第77話
息を整える。後ろから聞こえる声援が完全に聞こえなくなるほど、眼前の水面に集中する。スタートが重要だ。
最初はクロール、折り返しで最も得意な背泳ぎ。プランは決まっている。目指すは1位、自然と気合いが入る。
ゴーグルをつけ、屈伸。台の上に立ち、腰を曲げた。
パンッ
という、スターターピストルの音が鳴り響いた瞬間。足に込めていた力を解放、水の中に飛び込んだ。
まずまずの入水だ。けのびの要領で弾丸のように水中を進む。そこからはひたすら腕と足を動かすのみ。メトロノームのような一定のテンポを刻みながら、息を吸う。数年のブランクを考えればまずまずの速さ。
4、3、2メートル...1...蹴るッ。
体をくるりと返しながら天に顔を向けた。壁を勢いよく蹴り、なるべく遠くまで身体を運ぶ。腕を大きく回しながら、ひたすらに進む。
あとどれぐらいだ。
距離を確認する余裕すらない。ただ、他の選手よりもだいぶ先にいることは察しが着いた。何せ、俺以外は今、ようやく折り返したところだ。
このまま行けば確実に1位、自身はある。
もうすぐ...もうすぐだ。
体幹あと2メートル。
あと少し...否。壁。予想よりもだいぶ早くタイルに手を着いた。ゴーグルを取る、プールサイドに置かれたタイマーを見やる。
『1st 厳島 裕二 27.11』
よし、よしよし。
かなり速い、衰えるどころか川で泳いでいた頃よりも成長した気がする。
2着は31秒14。俺は、圧倒的な速さで男子自由形50mを制した。花形競技ということもあって、点数はかなり高めの80点、白組にかなりの貢献ができた。後は、他の出場者が頑張ってくれれば赤組と大差を付けることも夢じゃない。
俺は肩を上下に動かしながら水から上がった。
77
結局、赤組に負け。最優秀選手賞を掻っ攫われた翌日。水泳大会での疲労回復のため、久方ぶりの完全オフを与えられた俺は、同じくオフの草薙の家に居た。
「相変わらず眺めいいよな...ここ」
「両親共々、小金持ちだからな」
「羨ましいぜ」
「母親が教授で父親が弁護士だぞ...勉強に関する重圧に耐えられればさぞ羨ましかろうな...それに、お前の方が稼いでんじゃねぇの」
「さぁ...」
「あ、はぐらかした」
草薙の家は港区の大層なマンションの一室にある。窓からの眺めは最高で、一度泊まらせてもらった時あまりに夜景が美しく、曲を作る際のアイデアノートにペンを走らせたほどだ。ちなみにその時生まれた曲が、デビュー曲の『東京ロープウェイ』である。
「しっかし、久しぶりの休みか...そう言えば水泳大会どうだった」
「良かったよ、普段泳ぐ機会なんてそうそう無いから心地よかった。まぁ、腕周りの筋肉痛が半端ないけどな」
「湿布貼っとけ、湿布」
「明日には治るから...」
「と言いつつも、単純に湿布の匂いが苦手なだけだろ」
「ご名答」
「正解かよ...まぁ、明日までには治るようにちゃんと静養しろよ...あれ、だったらなんで
「暇すぎてつい...」
「お前なぁ...」
週に2度会っている仲ではあるが、仕事以外で草薙と会うのはデビューから数える程しかない。男子高校生のくだらない会話を平凡にタラタラと話す機会すら、今では貴重だ。
「...なぁ」
「ん?」
「いや、まぁ...そのなんだ...メロン食うか。知り合いからいいのが届いてな、銀座千疋屋だぞ」
「メロンか...俺メロン苦手なんだよな」
「まじかよ...ならイチゴ?」
「うん、イチゴなら食える」
草薙は、広いリビングを走りダイニングキッチンの奥にある大きな冷蔵庫の中から、箱に入ったイチゴを取り出し練乳と共に持ってきた。
「おいおい、高いイチゴだろ...練乳なんてかけていいのかよ」
「いいのいいの、ウチはこのイチゴ嫌になるほど食ってるから...無くなると補充されんだよ」
「贅沢な家だな全く」
「旅行とか、ブランド物とか両親が買わない主義でな...まぁ、無駄に余った金を食い物につぎ込んでるだけだよ」
「そっか...」
「あぁ...それよりもお前さ」
「なに」
「まだ言ってないのか」
「は、何が?」
「だからよ...そのあれだよ」
唐突に神妙な面持ちで話し始めた草薙を横目に、俺は大きなイチゴを頬張った。
「...お前はもう17歳、青春真っ只中だ。当然男女の色恋も興味が湧いてくる年頃。」
「何が言いたいんだ」
「単刀直入に言うぞ。お前、とっとと告白しろよ」
「ブッ.....何言ってんだ」
「誰とは言わねぇが、相手はよ...待ってんだぜ。ちゃんと気持ちに答えてやれよ、じゃなきゃ気持ちも冷めるしそれに、いつまでも焦らし続けるような状態じゃお互い仕事に集中できないだろ」
「ま、まぁ...そうだけど。でも相手方に迷惑がかかるかもしれないし何より...週刊誌とかよ」
「んな、ちまちましてたら芸能人は誰も付き合えないし結婚も出来ないぞ。いずれは結婚会見するぐらいの気概でドンと構えろよ」
「今付き合っても事務所の方針で破局するのがオチだろ」
「お前よ...ちっとは宇治正さん信頼したらどうなんだ。仮に付き合ったとしても、あの人なら応援してくれるだろうし何より関係各所に交渉するような人間だぞ」
