愛があった と


浮気された。


「ごめん。もうアンタのことは好きじゃないの」

そう、するっと彼女の口から溢れる言葉。

簡単に、至って簡潔に、まるで国語のテストかのように二十文字以内で語られる言葉。

俺の手は真っ直ぐ彼女の頬に飛んでいった。

全く意識は無かった。

小さい頃から親父にも母さんにも言われてきた。男たるもの、女性を殴ってはいけない。


「ごめんなさい…俺は…あなたが本当に好きだったので…はじめて女性をぶちました」

やけに視界が歪んでいた。

下顎と表情筋が歪んでいるのがわかる。

ワサビでも食べたかのように。

辛かった。


「アンタ、自分のフレンズばっかりで私にかまってくれなかったじゃない!」

彼女は俺をぶち返した。

そそくさとその場を後にするハイヒールの音。

奥歯を噛みしめる。

歪んだ表情がまるで笑みかのように口の形を変える。八の字とブイ字を繰り返す。


人は少なかったが、通る人もいた。

俺はずっとその場に立ち尽くしていた。

立ち尽くしていたかった。

神様、もういいよ。

俺の時間をここで止めてください。

ここで僕を動かない彫刻にしてください。

そうすれば、そうすればきっと、俺よりも惨めな人が、俺よりも幸せな人が、哀れみを恵んでくれる。


ついに、それは叶わなかった。

気味の悪そうな顔で、俺と距離をとって歩く他の職員のカップル。

なんでか、俺だけが世界に孤独なような気がして、俺だけがヒトという生き物の持つDNAの大切な何かを没収されていた気がして、


ベッドの上だった。

常夜灯が、部屋の照明の中で死んでいった虫たちの死骸に影を落としている。

その数を数える。


「俺さ…浮気されてて…フラれちゃってさ…あーあ、もう何もかも嫌になってきちゃったよ」


惨めだ。

緑の帽子を深く被り、自分より幼いような見た目のフルルに話を聞かせている。


「フルル…俺のどこがいけなかったんだろ…」


どこがいけなかったんだろう。

あぁ、どこがいけなかったんだろう。

ない。

俺のどこがいけなかったんだろう。


俺は愛していたのに。

本で読んだ。

映画で見た。

歌で聴いた。

愛は消えないものだって。

一生かかっても消えて失せないものだって。

消したくても消えないものなのだと。

消そうとすら思わないほどのものなのだと。

昔は素敵だと思った。

今だけは憎くて仕方がない。

俺には失せる気がしない。


あなたが本当に好きだったので、はじめて女性をぶちました。

あなたは私を愛してくれていたが、今はもう。

私はあなたを愛しているし、今もそう。


おもむろに、フルルが口を開いた。

「わたしね、わからないの。なんでヒトはつがいを作ってそのままでいないんだろうって。生まれて、産んで、死んでを繰り返すだけなのに、なんで子供を作って種を残すためだけなのに、他のヒトが気になってあっちこっちに行くんだろうって」


「だって生き残るのに不利でしょう?パートナーと添い遂げた方が子供を残しやすいと思うし、わたしたちはそうしてきたし」


「フルルね、分からないの」


愛はあるの?


性あれと神様は人をつがいで作った。

でも、愛までは作ってくれなかった。

かつてリリスとアダムがそうであったように。

彼らは性交の時、どちらが上に乗るかで揉め、しまいには別れたという。


「あるさ…あるに決まってるさ…そんなの」


俺は嘘をつく。


「あるさ…ただ、まだ人間には届かないんだ。本で語って、歌を唄って、映画を魅せて、それでもまだ届かないんだ。愛の言葉を語り尽くしても、まだ愛は僕たちのところに降りてきていなんだ。見つけていないだけなんだよ」


嘘が止まらない。


「だからさ…」



「愛はある と 言ってくれ…」


耐えられない。そんなのは。

俺たちが生まれたのは嘘になる。

俺たちが生まれた理由が嘘になる。

俺たちの生きる理由が嘘になる。


「…あるよ」


彼女は嘘をつく。


愛があった と 人は言う

そしてまた 途方もない旅をしていく

神が作ってくれなかったものを

リリスも アダムも 成し得なかったことを

天に届く塔を建てても

命を操る技術を持っても

はるか届かない場所にある

きっと

きっとあるはずの

愛を 確認しに

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