第78話
ローマの休日のオードリーヘップバーンだとか、雨に唄えばのジーン・ケリーのような、清廉で、かっこいい男性に似合うような、いわゆるヒロインに私はなれない。
きっと、厳島くんに似合う女性はもっと居ると思う。彼は溜息をつきたくなるほどの天才で、同期からも、そして先輩方からも羨望の眼差しを向けられている、日本音楽界のエースだ。
私のような人間が、彼の隣に立つことが想像できないし、ラブレターを書いても丁重に断られると思う。好きになることは悪いとは思わないけれど、お付き合いすることは想定するまでもなく無理なことは自覚している。
きっと、一度告白して振られないと、次の恋を歩むことは不可能だと思う。
いずれは当たって砕け散りたいとは思っているけど、行動に移すのが難しい。ほんの少しだけ、背中を押してくれる人が居ればいいけど、はたしてそれだけで告白するだけの勇気が湧くかと言われれば、首を縦に振ることはできない。
好きになって半年以上が過ぎた。
もうそろそろ、自分の気持ちに踏ん切りを付けないと仕事が疎かになるし...なにより、胸の猛りでどうにかなってしまいそうだ。
近づいただけで息が出来なくなるし、目が合っただけで赤面してしまう。一緒にニューヨークに行った時なんて、もう心臓が張り裂けそうだった。
このまま、片思いを続けていたら必ず後悔する。前までは、届きそうな存在だと思っていた彼が、急にはるか遠くの存在に感じるようになったのは、つい最近のことだ。
78
受話器を置く。
やってしまった。ついその場の空気で電話をかけてから後悔したのは5秒と経たなかった。
「...宇治正さん、それに碁石さん...果ては今泉さんにまで。言っちゃったよ、宣言。告白しますって。」
「で、各々どんな反応だった」
「宇治正さんは驚きつつも草薙と同じようにサポートするからって...でも碁石さんに関しては渋々って言う感じで...ホントに付き合うのかよ...みたいな、少なくとも明るくはなかった。」
「今泉 涼子は...?」
「留守番電話だった。」
もう後戻りはできない。
「そう言えば、中川さんは今日は...?」
「休みらしい」
「...んなタイミングいい事あるか。お前も休み、相手も休み...都合良すぎだろ」
「不思議なこともあるもんだな...」
「正しく今日こそが告白する日なんだよ、こんな偶然、恋の神様が与えてくれたに違いない」
「偶然にしては出来すぎてる...」
「細かいことは気にするな、で、中川さん家の電話番号は」
「知らない」
「なぁにやってんだお前は」
「だって仕方ないだろ...」
「宇治正さんとか知ってるかな」
「どうだろうな...他事務所だろ。」
「んー、知ってる人...誰だろ」
「...今泉 涼子」
ボソリと呟いた草薙の言葉を聞いた直後、俺は再び受話器をとった。
「宇治正さん...今泉さんのマネージャー。えぇと嬉野さんの連絡先というか...あ、ポケットベルの番号知りませんか...はい...はい...なるほど、わかりました」
「どうだった」
「分かったよ今泉さんの、マネージャーの連絡先が」
「随分と遠回りだな...」
「まぁ、そこから今泉さんに連絡が取れれば後はあっという間さ」
こんなことなら、中川さんから直接家の電話番号でも聞いておくんだったと後悔している。
俺はポケットベルの番号を打つと、折り返しの電話が来るまでしばし、いちごを頬張ることにした。
やがて、リビングに電話の音が鳴り響くと誰よりも先に草薙が受話器を取った。
「あ、お疲れ様です。W&Pの草薙です。はい、いつも厳島がお世話になっております。いえいえ...はい、実はですね厳島が急用ということで今泉さんと連絡が取りたいということでして...はい、あ...いま雑誌の撮影中と...御手数ですが、休憩等空いた時間にホント少しだけでいいんで、今泉さんからご連絡頂けないでしょうか...えぇ、時間は取らせません。すぐ終わらせますので、はい...はい...失礼致します。」
「...」
「いきなり、知らない番号から『厳島裕二です』なんて言っても、誰も信じないだろ。こういう時に裏方の俺の出番よ」
「いつの間に面識増やしてんだ...?」
「宇治正さんの側を歩けば、自然と顔も広くなるし業界内の知り合いも多くなるんだよ。まぁ...まだ清子ちゃんには会えてないけどな」
「そりゃまた、凄い偶然だな...避けられてんじゃねぇのか」
「否、断じてそんなことは無い!...と信じたい」
「確信はないのかよ...まぁ、でも会ったことも無い人間を嫌うような人じゃないからさ...お前が薬物やってるぐらい強烈な噂話が一部界隈で盛り上がらない限り、お前のことを避けてないと思うぞ。」
「そもそもそんな噂話どうやったら清子ちゃんの耳に入るんだよ。『草薙ってやつがさ...アイツ薬物やってるらしいぜ...』って言われても『ん?誰?』って反応されるのが落ちだろ」
「まぁ...そうだな...」
くだらない会話を真昼間に繰り広げる2人とは裏腹に、宇治正や碁石といったマネージャーはてんやわんやの大騒ぎであった。
W&Pの事務所に、一本の電話が入った。
「はい、もしもしこちらワールドエンターテイナープロダクションの宇治正といいます。」
『え、宇治正さん...』
「...その声は、碁石だな」
『あ、はい...碁石です』
「なら...電話かけてきたってことは...もう既に事は知ってると」
『はい...』
「そうか...なぁ、どうする。こちらとしては例の件は容認してんだが」
『うちは...バレないならと...社長が容認してる状態です。ただ僕としては少し...』
