後編:本当に賭けたもの
そう。ここは眼鏡屋なのだから、ほとんどの人は眼鏡をかけていて当然だ。そうでなければ、最初からスズだって自分が負けたら絶交だなんて言わなかったはずだ。
だから最初から結末が決まっている賭けなのだ。お互いに結末はわかっている。僕が負けるのが前提で、そうやって意地っ張りな僕に、ごめんなさいを言う機会を与えてくれているのだ。
…大変困ったことになった。
入店したおじいさんに眼鏡が見当たらない。一般的な眼鏡のフレームは無視して、一直線に老眼鏡へと向かっているようだった。焦りで頭の中が混乱し、思考が鈍っていくのを感じる。
まさか絶交することになるなんて思ってもいないだろうスズに目を向けると、まだ会計中でおじいさんの入店には気付いていないようだった。
僕は慌てて立ち上がり、速足でスズのもとへと向かった。
「スズ。もう終わった?」
「受け取ったよ。おまたせ。」
「じゃあ、アップルパイを食べに行こうか。」
少し焦りが話し方に出ていたかもしれない。それを察したかのようにスズが問いかけてくる。
「誰か入ってきた?」
やはり確認されるか。一瞬で血の気が引く。きっと真っ青な顔になっているに違いない。せめてスズに悟られないようにと顔を背けた。すると、先ほどのおじいさんが眼鏡をかけようとしているところだった。今にも声が出そうになるが、心の中で叫ぶ。
はやくその眼鏡をかけるんだ!!
そう祈りながらも自然な動きでスズの視界におじいさんが入らないように自分の立ち位置を調整した。僕はおじいさんが眼鏡をかけると同時に返事をする。
「うん、眼鏡をかけてるよ。ほら。あのおじいさん。」
スズが視線を向けた時、先ほどのおじいさんは老眼鏡を試着して鏡をのぞき込んでみたり、近くに置いてある雑誌を見たりしている。眼鏡を試着していたら、それがお店のものなのか、本人のものなのか区別できないはずだ。
「ふーん。」
「約束だからアップルパイを奢るよ。それで許してくれ。」
僕は賭けに負けたことにでも、鼻が低いと言ったことに対する許しでもなく、おじいさんが入店時にも眼鏡をかけていたという嘘に対する許しを求めて言っていた。もちろん僕の心の中でだけれど。
その言葉を聞いて、スズは気分が良さそうに、横目で見ながらニヤニヤと意地悪な笑みを見せた。
「眼鏡をかけていて良かったって思ったでしょう?」
ああ、これは僕が賭けに負けたことに対しての質問じゃないなと、スズの表情と言い方で気が付いた。
眼鏡をしていないおじいさんが入ってきたことも、そのおじいさんが試着しているうちにと慌てて駆け寄って来たことも、気付いているに違いない。そのうえで、試着用の眼鏡をかけてくれて安心したでしょうと訊いてきている。
彼女は、彼女の恋愛を賭けていたのだ。
最初の賭けで絶交という言葉が出てきたのも、この問いかけも、スズの目的は全てひとつだ。僕の気持ちを確かめている。そして、私の存在の重要性を認めなさいと言わんばかりのセリフだ。
店のドアを開けた僕の横を、軽快な足取りですり抜けていくスズに後ろから声をかけた。
「ああ、もう降参だ。認めるよ。絶交は嫌だ。」
思い知らされた。自分の中の淡い感情を引きずりだされたようで、たまらなく恥ずかしい。顔が赤面しているのを感じる。
あんなに必死になって嘘をついて、これはもう好きだと言っているようなものだ。もう長い付き合いになるというのに、スズ相手にこんな気持ちになるだなんて思ってもいなかった。
「そう、そんなに焦ってもらえたなら、この賭けは私の大勝利ね!」
彼女はとろけるようなほころばせた笑顔で、こっちを振り返る。新調した眼鏡はとても似合っていて、もう眼鏡の位置を直す必要なさそうだった。
ああ、鼻が低いだなんて言ったのも、子供が好きな子をからう行為のようで、今思えば恥ずかしい。そろそろ僕も、もう少し大人にならないといけないかもしれない。
店の自動ドアが開くのを待つほんの一瞬、スズの手を取った。
「え!??」
驚きの声をあげたのはスズだった。
緊張で手に汗をかいてないか気にしながらも、スズのひと回り小さな手を握りこむ。その手はかすかに震えていた。そして、スズも僕と同じように赤面している。この後どんな話をしたらよいのか、頭を悩ませることになりそうだ。
新たな一歩を勇気をもって踏み出したスズの気持ちに応えるためにも、僕も勇気を出して、この気持ちを伝えたい。そう心に決めて、スズの手をもう一度深く手をにぎりなおして店を出る。
いつのまにか雨は上がり、雲から光が差し込むのが見えた。
彼女の仕掛けた大きな賭け 那古野 賢之助 @kennsuke
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