忘れないで……

「うわぁ!」


 私は椅子から飛び上がった。

 急いであたりを見渡す、額のこつんの正体がわかった。


「なんだ、愛梨寿か」


 愛梨寿が、持っていた石で私の額をこつんと叩いていたのだった。


「ん? 愛梨寿! 良かった、無事で……」


 私は愛梨寿を抱きかかえると、そのまま強く抱きしめた。もう離さないよ、愛梨寿たん……。


「本当に良かった、僕たち無事に帰って来れたんだな?」


 そう問いかけても、愛梨寿はただじーっとこちらを見つめるばかり。


「あれ? 愛梨寿、どうした?」


 やがて愛梨寿は、ごっ、ごっ、と言いながら、壁を指差した。連れて行け、の合図だ。


「ひょっとして……喋れなくなったのか?」


 その必死で指差す愛梨寿を見ながら、私はさっきの言葉を思い出した。


『元の世界に戻っても、念のため私の知能のことは隠しておく。このことは時が来るまで私たちの秘密ね』


 どういうことなんだ? 愛梨寿。

 次の瞬間、ガラガラ、と扉が開く音が鳴った。思わず私は息を止めた。愛梨寿を抱く腕にも力が入る。


「あら、二人ともこんなところにいたの」


 妻だった、手には山盛りのいちごを持って。一応確認したが、どう見ても人間だった。


「あれ? これだけしか狩ってないの? あんなに時間あったのに。まあいいわ、私がたくさん狩ってきたから」


 そう言いながら、机の上にあった私が狩ったいちごを一つのケースにまとめた。そのまま会計カウンターに向かおうとしたその時、


「あらあら、愛梨寿ちゃん。どこで砂いじりしたのぉー。服が汚れちゃってるじゃない」


 そう言って、愛梨寿の服をぱんぱんと叩いた。


「あなた、ちゃんと見ててくれた? どうせまた居眠りしてたんでしょ」

「いや、ちゃんと見てたよ。逃げるのに必死だったけど——」

「ん? 逃げる?」

「いや、その……逃げる、じゃなくてミゲル……」

「ミゲル? ミゲル君ってあの消臭元しょうしゅうげんの?」

「いや、ミゲル君がCMソングを歌ってたのは消臭力しょうしゅうりき、エステーだ。ちなみに消臭元しょうしゅうげんは小林製薬」


 は? 何言ってるのか良く分かんない。寝ぼけてんの? そう呟きながらその場を去ろうとしたその時、


「あれ、あなた何持ってるの?」


 私はさっき愛梨寿から渡された石を持っていた。きれいな六角形をしている。


「ああ、これ。賢者の石……かもしれない」

「賢者の石? 何それ、ハリーポッター? まさか持って帰るなんて言わないわよね」

「え? まあ、そうだな。でもいつどこで必要になるかわからないからな」

「はあ? ちょっとやめてよ、そんな汚い石。さっさと捨ててよね、この前も愛梨寿が拾ってきたきったない枯葉大事に取っておいたけど、どんどんぼろぼろになって結局捨てたんだから。あの後の掃除、すっごく大変だったんだから」


 そう捨て台詞を吐いて、妻は立ち去っていった。

 私は胸に抱かれた愛梨寿を見た。相変わらず彼女は、あ、あ、と言いながらどこかを指差している。


「だってさ。賢者の石がどれだけ大事なものか、愛梨寿たん、君なら分かるよな?」


 念のため問いかけたが、やはり愛梨寿はいつもの一歳の娘にしか見えなかった。それは愛梨寿の完全なる演技なのか、それとも——。

 

 夢——。

 あれは夢だったんだろうか、むしろそうであってほしい、あんな現実が存在すると考えると、想像しただけでぞっとする。

 だが愛梨寿はあの時確かに言った、『時が来るまでの秘密』と。それが一体いつを指すのか、何を意味しているのか、私には皆目見当がつかない。だがきっと望む望まないに関わらず、その時は来るのだろう、そうなれば全てが明らかになる。それまでは胸にしまっておこう、私たちの大切な秘密として。


「ねえねえ聞いて! すっごく安くしてもらっちゃったー」


 妻が嬉しそうにビニルに入ったいちごを持って帰って来た。


「やっぱりいちご狩り来て正解だったね、食べる?」


 すっ、と妻が真っ赤ないちごを差し出す。何故か私はためらった。


「あれ? 食べないの? おいしいのに。はい、愛梨寿ちゃん、どうぞ」


 愛梨寿は渡されたいちごを迷わず口に放り込んだ。


「あぁ! 今のいちご、赤いいちごだったよね?」

「何言ってるの? 赤いいちご以外採るわけないじゃん」


 愛梨寿がもぐもぐといちごを食べる。どうやら世界が変わったり、知能が変化している様子はない。


「あなたも食べたら? はい」


 私は差し出されたいちごをじっと見つめた。緑ではない、それを確認し、ゆっくり口に入れる。そして……。


「……う、うっ!」


 そのまま飲み込んだ。


「うまい! めちゃくちゃ甘いな、このいちご」

「でしょ? やっぱりいちごって最高よね、私生まれ変わったらいちごの王女様になろうかな」


 そう呟きながら、妻はいちご園の出口を抜けた。

 最後に私はもう一度だけ、いちご園を見回してみた。やはりそこは何の変哲も無い、普通にあるいちご園の光景があった。


「そりゃそうだよな」


 帰り際にカウンターに目をやると、あの青年はもういなかった。



 帰りの車、赤信号で止まったタイミングで私は後ろを振り返った。

 妻と愛梨寿が気持ちよさそうに眠っている、疲れただろう、ゆっくり休むといい、そう思いながら、再び私は前を向いた。

 それにしても不思議な体験だった。時間が経つにつれ、あれはやっぱり夢だったんだと分かるようになっていった。日頃のストレスというか、思っていること感じていることが如実に現れていた、ある意味面白い夢だった、そして本当に醒めてよかった。


 赤信号はまだ変わりそうにない、私がドリンクホルダーにあるブラックの缶コーヒーを口にすると、豆の香りと絶妙な苦味が口の中に広がった。そしてそのまま大きく伸びをする。うーんという呻き声を上げながら全力で伸びきり、それがようやく終わりかけた、そんな時だった。


「忘れないで」


 妻ではない、どこかで聞いた声がはっきりと車内に響いた。

 思わず私は振り向いた。


「『とこしえの実』の効果はそう簡単には消えないから」


 先ほどまで閉じていた愛梨寿の目が、カッ、と見開き、睨むようにこちらをじっと見つめていた。


(了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

いちごの国のアリス 木沢 真流 @k1sh

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