backstage:ふたりの夏

黎明


   ***萌黄***




 ——今から彼女は泣くんだと思った。

 だって、あまりにもなんでもないような笑顔だったから。


 でも、その日向の空気を感じさせる微笑は憂いを隠すためのものじゃない。むしろ潔いとでも言うべきか。何か大事なことを決めて、それを実行しようとしているのだろうとは考えるまでもなく明白だった。

 察せない訳がない。十年以上、それこそ生まれた時から幼馴染をやってきて、いつしかそれだけじゃない感情をもって見つめてきたんだから。彼女だって本心を隠す気などないだろう。転機——あるいは区切りの予兆。そんなとき、彼女はそうやって笑うのだ。

 ただ、そう——もっと恋人を頼ってもいいと思う。こんなときにそばにいてやりたいから、俺は彼女の近くにいるのだ。そうさせてくれない彼女に、何より頼ってもらえない自分の及ばなさに腹が立つ。


『萌くん、あたしを許してね』


 祭りの喧騒の中でもよく通るしゃんとした声。紡がれた言葉は断片的だ。時折そういう振る舞いをするから、他人には誤解されることもある。でも、俺にとっては、それだけで彼女が何を決めたのか理解するのに十分だった。

 もう一度ふわりと微笑んだ彼女の後ろ姿が、人波に飲まれていく。反射的に「追いかけろ!」と感情的な声が頭の中に響いたが、冷静な思考が即座に否決する。

 まとわりつくような湿っぽさと青臭さに、時折漂ってくる炭の匂い。

 追いかけなかった。追いかけられなかったんじゃない。そこには俺の明確な意思があった。彼女は、少しだけひとりになる時間を必要としている。それが分かっているから。いや、それ以上に——と判断したからだ。


「どうして、こうなるんだよ……」


 こんな時でも、思考は嫌になる程はっきりしている。目も耳も、正常に周囲の情報を伝えてきている。俺を避けるようにして人が流れていく。邪魔だと言いたげな視線が遠慮なく俺を刺す。だというのに、河川敷の往来に立ち尽くす身体を動かそうという気には、微塵もならない。

 理屈で考えるなら、俺は彼女の決断を歓迎していいのだ。なのに、そうしたくない気持ちが確かにあって、目眩を覚えるくらい混沌としていた。人の身体を動かす原動力は、詰まるところ感情なのかもしれない。


 これは、夢だ。現実の俺は部屋着を着てベッドで眠っていて、今起こっていることは空気の匂いまでリアルに再現された過去の追体験。その事実をはっきりと認識しながら、浴衣を着て河川敷に突っ立っている。

 こういうことは、たまにある。記憶が正確すぎるがゆえの弊害だ。

 七夕祭りからこっち、何度もこの光景に戻ってくる始末。数えたくもないのに回数まで覚えている。俺はどうすれば良かったのだろうか。正解は、今でもわからない。わかったところで、現実は変わらない。

 そろそろ夢が終わる頃だ。何度も見たからわかる。例によって、寝覚めは良くないことだろう。今日はちーとサッカー部の面々とで、遊びに行く約束をしている。起きたらシャワーでも浴びて、気持ちを切り替えたほうが良さそうだ。


『萌くん、あたしを許してね』


 「許さない」と言う権利はある。怒ったっていいし、呆れたっていい。

 ——なのに、全くもってそうする気持ちになれない理由が、自分でもよくわからなかった。




   ***続く***

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