マロンちゃん
もげ
マロンちゃん
「マロンちゃん」
「なんだそのふざけた呼び名は」
勝手に呼べというのであだ名をつけて呼んでやると、彼女は不本意そうに眉根を寄せた。
「なんでこんなところに女がいる?」
数分前、すれ違いざまに何やら甘い香りを嗅ぎ取って、男は思わず声をあげた。
ヘリ搭載型護衛艦のいかつい艦内に、女性物の香水の香りがいかにも不似合いだったからだ。
すれ違った相手は長身で体格も良く、航空用のヘルメットを装着してうつむき加減で早足に通り過ぎた為、はじめは男だと信じて疑わなかった。
しかしすれ違った瞬間にふわりと漂った甘い香りで、彼は違和感を覚え、思わず振り返り声を掛けてしまった。
「パイロットなのか?」
男の言葉に、しかし女は無反応で通り過ぎようとする。
その様子に興味をひかれた男は、踵を返すと早足で彼女を追いかけ後ろからその肩を掴んだ。
「何をする」
反射的にその手を払って振り向いた彼女の眼は、鋭い刃物のようだった。
「挨拶ぐらい、いいじゃないか」
その鋭利な美しさに男は内心で口笛を吹いた。
引き締まった均整のとれた身体に、華やかではないが鼻筋の通った涼やかな顔立ち。
そしてその切れ長な瞳は強い意志を宿して独特な深みを持っていた。
「名前は」
女はうんざりしたような表情を浮かべて片手を振ると、そのまま歩き去ろうとする。
「俺はジェム。いいじゃないか、この艦内にいるのは皆運命を共有し合う仲間だろ?」
なおも取りすがろうとすると、女はわざとらしいため息を吐いて「勝手に呼べ」という。
そう言われて黙って引き下がるようではジェムの自尊心が許さなかった。
「勝手に呼べといったじゃないか」
『マロンちゃん』という響きがよっぽど気に入らなかったのか、彼女はしっかりと足を止めてジェムに向きあった。
彼はしめたと思いながら、好悪はともかく自分に少しでも向いた彼女の興味をなんとか引き延ばそうと思考を巡らせた。
「いいだろう?イガ栗の刺々しさと殻の固さがあんたの態度と頑なな心にそっくりだ」
我ながら好きな子に意地悪を言うガキみたいだと思いながら、しかし口をついて出てくるそんな悪態を止めることはできなかった。
だがそれに対して戻ってきた反応は、彼の予想とは大きく違っていた。
ふっと彼女はその言葉を鼻で笑うと、ひとつ大きく頷いた。
「……なるほど、そういう意味なら確かに似ているかもしれない」
思いがけず向けられた笑顔に、ジェムは理性のタガが外れたのを感じた。
いがと殻で厳重にガードされた栗の中身は、一体どれほど甘いのだろうか……。
……気が付いたら、彼は彼女の唇を奪っていた。
自分でも呆れる行動だった。
「……すまん」
阿呆みたいに謝ったジェムに、彼女はひとこと「にがい」と言った。
彼女がこの艦内で最も有名な人物であるということを知ったのはその日の晩であった。
ヘリの下側の喫煙スペースで、こそこそと数人で煙草を吸いながら雑談している中でそういった話になった。
「お前、この護衛艦が何を護衛しているのか知らないんだろう」
「何って、後ろをくっついてきてる商船を守ってんじゃないのか」
ジェムの言葉にヒューイは呆れたように肩をすくめた。
「それは表向きの話だ。確かに俺らはあの船を守ってる。でも本当に守るべきはその中にいるお姫様だ」
ジェムは首をかしげた。こんな大掛かりな船で守るべきお姫様とは一体何者なのか。
「そうそう、知らないのは、たぶん、お前だけ、だぜ」
そう言って、巨体のダニエルが煙草の火を消して顔を近づけてきた。一応小声で話すべき話らしい。
「お姫様は、異常遺伝子保持者、なんだ」
イジョウイデンシホジシャ?ジェムはますます困惑した。いったいそれが何を意味するのかさっぱりわからなかった。
彼の困惑した顔にダニエルは調子を良くしたのか、詳しく話をし始めた。
その商船にカモフラージュされた船に乗っている女性は、先天的な遺伝子異常で、ある特殊な能力を持っているという。
ダニエルいわく、それは体内で石油に似た物質を合成することができる酵素を持っているということらしい。
その要因となる酵素を作り出している遺伝子を特定することができれば、人工的に石油を製造することが可能になるかも知れないという。
とすると、彼女はエネルギー問題を解決しうる夢のような能力を持っているというなのだろう。
「そいつはすげぇや」
ジェムは素直に感想を言った。だがその言葉にヒューイが苦い顔で首を振った。
「ああ、すごい。こいつは世紀の大発見になる。だから、恐ろしいんだよ」
得意そうに説明をしていたダニエルの眉も曇る。その表情を見て、ジェムも悟った。
石油を自由に作れるようになるということは、現在あるエネルギー供給に関わる世界のバランスが大きく変わるということだ。
天然資源に大きく依存している中東諸国、エネルギー大量消費の先進国。彼女がいると困る国、彼女が喉から手が出るほど欲しい国。
各国の利害を考えれば、彼女の存在がどれほど危険なものかは想像に難くなかった。
「そして、あんたが昼間に会った女ってのが、なんとそのお姫様の双子の姉なんだとよ」
ヒューイの最後の言葉に、ジェムの頭は堅いもので殴られたような衝撃を受けた。
