揃いの強豪校にボロ負けして、父の自信が木っ端みじんになるのを防ぎたかった。だから試合に出られないようにした。父には才能が有り、大学でも野球を続ければもっと伸びると思っていた。その成長を止めたくなかった。

 けれども風の噂で野球をやめたことを知り、ずっと後悔していた。


 自分は今、大病を患っており、もう長くない。だから今の内に真実を伝え、一言謝りたいと思っている。このことは、他の誰にも伝えていない。

 私のことを許せないと思うのなら、どうか病室を訪れてほしい。君の野球人生を奪ってしまった私に怒りをぶつけてほしい――。


 手紙の文字が乱れていたのは、病気のせいだったのか、はたまた監督の揺れる感情の発露だったのか。

 結局、僕には分からずじまいだった。


   ***


 千堂監督からの手紙を読んで数日。僕はこのことを父に伝えるべきか否かで悩んでいた。

 甲子園に出られなかったこと、野球をやめたことが今でも父の心に傷を残している。けれども、それを今更ほじくりかえすことが、果たして父の癒しになるのだろうか? と。


 だから僕は、父にこんなことを訊ねてみた。


「なぁ親父。今、幸せか?」

「藪から棒になんだよ」

「ほら、野球をやめた話、前にしてただろう? やっぱり今でも……後悔してる?」


 父は少しびっくりしたような表情を見せたが、すぐに笑顔を浮かべて、こう答えた。


「そりゃな、後悔はあるぞ? 悔やんでも悔やみきれないわなぁ。でもな、野球をやめたことで得られた、かけがえのないものもあるんだ」

「かけがえのないもの?」

「ああ。大学でな、俺は野球部には入らずにテニスサークル……ま、つまりは飲みサーだな、それに入ったんだ。そんで、そこでと出会った。――感謝しろよ? 俺が野球をやめてなかったら、お前は生まれてないんだからな」


 そう言って、ハッハッハッと笑った父の笑顔は本物で――少しの憂いも感じられなかった。


   ***


 しばらく経ってから、僕は千堂監督からの手紙をシュレッダーにかけた。それが一番だと思ったのだ。

 そして更に時が過ぎ、父のもとへ千堂監督の訃報が伝えられた。


 葬式自体はしめやかに行われたらしいが、久々に顔を揃えた野球部員たちは、賑やかに監督を見送ったらしい。

 父も監督の死を悲しみはすれど「久々に当時の仲間と会えて楽しかった」と、ご機嫌な笑顔と共に帰ってきた。


 千堂監督には申し訳ないことをしたけれども、もし父に手紙のことを伝えていたら、この笑顔は無かったかもしれないのだ。もし、恩師が自分を――その身を案じた結果だとはいえ――陥れたことを知ったら、きっと悲しいなんてものでは済まないだろう。

 おまけに「謝罪の手紙で思い切り名前を間違えられていた」なんて知ったら、笑い話にもならないはずだ。


 もう取り戻しようのない出来事を掘り返しても、皆が不幸になるだけだと思う。過去に囚われても、ろくなことにはならない。


「……さて。僕もぼちぼち、ちゃんとしないとな」


 父の笑顔を思い出しながら、僕はずっと眠らせていたゲーミングPCの電源を入れた。

 大会が中止になった悔しさは消えない。でも、だからと言ってその気持ちに囚われたままでは、僕はもうどこへも行けないだろう。


 父は野球を捨てた代わりに、愛する人と出会うことが出来た。

 でも僕には、高三だった父とは違い、まだチャンスが残されている。eスポーツの道を閉ざすには早過ぎる。ここで諦めたら、後悔しか残らないはずだ。

 来年以降の大会を目指して、今から腕を磨いておこう。


 もし千堂監督が宛名を間違えなければ、こういう顛末にはならなかっただろう。

 僕はほんの少しだけ、父とよく似たこの名前を嫌いではなくなった。


(了)

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