初めての温泉旅行・前日譚-Side:才蔵-
「東雲先生? そろそろ逃げるのを止めて私の話を聞いてくれませんか?」
「ひぃッ……⁉」
一見優しそうな声音だが、才蔵は騙されない。だって目が何か怒ってるし、それに歩いているはずの速度がもはや競歩なのかと言いたいくらい異常に早い。
「は、話すことなんて、何も、ないっ!」
「こちらにはあります。だから早くそこから降りて来てくれませんか?」
早口で
「あっ……⁉」
「……ッ‼」
とっさに受け身を取ろうとした才蔵だが、その前に柔らかな衝撃が体を包んだ。
「敬、介……?」
「まったく、本当に危なっかしいんだから」
敬介は半ば呆れたような声色でつぶやきながらも、才蔵をしっかり抱き留めてくれていた。
「あ、ありがと……」
才蔵ならば、これくらいの距離から落ちたところで、怪我などしないとわかっているだろうに、それでも必至になって抱き留めてくれる姿に、思わず胸が高鳴ってしまう。
「やっと、捕まえた」
「ぁ……ッ‼」
しまった、と思ったときにはもう時すでに遅く、そのままお姫様抱っこをされたような状態で連行されてしまう。
「これでやっとゆっくり話せますね」
「ちょっ、敬介、降ろしてッ……!」
いくらなんでもこんな状態で廊下を歩くなんて恥ずかしすぎる。幸い今は廊下に人が誰もいないとは言え、こんな状況を見られたら敬介だって奇異の目で見られそうなのに、平気なのだろうか。
「学校では山川先生でしょう? 東雲先生?」
「うっ……!」
そんな才蔵の心配などまるで気にもしていないというように、敬介は別の指摘をしてくる。
まぁ、先生と呼べない自分が悪いといえば悪いのだが……。
(だって、どんな格好してたって、敬介は敬介だしなぁ……)
そんなことをダラダラと考えているうちに、気付けば人気のない一角で優しく体を降ろされていた。
「……そんなに行きたくないですか? 合宿」
敬介が少し悲しそうな顔で問いかける。いつも強気な敬介がそんな表情をするというだけで、真剣に言っているということが伝わってきた。
才蔵だって、もちろんそんな顔をさせたい訳じゃない。でも――、
「だ、だって、知らない人いっぱいいる中に行きたくないし……」
人と話すことが苦手な才蔵からすれば、海への合宿だなんてハードルが高すぎる代物だった。
「サークルのみんなは知らない人、じゃないでしょう?」
はぁっと、ため息をつきながら敬介は言葉を
「そ、そうだけどっ……!」
「……さっき、宮本さんに写真見せてましたよね?」
逡巡している才蔵に思いもよらない指摘が入る。まさかあの現場を見られていたとは……。
「あっ、あれは……」
「きっと、ほかのみんなも東雲先生の写真、楽しみにしていると思いますよ?」
「…………」
確かに、人づきあいは苦手だ。だけど、敬介と再会して、仕事を紹介してもらって、サークルの子たちともいろいろと話すようになって――。少なくともサークルのみんなとだったら、一緒に過ごすのも平気な気がする。
それに、自分の写真を好きだと言ってくれた。敬介が言っていることが気休めなんかじゃなくて、ほかのみんなも本当に写真を楽しみにしてくれているのだとしたら、だったら――。
「撮影係のあなたがいないと始まらないでしょう?」
ダメ押しのように敬介がつぶやく。
「……それに、私だって、あなたの写真、楽しみにしているんですよ?」
そんな、優しい顔で微笑みながらそんなことを言われたら、さすがにもう限界だった。
「ッ~~! わかった、わかったよ。行けば、いいんでしょ?」
思わず怒ったように、返答してしまうのはもちろん照れ隠しだ。もう少し、素直に感情を吐き出せるようになれたらいいのにとは、いつも思っているのだが。
「っ‼ ええ! よかった! 楽しみにしてますね?」
「! ッ、ばか……」
敬介の満面の笑みに思わず体温が上昇する。まったく、学校でそんな顔見せないでほしい。そんな気持ちから思わず、悪態が口から零れてしまった。
すると、急に敬介が才蔵のあごを持ち、引き上げた。
「へっ」
急に近づいた才蔵との顔の距離に戸惑っていると、
「ぅ、んんッ……⁉」
いきなりその熱い唇を押し付けられた。
「ふっ、んっ……」
押し付けられた唇は、もちろんそれだけで終わるはずがなく、巧みに才蔵の口の中を
「はぁっ、ぁっ……! ゃ、何で急にこんな……」
何とかキスの合間に敬介に問いかけると、まだ眼鏡の奥で燃えているような熱いまなざしが才蔵を捕らえた。
「……はぁっ、才蔵が、悪い……」
「えっ……?」
熱い息を吐きながら告げる、敬介の言葉の意味がわからず、思わず首を
「学校でそんなかわいい顔、するから……」
「なっ……⁉ そ、そんなこと……‼」
何を言いだすんだろうか、この男は。そんな顔は一切した覚えはないのだが。けれど、そんなことを言う敬介の顔ほうが才蔵にとっては、よっぽど刺激的で。だから、思わず自分から敬介の顔に近づいてしまいそうな自分がいて、そんな自分もたまには悪くないかなって思っていた矢先――、
「あっ、しまった、もうそろそろ行かないと……」
急に先生モードに切り替わった敬介が、才蔵から体を離した。
「えぇっ……⁉」
思わず、肩透かしをくらったかのように脱力してしまう。
「……続きは、家に帰ってからたっぷりしよーな」
かと思えば、今度はまた体を引き寄せられ、耳元で甘く
「はぁっ……⁉」
何を、だなんてそんな無粋なことは聞かないけれど。学校でなんてことを言うんだこの男は本当に。
「それじゃあ、東雲先生。合宿楽しみですね」
何事もなかったかのように、仕事に戻って行く敬介を見送りながら、
「ぅ……。け、敬介のばかぁ……!」
先程の熱が治まらない才蔵は、そんな恨み言を吐くことしかできなかった。
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