「双子ってことは彼女も?」
素朴な疑問にダニエルが首を振る。
「いや、彼女は、違う。二卵性双生児?らしい、から、遺伝子引き継がなかった、か、発現しなかった……」
「なんにせよ、ほとんど同じ遺伝子を持つ双子の一方がその酵素の保持者で、一方が非保持者。研究のサンプルとしてはこれ以上ない検体だろうな」
ジェムは茫然とした。まさか自分がそんな大層なものを運ぶ手伝いをさせられているとは思っていなかった。
ましてや、彼女がそんなに重いものを背負っていたのだとは……。
出来れば彼女には深く関わらない方がいいのだろう。
明らかに普通とは異なるバックグランドを持つ彼女。たかだか一兵卒の自分に守れるほどの強さがあるとは到底思えなかった。
しかし、そんな思いとは裏腹に、彼女に惹かれていく気持ちを止めることはどうしてもできなかった。
ジェムと彼女はそれから何度か二人きりで会い、そのたびにお互いのことを強く想うようになっていった。
その日が来るまでは二人はそれなりに幸せだった。常に不安を煙のようにまといながら、それでも会っている間はそれらの不安を忘れていられた。
その時だけは、彼らはごく普通のありきたりな恋人のようであった。
だが、ついにその日は訪れた。
それは突然の轟音から始まった。激しい衝撃と破壊音、次いで大音量の警戒警報が鳴り響いた。
規律違反は厳重処罰。だが、そんなものに構っていられなかった。彼女はどこだ。
ジェムは反射的に走り出していた。ヒューイとダニエルが引きとめる声が背後から聞こえる。
上官のシャウトも途中から混ざり始めたが、もはやそれはなんの抑止力にもならなかった。
大方の予想通り、彼女はヘリコプターのところにいた。まさに今乗り込もうとするところであった。
「行くのか」
ジェムはその後ろ姿に大声で叫んだ。
彼女が振り返る。彼女はジェムの顔を見て、そして笑った。
「めそめそするな」
よっぽどひどい顔をしていたのかもしれない。だが表情を作る余裕なんてなかった。
彼女は周りの人員に手で合図をすると、引き返してジェムの前まで来た。
「すまん、来てくれてうれしい。だが、妹は私が守らなくてはならないんだ」
彼女の顔は涼やかだった。すでに決意をしている、そんな表情だった。
「一緒に生まれたのに、あの特殊な体質のせいで妹は今まで私よりも何倍もつらい思いをしてきたんだ。彼女は私の半身。彼女が不安な時、そばにいてやりたいんだ。私の運命は彼女と共にあると誓ったから。それに、私がこの船に乗っている理由はもう一つある。妹と私は確かに二卵性双生児だが、やっぱり似ているんだ。いざというときには私は敵を撹乱させるのに効果的だ」
ジェムはやりきれない気持ちで彼女の強い眼差しを見つめた。
彼が愛した瞳は、今までで一番澄んだ輝きを放っていた。
「私は幼いころから特殊な訓練を受けている。大丈夫だ」
言って彼女はジェムの手を取ると、強く握手をした。
ジェムはその固く握られた手に目を落として、自らも強くその手を握り返した。
しかし、そのきつく握れられた手から微かに震えを感じて、ジェムははっと顔をあげた。
彼女は一瞬困ったような顔をして、それからそれをごまかすようにジェムの唇にかすめるようなキスをした。
唇を離し握手を解いて、彼女はさっと踵を返した。
「次に会う時までに煙草はやめろ。私は苦ちゅーは嫌いだ」
おどけたように言って、彼女は片手を上げて足早にヘリに向かって歩いて行く。
ジェムはその後ろ姿を黙って見送ることしかできなかった。
そして、
彼女は死んだ。
彼女の妹も死んだ。
たくさんの人が死んだ。ヒューイもダニエルも。
奇跡的に助かったジェムは、ベッドの上でぼろぼろの体を横たえて、ただ涙をこらえるしかなかった。
震える手が握手の時に渡された彼女の最後の手紙をぐしゃぐしゃにする。
それに気づいて慌てて手紙のしわをのばして、もう一度その文面に目を走らせた。
親愛なるジェムへ
あなたにひとつ
言わなければならないことがあります。
しかたのないことだと思って許してください。
敵の元へ向かった私は、おそらく
生きては戻らないでしょう。
まちがったことなのかもしれませんが
すべての事を考えた結果、これが
最善の方法であると私は信じています。
世の中の為に、妹の持つものは永遠に封印すべきだと思いました。
海の底に二人で行きます。二人で決めたことです。
なにも言わなかったのは引きとめられて決心が鈍るのが嫌だったから。
来世で会えることを祈っています。ごめんなさい。今までありがとう。
マロン(この名前結構気に入っていました)
「馬鹿野郎」
ジェムは震える手の甲で目の上を覆った。
手紙の陰で涙が伝う。
「ちくしょう……ふざけたこと言ってんじゃねぇ……」
うわごとのように言って嗚咽を繰り返す。
止めどなく流れる涙は、いつまでも枯れることはないような気がした。
青い栗の実が窓の外にたわわに実り、風に揺れては鳴いていた。
(終)
マロンちゃん もげ @moge_
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