「まぁ、その気持ちもわかるが...。裏で関係持たれて...知らぬ間に撮られたら、大変な事だぞ。お互い共演NGにするのは無理な話だろうし...確実に煙の出る
『...では、我々で二人の関係を管理すると』
宇治正は、厳島裕二と中川朱美が知らぬ間に、裏で付き合ってしまう可能性が往々にして有り得ることを碁石に説明した。
「そういう事だ、関係を持ってもいいが...事務所の意向に従うようにと...。そうだな...一回ここでカモフラージュ打ち込んどくか」
『というと...?』
「良好な
『トレード?』
「あぁ、期間限定...タレント交換よ。」
「本気で言ってますそれ」
飛行機雲が伸びる晴天の下で、白昼堂々画策をする大人たちが、小さく微笑んだ。
その飛行機雲が消え、日が傾きかけた午後3時。草薙の家を出た厳島は、渋谷東急へと向かった。公開中の映画『名探偵物語』を観るためであった。
同時上映の『時間をかける乙女』の時間を合わせればざっと4時間程度、映画を見るにしてはかなり遅めの時間だった。
バレないようにと、草薙に渡された度の薄いメガネと、マスクを身につけた厳島は一人、タクシーで目的地へと向かった。
そびえ立つビルの中に映画館はあった。深緑色の床と低い天井、青白い蛍光灯、公開予定のポスター、ポップコーンの香ばしい匂い。
チケットを買った厳島は、既に消灯している館内に入ると一番後ろの左側の席を陣取った。やがて、カタカタという映写機の音が鳴りながら、映画は始まった。夜のシーンから始まったこともあってか、館内はかなり暗かった。足元の小さな照明がなければ転んでしまいそうな程だった。
やがて、一人の女性がゆっくりとした足取りで暗闇の中入ってきた。完全に序盤が終わりかけた頃だったので、他の観客はスクリーンに釘付けで彼女が入ってきたことにすら気づかなかった。
「...」
「...」
彼女は、戸惑いながらも隣の席に座ると暗闇ながら小さく会釈した。
傍から見れば、今から映画館の中で闇の取引を行うブローカーと売人のようだが、そんな不健全なものではなく、十全とした作戦を遂行していた。
碁石さんから、中川さんの家の電話番号を聞くことに躊躇していた俺は、彼女の親友である今泉さんに連絡を行った。
結果、中川さんの電話番号を無事に知ることができたものの、今度は告白するプランに苦悩した。思案するにも、恋愛経験がほとんどゼロの男子高校生2人では当然いい案が浮かぶはずもなく、告白が頓挫しようとしていた時、再び今泉さんからの電話が鳴った。
『...厳島くん。どうやって伝えるのか考えてるの?』
『えぇと...今、考えてたところ』
『やっぱり...連絡先だけ聞いて大丈夫かなと思ってたから、電話かけて正解だったよ...それで、今日言うの?』
『うん、一応』
『なら、映画館だね。』
『映画館?』
『そう、暗闇でカップルがあんなことやこんなこと...なんてのも多い場所だから...なんて言えばいいんだろ。バレない?っていうのかな...』
『まぁ、告白してるのがバレる確率は白昼堂々行うよりかは低いだろうけど...でもどうやって?』
『声出すと目立っちゃうから、手紙を渡すの。いわゆるラブレターってやつ』
『...なるほど。』
『ただ、気をつけて欲しいのは。映画が全部終わるまでその場にいないこと。途中でバラバラに帰るの。この場合、相手を先に帰してあげるのが適切だと思う』
『帰す時なんて言えばいいの?いきなりそんなこと言ったら不自然じゃ...』
『いきなり帰すのは嫌われてるのかなっていう印象を持たれちゃうから、誘う前に断りを入れとくのが重要。実は伝えたいことがあるから映画館に来て、伝え終わったら入場料は返すからって言えばいいかな...というか、これだけで相手も察するはずだから』
『...勉強になります。』
今泉さんからの指導をみっちりと受けた俺は、意を決して中川さんを映画に誘い、今に至る。
暗闇の中、懐から封筒を取り出す。封蝋されたかなり上等なものである。
草薙の家からかっぱらってきたその封筒の中には、一枚の便箋と映画代の1800円が入っていた。便箋の内容は特筆することも無く端的である。
その手紙を貰い受け、しばし映画を鑑賞した後、中川さんは申し訳なさそうに立ち去った。
俺もしばらく経った後に映画館から出た。
「はぁ...」
外は日が沈んでいるものの、まだ明るかった。本当は、海とか夜景の見える綺麗な高台で深く頭を下げながら手を差し出したかったが...。顔が割れていて、かつどこから撮られているかも分からない今の状況では、到底ロマンチックな告白は不可能であった。
この時ばかりは、自身がプライベートのない著名人であることを強く恨んだ。
返事の手紙が届いたのはそれから数日経った頃だった。
結果は...。まぁ、言わなくとも分かるだろう。
その日から俺は、絶対に知られてはならない秘密を一つ抱えることになった。
ちなみに1983年7月から1987年3月に至るまで、軽く噂こそは出たものの、一度も熱愛報道は出たことがない。全ては厳島の周りに居た人間の秘匿による尽力があったからである。
結婚式は1987年5月に行われた、場所はホノルル島。参列者は、故 宇治正健吾ほか複数人の著名人や親族で彩られ、小規模かつ豪華な式が開催された。
世界一周旅行を狙っただけなのに····· 草原 山木 @uneboshi1023_shyma
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