白昼


 キラキラと水の粒が弾けて、桜の花びらに光が差したような薄色の肌に降り注ぐ。

 乱反射する光の中。水中から飛魚のように躍り出た彼女は、宙を仰いで、大袈裟に息を吐いてみせた。

 そうしていると、さしずめ清涼飲料水のCMに出演する女優めいて見える。

 波打つ水面から伸びた綺麗な曲線に沿って目を走らせると、豊かな膨らみが眩しい真っ白なハイネックのビキニ。ひらりとした立体感のあるフレアが、彼女の線の細さを強調する。

 肩には栗色の髪がぺったりと張り付いている。


「ちー、行き過ぎだって! ——こっち来な。髪解けちゃってる」


「え? あ、ホントだ」


 ちーが犬かきで泳いでくる。

 そのまま俺の側まで来ると、くるりと背中を向けて立つ。ふわりとした髪は、今は水気を含んでぺちゃんこになっていて、いつもより小顔——いや、小頭?——に見える。


「よろしくお願いしますっ」


「はいはい」


 ちーは律儀に言って、ぴしっと起立のポーズ。

 俺は左手首にはめていた予備のヘアゴムを指に引っ掛ける。スポーツ用の耐水性のやつだ。

 肩にかかった毛を掬ってまとめていく。


「すぐ解けちゃうなー。もう何回目さ」


「さぁ。泳ぐのに夢中で全然気づかなかったなぁ」


「ははっ、はしゃいでんね。まぁ、いいけど。こんなにのびのび泳げる川、なかなか無いもんな」


「ねー。関東一綺麗な渓流なんだって、ここ。水も空気も気持ちいいねぇ、――はぁー」


 キラキラした水面から視線を上げると、見渡す限りが深緑。思わず深呼吸をしたくなるような大自然が広がっている。


「そうだなー。風も涼しいし、まったく、サッカー部の合宿とは大違いだよ」


「あはは。よっぽどだったんだね。そうそう、緑ちゃんも、サッカーボールはしばらく見たくないって言ってたっけ」


「俺はあそこまでじゃないけどね。にしたって、あれはマジめにしんどかった……。来年はもっとマシな合宿にしようと思ったよ」


 実際、冗談じゃなくサッカー漬けの毎日だった。夏の大会での敗北を引き摺るまいと、顧問の松坂先生が張り切りに張り切った結果、二週間にも及ぶ、休みなしのハードなトレーニングメニューが強行されたのだ。

 もう二度と、松坂先生だけに合宿の企画を任せるまい。窯茹で地獄のようなピッチを思い出して、軽くげんなりする。

 ——練習の厳しさを分かち合ってこそ、チームは一つになるんだっ!

 という松坂先生の方針で、ランニングやボールコントロールなど一部の基礎練習はマネージャーも強制参加だ。一年生唯一のマネージャーである小鳥緑も例外じゃない。まぁ、緑は早々にへばっていたけど。


 まとめた栗毛を頭の上の方に持ってきて、ヘアゴムでポニーテールに結える。濡れているせいで少し結びにくかったけど、上手くまとまっているだろう。かわいい。


「うし、いっちょあがり」


「ありがとーっ。ねぇねぇ、次はもうちょっと長い距離にしようよ。ここから、——三つめの、あの白い岩場まで」


 ちーが、川の下流の方に見える岩場を指して言う。


「いーけど。何度やっても俺の方が速いよ」


「それはどうかなー?」


 ちーは意味ありげに白い歯を見せる。

 いつもの如く、また何か突飛な作戦を思いついたのだろうか。泳力のビハインドを覆してしまうような。

 今、俺たちは水泳勝負をしている。ここまでの戦績は二勝〇敗。およそ余裕と言える勝利だった。何せこっちは現役の運動部だ。ことスポーツ勝負となれば、文化部のちー相手に負けるわけにはいかない。

 ふむ、作戦ね。

 ここは流れの緩やかな川だし、俺たちは装備も何もない素泳ぎだ。広々とした淵には、散在する岩場以外の障害物も見当たらない。それにしたって、岩場のないコースを選んでいるのだから大勢に影響はない。つまり、単純に泳ぎの速さと体力が勝負を決める。流石のちーでも、それ以外の要素を入れ込む余地はないだろう。