「...今じゃなきゃダメなのかよ」
「あぁ、今じゃなきゃダメだ。今年中には告白しろよ」
「んな勝手な...」
「なぁ、お前と中川朱美さんの今の関係、一体どれだけの人間が知ってると思う」
「は?そりゃ、今泉さんと...お前と...まぁ、水谷さんあたりだろ」
「違ぇよ」
強く否定する草薙に、イチゴを頬張る手が止まる。
「それに加えて、宇治正さん...それに碁石さん、それぞれの事務所の社長まで知ってる。逆に言えばそれ以外の人は1ミクロンも知らん」
「ちょっと待て...宇治正さんに、碁石さん...朱美ちゃんのマネージャーの...?」
「あぁ、ていうか一番最初に気がついたのは碁石さんだ、何せ中川さんのマネージャーだからな。お前のブロマイドを中川さんが持ってるのをたまたま見かけたんだとよ」
「...じゃあ、マネージャーは俺と朱美ちゃんの関係を容認すると」
「明確に容認とは言い難いが、ほぼそうだ。世間的にもお前と中川さんは言わば82年組の二枚看板、アイドルの中でも相性のいい男女、言わばカップリングが成立してるわけだ。バレたところで強い風当たりが来る訳でもないし、なにより相手方は、中川さんがこのまま片思いを続けて、複雑な心境を継続されるのを不安に思ってる。」
「し、知らんかった...」
「当人からしてみれば、世間が自分に感じている客観的な価値観なんて分かりもしないことだからな。まぁ致し方ないわ」
衝撃の事実だった。世間からしてみれば、俺と中川朱美はいわゆる、お似合いと呼ばれる間柄、第三者が勝手に押し付けた価値観ではあるものの、あながち間違ってなかったのだ。なんという偶然。
「早く告白しろ、別に付き合って週刊誌にすっぱ抜かれても仲のいい友人ですとか適当な嘘ついとけ、そこら辺は事務所が何とか取り繕うからよ」
「でも、友人ですとか言ったら中川さんにとっては面白くないんじゃないか...付き合ってることを否定されるなんて相当な苦痛だと思うが」
「んなこと、付き合う前にルールとか決めろよ。『疑われた時は仕方なしに嘘を着くこと』とかよ、お前と中川さんなんてタダでさえすれ違いが多そうな仕事してんだから、付き合う前のルールをキチッと決めるのは当たり前だろ。誤解とか生じないように破局路線は徹底的に潰しとけよ」
「なんか、ぐうの音も出ないな」
「まぁ、もしも付き合うようなことがあったらよW&Pは全力でサポートするから、大舟に乗ったつもりで付き合えよ。ただしあまりにも堂々としすぎるのもまずいから、節度を保ってくれ」
「...まぁ、それは分かってるとも」
「今のうちにトランシーバーとか買っとけば?『マンション前に週刊誌いるよ』とか、お互い連絡もできるだろ」
「なんか、潜入捜査官みたいだな...」
「どちらかと言えば、捜査する側じゃなくて週刊誌に捜査される側だけどな」
芸能人の交際には大きな代償が伴う。それも売り出し中の若手アイドルともなれば、極秘中の極秘恋愛をしなければ、翌週には週刊誌の一面記事を飾ることになる。
正直いって中川さんの事は好きだ。
俺がもしもデビューせずに平凡な男子高校生として青春を謳歌していたのならば、必ず彼女の事をブラウン管越しに応援していたに違いない。
そんな女性に好かれているにもかかわらず、足を竦ませ告白のコの字も成そうとしていない俺は、かなり不甲斐ない男だ。ただ、周りの目が怖い。
バレれば芸能生活に多大なる支障が出るかもしれない。俺だけが非難を浴びるならまだいい、だが彼女にまでそれがか及ぶこと考えると、大手を振って告白するのは難しい。
水面下で付き合うことはかなり難易度の高い事だということは重々承知している。仕事も忙しく、デートも年に数える程しか出来ない。
仕事で疲れている中で恋愛でも疲れさせては申し訳が立たないし、彼女は性格もよく他人を優先するような聖人であるが故に、自分のような男に恋人として気を使わせる事が非常に後ろめたい。
「よし、お前今日告白しろ」
「はっ!?」
「男がネチネチしてんじゃねぇぞ、当たって砕けることも無い成功率99.9%の告白を渋るような奴がどこにいる。相手はあの中川朱美。逃したら後悔どころの話じゃねぇ、とりあえず付き合え。後は俺たち裏方が全面的に協力してやるつってんだ。相手方の事務所もそう思ってる、碁石さんも社長もほぼ容認してる。だから、今日告白して、今日から付き合えこの野郎...!.....はぁ...はぁ...」
「なにも...息切れするくらい熱弁しなくても」
「電話、電話かけるぞ。とりあえず宇治正さん、そして碁石さんにアポ取れ『俺、今日告白します』って」
「おい、ちょっと急すぎないか」
「急も何も無ぇ、遅すぎるくらいだ」
半ば強引に草薙に手を引かれた俺は、草薙家の電話の前まで来ると、ゆっくりと番号を押した。
踏み出せなかった一歩を、背中を押されようやく進んだ気分だった。まぁ、押されたと言うよりかは強烈なドロップキックに近い訳だが...。
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