右手の連れ

二石臼杵

見送る手袋たち

 祖母の部屋には手袋が溢れていた。祖母は親戚や知り合いから使わなくなった手袋をもらい、それこそ軍手から革製のものまで種類を問わず集めていた。

 祖父が亡くなった年からその趣味は始まったのだという。おかしくなってしまったのだろうか、と家族のみんなは心配したけれど、私はとくに気に留めることはなかった。元々、さして興味がなかったのだ。

 もらった手袋をどうするのかというと、祖母は左手の手袋だけを鋏で切ったり針金で固定したりして、まるで折り紙のようにいろいろな動物の形にしていった。どういうわけか細工するのは決まって左の手袋だけで、右手の方の手袋は、なにも手を加えずにタンスの一番下にしまっていた。

 出来上がった手袋の動物たちはそれはもう立派な仕上がりで、商品として売ってもいいような気がしたが、祖母はそうしなかった。それどころか、積極的に誰かに見せようともしなかった。


 最初にその作品を見つけたのは私の妹だった。妹は祖母の部屋に飾ってあった手袋アートをリビングに持ってきて、私たち家族に見せびらかした。両親も私も口々にすごいね上手だねと褒めちぎったが、祖母は照れくさそうに笑うだけだった。あるいは、あの眉の形は困っていたのかもしれない。

 両親や妹は、寂しさを紛らわせるための趣味を見つけたのだろうと安心して、そして祖母を見守ることにした。この場合、見守るというのは、放置とほぼ同義だ。

それまで甲斐甲斐しく祖母の周りにいた家族たちが、傷が治って剥がれる絆創膏のように離れていってはじめて、私は祖母とよく話すようになった。

 他の家族の埋め合わせのつもりだったのか、罪悪感からだったのか、自分でもわからない。ただなんとなく、私が祖母と話す順番が来たのだろうと思った。私は鬼ごっこの鬼になり、祖母はババ抜きのジョーカーになっていた。


「おばあちゃん、これ、いくつ作れば気が済むの?」


 祖母の部屋はすっかり動物園と化していた。手袋から生まれ変わった猫やキリンたちが机やタンスの上に並べられている。檻の中でもないのに窮屈そうだった。


「さあ、いくつかなあ。いつかは終わるだろうけど、気が済むことはないでしょうよ」


 そう言いながらも祖母は右手にだけ手袋を着けて、手に持っている左側の手袋に細工をしている。新作に取りかかっているのだ。左の手袋の中に針金を入れて芯を作り、親指を曲げて頭とくちばしに、小指の部分を尻尾にして、残りの指は鋏で何本にも切り分けて翼にしていた。真っ白い手袋が、あっという間に折り鶴になった。


「こんなにあるのに、まだ足りないんだ?」


「足りないってことはないんだけどね、一つでも多くあった方がいいんだよ」


 祖母は出来上がったばかりの鶴を机の上に置く。他の動物たちを押しのけて飾られた新参者は、少し肩身が狭そうだった。


「……寂しいから?」


 躊躇して訊くと、祖母は間を空けてからゆっくりと首を振る。そうして私の方を向き、ぎこちなくウインクをしてから口を開いた。


「道連れを、作っているんだよ」


 優しそうな顔で語られた物騒な単語に、背筋を撫でられた。目の前にいる祖母が、どこかここではない別の場所に座っているような気がして、私は思わず机の端に手をかける。机の上から熊とライオンがころりと落ちた。


「縁起でもないこと言わないでよ。そういう話はね、笑えないんだよ?」


「ああ、ごめんねえ」


 祖母は申し訳なさそうに目を伏せながら、熊とライオンを手ですくって机の上に戻す。


「そんなたいそうな話のつもりじゃなかったんだけどねえ」


「いいよ。で、道連れってどういう意味?」


「うん、あのね」


 そこでようやく、祖母は右手にはめていた手袋を外した。さっきできた鶴の片割れだ。


「この手袋をはめた手で、もう片方の手袋を切ったり折ったり、するでしょう?」


「そうだね」


 祖母は脱いだ右手の手袋をつまんでひらひらさせる。私は催眠術にかかったように揺れる手袋をじっと見ていた。


「あたしはね、右の手袋を使って、左の手袋をいじめてやってるのさ」


 そこで祖母は動物に囲まれた湯飲みに手を伸ばし、一口すする。やや熱かったのか、手袋で湯飲みをくるんでいた。


「いじめる? こんなにかわいくしてあげといて?」


「ふふ、手袋としては死んでるも同然だよ」


 湯飲みと手袋を置き、今度は煎餅とみかんの入った木の菓子器を私の方に差し出す。私がなにも取らないのを見ると、祖母は煎餅を一つ取って袋に入ったまま砕き始めた。


「それがどうして道連れになるの?」


 祖母は細かく砕かれた煎餅をひとかけら放り込み、少し移動してからタンスの一番下の引き出しを開けた。動物になれなかった右手の手袋たちがぎっしり詰まっている。

 さっきの鶴になり損ねた白手袋もそこに入れ、祖母は遠い目でそれらを眺める。


「この手袋どもはね、自分の大切なもう片方を切り刻んで、もう揃ってはめられることはないのに、それでも捨てられずにいるんだよ」


 それからそっとタンスを閉じる祖母の背中は、いつもより丸まって見えた。


「一番好きな相手に置いてかれたんだ。あたしとおんなじさ」


 私はなにも言えなかった。反論するのは簡単だ。否定することもできる。だけどそれは常識とかモラルとか、自分でも理屈のわからない上辺だけの筋だ。今の祖母には届かないだろう。