 水深が深いところに移動する。目標の白い岩場を正面に見据えて、ちーと距離をとって並ぶ。


「先に三勝した方がかき氷奢るって条件、忘れるなよ?」


 都内にオープンしたばかりのかき氷専門店に近々二人で行く約束をしていた。

 こういう賭け勝負は姉ちゃんの専売特許みたいなものだけど、中学の頃はたまに二人でやっていたものだ。


「もちろんだよ。あたしはイチゴがいいなぁ」


「ふーん、言ってくれるじゃん。やる気みたいだし、さっさと始めようか。俺の方こそ手加減しないからな」


「うん。いつでもいいよ」


「よし——位置について、よーい——」


 俺は腰を曲げ、肩まで水に浸かって、スタートダッシュをかける準備をする。

 ちーも余裕ありげに身体を前傾する。

 知らず、笑みが溢れた。何を考えているのやら、見せてもらおうか。


「すた——うぶっ——!?」


 ふいに顔面が水浸しになる。

 まだ水中に身体を潜り込ませる前のこと。備えも何もないまま、目に水を食らってしまって、思わず両手で顔を覆う。やけに冷たい水だった。


「萌く——う、ぷひゃっ」


 近くでちーの潰れた悲鳴が聞こえてくる。ざばざばという水音も。

 一体何が起こっているんだ。もしや、これがちーの作戦かと一瞬頭をよぎったが、すぐに思い直す。隣であがった悲鳴から察するに、彼女も被害者らしいということに思い至ったからだ。

 目を擦って顔を上げると、徐々に視界が定まってくる。ぐるりと周囲を見渡して、最初に目に飛び込んできたのは、明るい緑色のビキニ。活発そうな印象を与える色合いだが、フリルをあしらった可愛らしいデザインだ。


「二人とも、何やってんのー!」


 浅瀬の方から俺たちを見下ろすように、カラフルなウォーターガンを携えた小鳥緑が仁王立ちしていた。


「何って、競争してるんだけど」


「そーじゃなぁい! せっかくの休み、せっかくのサッカーから解放された一日、せっかく涼みにきてるってのに、なんだって汗かくようなことしてるのよっ。この脳筋王子!」


「うひゃっ、冷たいっ。やだやだっ」


 じりじりと詰め寄りながらウォーターガンを発射してくる緑に迫られ、ちーは小さく悲鳴を漏らして、水面の下に身を隠した。

 緑がざぶざぶと水に浸かりながら、こちらに近づいてくる。

 あの浅瀬からちーと俺に、立て続けにヘッドショットを決めたのか。まったくもって、意外な才能だ。


「ふふ。私の氷水鉄砲の前には、流石の姫ちゃんもたじたじね」


「なんでちーばっかり狙うのさ」


「王子にはそっちの方が効果的だからですー」


 緑は舌を出して、今度は俺に撃ちかかってくる。


「つめたっ」


 肩に直撃した水弾はとんでもなく冷たかった。しかもさっき顔面に受けたときより衝撃が強い。流石に痛いほどではないけど。

 何発も食らっていたちーは大丈夫だろうか。


「ふふんっ、こんなこともあろうかと思って持ってきた、高性能ウォーターガンなんだから。近距離モードの水圧、とくと味わいなさいっ」


「——っ、いい、加減、に、しろ、って」


 顔に飛んでくる水弾をかわしながら緑を制止する。胸元まで水に浸かっているため、あまり小回りは利かないから、顔以外は甘んじて受けるしかない。冷水を浴び続けた肩が、だんだん麻痺してきた。


「姫ちゃん姫ちゃんってそればっかりっ」


「別に変じゃないだろ。幼馴染なんだから」


「変だから言ってるの! いくら幼馴染だからってねぇ——、合宿中だってずーっとぼんやりしちゃって!」


「ちゃんと練習してたじゃん。何が変なんだよ」


「ちゃんとしてたのは練習だけでしょ! 部屋じゃスマホばっかり眺めてたくせに!」


「なんだそりゃ。緑には関係ないじゃん」


「——っ」


 不満を目一杯滲ませた顔から一転、不意に仏頂面になった緑が、やけになったように水弾を乱射してくる。さっきよりも顔面狙いが多い気がするのは、よっぽど機嫌を損ねたということらしい。


