彼女の仕掛けた大きな賭け

那古野 賢之助

前編:絶交の確率



じっとりとした重い空気に、肌に張り付くようなシャツ。しとしとと降る雨粒が水たまりに跳ね返るのを眺めながら、誰とも知らない人が訪れるのを待つ。時計の針は、予定の時間まで残り1分を指しているが、まとわりつくねっとりとした空気にからめとられるように遅々として進まない。


隣に座る女の子「スズ」の横顔からは表情が読み取れない。ただただこの無言の空気が苦しい。こんなに重い空気にするつもりはなかったのに。この事態を招いたきっかけは自分の何気ないひとことだった。



***



隣には、一緒に待っているスズがいる。今日はスズが予約した商品を取りに来た。美味しいアップルパイが食べられるということなので、僕も同行することにしたのだが、しばらくおあずけらしい。商品の調整や準備の時間は5分ということなので、きっとすぐに呼ばれることになるだろう。


スズは僕の高校時代の友人で、物静かで教室の隅で本を読んで休み時間を過ごすような子だった。一度何を読んでいるのか訊いたことがあるのだけれど、有名な賞をダブル受賞したというハードボイルド小説だとのことだ。そのハードボイルド小説と言っているのが、冗談なのかそれとも本気なのかわからずに、自分から質問したにも関わらず生返事で返した記憶がある。


小柄でボブカットで眼鏡をかけていて、色白なスズは絵にかいたような文系女子だった。眼鏡が顔の一部のようになっていたが、とても整った顔をしているので、眼鏡で隠すのはもったいない。


出会ってから、もう4年の月日が経ってそれぞれ別の大学にいくことになったけれど、結局都内でこうして定期的に会っている。これで付き合っていないのだから、不思議なものだ。実のところ、半年前に1年近く付き合った彼女と分かれたばかりで、遊び盛りの大学生でありながら、半ば悟ったように交際はもう必要ないと思っている。


そんな僕ではあるが、スズと一緒に過ごす、このゆったりとした時間を気に入っている。




本のページをめくると、スズはクイッと眼鏡を上げた。手持無沙汰だったので先ほどからスズを眺めているのだが、3ページに1度は眼鏡の位置を直している。



「・・・鼻が低いんじゃないか?」



このジメジメした空気がそうさせたのか、定かではないが、半分冗談で言ったその言葉が、彼女には気に障ったようだ。スズはパタンと本を閉じると、顔を動かさず視線だけで、こちらを睨みつけた。



「あなたって、ちょっと眼鏡をかけている人を小馬鹿にしているところがあるわよね。」


「そんなことはないよ。原因を見つけたと思っただけだ。」



少し意地悪なことを言ったと理解しながらも、体裁を取り繕うように、そんな言葉が出てしまった。こんな天気だからか、この店の来客は少ない。



「ねえ。賭けをしましょう。」



今までに聞いたことのないスズの声のトーンに急激に緊張が走る。聞き間違いなのではないかと疑った。雨音が妙に煩い。水たまりの水面に雨粒が叩きつけられ、跳ねている。スズが賭けようなんて言うのは、初めてだ。



「次にお店に入ってくるお客さんが眼鏡をかけているか。もちろん私は眼鏡をかけている方に賭けるわ。当たったら、私にアップルパイを奢って。それでさっきの失礼な物言いは許してあげる。」


「良いけれど、それ外したらどうするんだい?」



指先を髪に絡めて弄ぶスズの真っ白でほっそりとした首筋が時折覗く。どうやら悩んでいるらしかったが、決意をするかのように眼鏡をクイッと上げた。



「絶交よ。・・・連絡できるものは全てブロックするわ。」



それどちらも僕にとって嬉しくないんですが、とは言える雰囲気ではなかった。


狼狽えるな。もとより回答の選択肢の無い賭けなのだ、選べない選択肢なら勝ち負けは今はどうでもよい。なぜ、4年以上続いてきた関係を終わらせるようなことを言い出すのか。そちらの方が問題だ。僕なら今更そんなことは考えられない。




僕たちが座るソファの向かい側は、野外型ショッピングモールの通路に面していて、ガラス越しに人通りが見える。でも、人が見えた時点で結果が分かるかと言えばそうではない。なぜなら、通り過ぎて別の店舗へと向かっている場合がある。


ちょうど目の前を爽やかな陸上競技をしていそうな青年が傘をささずに走って通りすぎていく。


分かっていても、冷や汗をかく。傘を指していれば顔が分かりにくいし、雨で人通りが少ないとはいえショッピングモールなのだから、それなりに行き交う人はいるものだ。




***


そんなわけで、この事態に陥ったというわけだ。


眼鏡をかけていない人が店の前を通るたびに落ち着かない気持ちになったり、胸をなでおろしたりしている。全国の眼鏡人口比率について調べようかと思ったほどだ。それを知ったところで、結果は変わらないので調べるのはやめたのだが。


幸い、今のところ誰も入店してきていない。


・・・残り1分。どういうつもりで、こんなことを言い出したのかと隣にいるスズの横顔を覗くも、本を真剣に読むばかりで表情は読み取れない。きっと賭けについては何とも思っていないんだろう。


もともと、僕がアップルパイを奢ることになって、機嫌を直して仲直りしてもらうだけの、ただの口実だったはずだ。


ならなぜ、絶交なんてことを言い出したのか。もしかしたら、僕が気付いていないだけで、積もりに積もった不満が爆発したとでもいうのだろうか。


そんなことをスズの横顔を眺めながら考えていると、スズがふとこちらに顔を向けた。無言でこちらを見られると胸が苦しい。何か言ってくれ。


それなりに長い付き合いだから考えていることが分かると勘違いしていた。でも、本当の深いところの考えは、見抜くことなんてできやしない。それが本当にもどかしい。


時間にしたら3秒ほどだろう。まるで、無言のまま視線を絡め合った後、眼鏡の奥でゆっくりと瞬きに揺れるまつ毛を見つめる。ふっと息を吐いたのを感じる。何か言葉を発するであろうその時を、じれったいような、怖いような、複雑な感情で待つ。


スズが何かを言おうと、唇を開きかけた、まさにその時に別の声に割り込まれた。



「――――56番でお待ちのお客様。」



スズは何か言いかけた言葉を飲み込んで視線を逸らし、カバンを持って立ち上がり、受け渡しカウンターへと向かった。


このまま店を出るまで人が入ってこなければ、そもそも賭けを無かったことにできる。無効試合で良いだろう。僕は受け渡しカウンターで確認と説明を受けるスズの姿を見るなり、ほっと胸をなでおろした。




・・・これで終わりのはずだったはずなのに、無情にもひとりの男性が店先で足を止めた。


ドアの向こうで傘の雫を落としていて、顔は見えない。その白髪頭の男性は、ジャケットにスラックスという恰好と、雫を払い傘を畳むふるまいから丁寧な印象を与えている。


まさかこのタイミングで人が入ってくるとは思わなかった。賭け自体を無かったことにすることは出来なくなってしまったかもしれない。でも問題ない。眼鏡をかけていてくれさえすればいい。大丈夫だ。落ちつけ。




だって、ここは『』なのだから。




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