 だから、私は話を逸らした。


「ねえ、どれか一つ、もらってもいい?」


 私は逃げたんだ。

 タンスに挟まって、隙間からはみ出ていたすすけた茶色の手袋を指さすと、祖母は眉を持ち上げた。


「そんなのでいいの? そこにあるのは片っぽの右手だけだよ。もっとおしゃれなやつを買ってあげようか?」


「ううん。これがいい。もらうね」


「そう、ええよ」


 私はそれを受け取って、無数の手袋動物の視線を背中に感じながら部屋を出た。

 これが、祖母が元気なときに交わした最後の会話になった。



 死というものは、とことん空気を読まない。遠慮なくずかずかと、あいつは土足でやってくる。家の晩ご飯を勝手に覗く隣の他人みたいに。

 私が仕事を早退して帰ってきたときには、祖母はもうお棺の中で眠っていた。妹がその棺にしがみついてわんわん泣いている。私の目からは涙はただの一滴もこぼれなかった。

 妹が私の分まで泣いているんだなと思ったし、自分はなんて祖母不孝な孫だろうと呆然とした。思えば、祖父がいなくなったときもおんなじだった気がする。

 花に囲まれて目を閉じている祖母はきれいだった。頬はほんのり薄紅色に染まっていて、肌もつやつやだ。けれども、また起き上がりそうなほどの生気は感じられなかった。


 納棺のとき、私はわがままを言った。棺の中に、祖母のタンスの中にある右手だけの大量の手袋を副葬品として入れてほしいとごねたのだ。

 驚いたことに、両親も妹も、誰一人右手だけの手袋の意味を知らなかった。入れるなら動物の形に整えられた左手の方がいいだろうと反対された。だけどそれじゃだめなのだ。右手じゃなきゃ道連れにならない。祖母の遺志が意味を失くしてしまう。

 頑なに譲らない私に、両親たちはなんとか折れてくれた。ただし、動物の作品も一つくらいは入れることが条件だった。


 翌日、祖母の周りは色とりどりの手袋たちで囲まれていた。毛糸の手袋、革手袋、軍手、指ぬき手袋、スマホ用手袋、果てはドレスグローブなど、さまざまな右手が祖母の全身を包んで撫でているように見えた。

 そして、祖母が指を組んでいるすぐ横には、すすけた茶色の狐が添えられている。祖母からもらった、茶色の手袋だった。ところどころほつれているけど、見られる程度には手入れしたつもりだ。

 針金の芯を入れ、形が崩れないようにしてから握り拳にして、人差し指と小指だけちょっと立てて耳に見立ててみた。それからフェルトで目を、毛糸でひげを付け足してやった。

 私がもらった茶色の手袋は右手だったけど、今祖母の上にいる不格好な狐は左手のものになっていた。右手用の手袋を裏返して、左手の形にしてから狐を作ったんだ。

 昨日の夜、ふと思った。祖母は右手の手袋を、祖父に先立たれた自分と重ねていて、道連れにしたがっていたけど。実はやっぱり、両方揃って旅立ちたかったんじゃないのかと。だから、私も一枚だけ、祖母の気持ちをひっくり返して、ひねくれさせた。


 ねえ、そうでしょう、おばあちゃん? あなたの周りにはこれだけつなげる手がある。これでもう、つなぐ手には困らせない。寂しがらせてやるもんですか。

 もう右手の手袋は道連れとは呼べなかった。恥ずかしがり屋でめんどくさい祖母のことだ。素直に言えなかったに違いない。これは道連れじゃなくて、もはや友だちだと。

 相も変わらず、お棺の中の祖母の表情は動かない。最後の祖母は、両手の爪の先まで美しかった。手袋で守ってあげたくなるような、しわだらけで、しみだらけで、か細い手だった。私はその手を壊れないように柔らかく握り、挨拶を済ませた。


 それが奇跡なのかはわからない。偶然のいたずらかもしれないし、案外よくある出来事なのかもしれない。あるいは聞く人によってはぞっとするようなホラーの可能性もある。

 火葬が終わって出てきた祖母の左手首から先の骨だけが、どこにも見当たらなかったのだ。親族一同は首をかしげていたけど、私だけは上を見上げていた。ガラスの窓から見える空は青く澄んでいた。


 最後の最後に、祖母は手をつなぐことができたのだろう。祖母が遺した手袋は祖父の右手となり、祖母の手を取って一緒に歩いていったのだ。

 そんな二人を大勢の手袋が見送り、安らかな拍手を捧げている光景が見える。右手だけでは拍手はできない。だから、私が裏返して左手になった狐は、忙しそうにたくさんの右手袋たちとハイタッチしていた。

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