「ちっ、すばしっこいなぁ」


「お〜い、小鳥〜! そろそろ〜戻ってきな〜。萌黄くんたちも、一緒にお昼にしようよ〜」


 川原から青依がのんびりした声で呼びかけてくる。彼女もサッカー部に所属する一年生だ。その周りには、俺たち以外のメンバーもみんな揃っている。

 あの地獄の合宿を乗り越えたサッカー部の一年生(+ちー)で、連れ立って都外の渓流に遊びにきているのだった。

 緑はそれに構わずウォーターガンを撃ち続ける。


「——呼ばれてる、ぞ!」


「うるさーい! 今日という今日こそは——って、ひっ、何!?」


 緑がビクッとして動きを止めたため、俺を襲っていた弾幕が止む。


「ふっふ、捕まえたよっ」


 ちーが、緑を後ろから抱きすくめる格好になっていた。水中を移動しつつ緑にバレないように忍び寄っていたのには、先ほどから気づいていた。ちーの方が小柄なため、一生懸命しがみついている感は拭えない。が、奇襲を受けた緑は未だに対応できずにいる。

 その隙に、ちーは緑の耳元に顔を近づける。


「緑ちゃんは萌くんともっと遊びたいんだね」


「なぁ————!?」


 緑が目を見開く。それから俺を一瞥し、さっと顔を逸らした。


「な、ななななナニをおっしゃってるのカナ? べべ別に、緑は遊びたいとかじゃなくて、——そ、そう、最近王子がだらしないから、マネージャーとして気合いを入れ直そうと——」


「うんうん、そうだねぇ」


「それ、絶対分かってない人の反応!」


 緑がスパーンと水面を叩く。


「ってゆーか、遊びに来てるんだから遊びたいのは当たり前でしょ! 普通普通! なんで一本取られたみたいな空気になってんの!?」


 それで動揺してるのは緑なんだけどな。

 真っ赤な顔をして、ちーの腕の中でじたばたする緑。しかし、体格差があるにも関わらず、ホールドは全然緩んでいないように見える。単純にちーのフィジカルが強いのだ。

 ヒートアップしている緑とは対照的に、ちーはいつもの捉えどころのない笑顔をしている。その雰囲気を背後の気配から感じ取ったのだろう。緑は面白くないと言いたげな口調で呟く。


「ううう——でも、姫ちゃんだって姫ちゃんだよ。練習、あんまり来てくれなくなったよね。大会だって! 応援してくれると思ってたのに、結局来なかった。私はいいけど。萌黄くんがどんな気持ちでいるか、ちゃんと考えてる!?」


「おい、緑——」


 緑は俺のことを気にかけてくれている。ゆえの発言だったのだろうが、そこは今、誰にも触れてほしくないところだった。

 俺たちの関係は秘密にしてはいないものの、大っぴらにもしていない。直接明かしたのは、姉ちゃんと凛咲さんくらいなものだ。元々幼馴染という立場で、日常的に距離が近かったこともあり、付き合いだしてからも違和感を持たれることは無かったと思う。そもそも、付き合っていない春頃の時点で「付き合ってるんじゃないか」という噂は流れていたし。

 まぁ、流石にサッカー部くらい身近で、勘のいい人は気づいているかもしれないが。

 俺がどう話題を変えようか考えあぐねていると、


「うん、考えてるよ」


 ちーがなんの飾りもなく、ストレートに答えた。

 俺は内心ぎくりとして、ちーの様子を窺い見る。表情も仕草もいつも通りで、その意図は読み取れない。


「————」


 緑も言葉に詰まっている。他愛もない一言なのに、有無を言わせぬ迫力があった。

 そして、ちーは俺に目を合わせる。その双眸が「話をしよう」と言っているみたいだった。

 ちりちりと焦燥が背中を駆け上る。

 沈黙は長くは続かなかった。相変わらず緑をホールドしたままのちーの瞳に、悪戯っぽい色が混じる。


「緑ちゃんも一緒に泳ごうよっ」


「え?」


 水中で足払いでもかけたのか、無造作に緑の身体が傾く。緑を抱きしめたままのちーもそれに追従して。

 緑が驚きを顔に出す間もなく、盛大に飛沫をたてて——そのまま、二人でもつれるように水中へと倒れ込んでいった。




   ***続く***

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一凛咲きのブーケ 白湊ユキ @yuki_1117

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