esquisse #7


 簡素な病室だ。ベッドの周りに、バイタルセンサーの小さなモニターと点滴が置いてあるだけ。物音ひとつない白い空間は、まるで時が止まったかのよう。

 その中で、咲季は、ベッドに横たわり天井を見つめていた。


「咲季、おはよう。凛咲だよ」


 枕もとに顔を寄せて、いつもの挨拶。応えるように、咲季がこちらを向いた。薄い微笑みを宿した双眸には安らぎの色が見て取れる。


「おはよう……」


 掠れた響きを含んだ儚く細い声。相変わらず舌足らずだけど、先週よりも幾分か活力を感じさせる。

 九年の昏睡状態から醒めて二ヶ月弱。経過は医師も目を見張るほど順調で、最近では軽いリハビリに取り組むようになっている。

 ゆっくりと、確実に、双子の姉は色彩を取り戻していた。


「ちょっと待っててね」


 窓辺に置かれた口の細い透明なガラスの花瓶を手に取る。小ぶりの向日葵は先週生けた姿のまま、レースのカーテンから漏れ入る日差しに向かって、しゃんと花弁を広げて立っていた。あと数日はこのままでも平気そうだったが、抜き取って新聞紙に包む。

 そして、持ってきたミニブーケの包みを開ける。紫色の花を惜しげもなく咲かせるスターチスの切り花。三つの茎に分かれて広がった花たちが、かさかさと乾いた音を立てた。花瓶の水を入れ替えて、それを生ける。

 花瓶を元の場所に戻す。側には見覚えのない真っ黒な携帯ラジオが鎮座していた。


 いつもの決まりきった作業を終えたら、後は二人で自由に話をする時間だ。

 ベッドサイドにあるパイプ椅子に腰掛けて、彼女に語りかける。


「お待たせ。また顔色良くなったね」


「……りさは、良いことあった? すごく、元気みたい」


「そうかな。うーん、素敵な朝焼けを見られたからかも」


「あさやけ」


 咲季の瞳がぱっと好奇の色を帯びた。

 よかった。興味を持ってもらえたらしい。

 さて、言葉で語るか、絵を描くか。どちらにしても長くなりそうだ。


「その話はあとでするとして。今日は起きても平気?」


「うん」


 ベッド脇にかがんで、咲季の背中に手を回す。漂白された入院着に染み付いた消毒液の匂いに混ざって、仄かにミルクのような香りが漂ってくる。


「起こすよ。せーの」


 掛け声と共に、咲季の背中を支えて、上半身を起こす。羽のようにとはいかないけれど、それでも軽い体重が腕にのしかかる。それから、ベッドの側面にあるスイッチで電動リクライニングを作動させて背もたれも起こし、彼女をそちらに預ける。短く切り揃えた伽羅色の髪が頼りなさげに背もたれに沈んだ。

 彼女が息を吐いて落ち着くのを待ってから、私も身を起こした。

 何せ九年間も眠り続けたのだ。まだ日常動作のほとんどが不自由な状態。しかし、こうして彼女を支えられる時を、たった一人の姉妹としてどれほど待ち侘びていたか。万感の想いが溢れてきて、思わず目頭が熱くなる。


「……どうしたの?」


「なんでもない。それより今日は友達を連れてきたの」


 この病室に家族以外の人を連れてくるのは初めてだ。

 薄手の掛け布団の上で、咲季の手がぎゅっと結ばれる。

 私はその手に自分の手を重ねた。


「絶対、大丈夫だから」


 私は病室のドアに向かって呼びかける。


「入ってきていいよ」


 スライドして開いたドアから顔を出したのは、真っ白な一眼レフを首に下げた栗毛の少女。看護師の類家さんに許可をもらって連れてきたのだった。

 咲季は病室に入ってきた人影をじっと見つめている。


「りさ……」


「んー?」


「この子が……、ちー、ちゃん?」


「そうだよ」


 ちーちゃんは私と入れ違いに咲季の前までやってくる。

 それから、咲季の手を取って、春の日向のように破顔する。まるでミュージカルさながら、今にも周囲に花が咲き広がりそうな雰囲気を漂わせる。

 咲季は表情を変えずに、相変わらずちーちゃんをじっと見つめている。

 ちーちゃんはそんな咲季に顔を寄せて、言葉の一つ一つを文にしたためるようにゆっくりと、最初の一言を口にした。


「はじめまして、咲季さん。いちかです。そだ。さっちゃん、って呼んでもいいですか?」


 咲季が困ったように私を見つめてくる。でも、頬に朱が差したその表情に拒絶は微塵もなくて、咄嗟にどう返事したらいいのか分からず戸惑っているだけのようだ。

 私は予感が当たるのを確信して、咲季に頷き返した。


「せんぱいとあたしは、友達です。だから、あたしたちも友達ですね」


 語尾が笑うように震える。

 「せんぱいとあたしは」の後に小さく「まだ」と言いたげな間が空いた気がしたけれど、それは無視することにした。友達以外の何になるって言うんだか、まったく。深く考えると頭皮がむずむずして落ち着かない。

 ちーちゃんも私も、静かに反応を待っていた。

 果たして咲季はおもむろに身を乗り出し、ちーちゃんの頬に口をつける。


「ちょっと……っ、咲季!?」


 待って。その反応は予想外。

 子供の頃はふざけてキスなんて当たり前だった。咲季の精神年齢がそのあたりで止まっているなら別に異常でもないような……? ちーちゃんも平気な顔してるし。いや、ダメだな。


「よろしく、ね。ちーちゃん」


「はいっ。さっちゃん」


 などと混乱している間に、二人は早くも打ち解けたらしい。

 割って入り損ねた私は、そのやりとりを見守ることにする。良い雰囲気だし、お小言は後回しでもいいか。


「りさがいっぱいちーちゃんのこと、話してたよ。どんな子だろう……、ずーっとゆめの中で考えてた」


 咲季はちーちゃんのカメラを指差す。


「ちーちゃんは写真がとくいなんだよね。りょうちゃんといっしょだ」


「見ますか?」


「いいの……っ?」


「もちろんっ」


 二人はカメラの液晶モニターに齧り付いた。

 ちーちゃんがメモリーの写真を映す度、咲季の表情が輝きを増す。


「これ、真っ赤なのすごいね」


「今朝の朝焼けですよ。空いっぱいにわーっと広がってるんです。ほら、これも」


「わぁ……っ」


 なるほど。写真を見せれば良かったのか。すっかり腐らせていたスマホのカメラだけれど、今度から使ってみよう。当分は病室から出歩けないだろう姉に、色々なものを見せられるかもしれない。


「りさっ」


「ん? どうしたの、咲季?」


「ちがうよ、写真。さくらとりさの」


「ああ。——って、ちょっとちーちゃん、あんまり咲季に変な写真見せないで」


「はぁい」


 生返事が返ってきた。


「——こっちの人は?」


「萌くんですね。その子は、あたしの大切な人ですよ」


「大切……。うん、きっとこの人も、ちーちゃんのことが大好きなんだね」


「そうですね」


「ねぇねぇ、もえくんの写真、もっと見せてよ」


 咲季はちーちゃんの腕に両腕を絡めてせがむ。

 こうして見ていると、もう付き合いの長い友達になったかのようだ。

 ハーフパンツのポケットに突っ込んだスマホを引っ張り出して、カメラを起動。二人を画角に収めてシャッターを切る。

 特に深い意味のない行動だった。なので、意外と大きなシャッター音が響いた瞬間、私の口から間の抜けた声が漏れる。

 見ると、咲季とちーちゃんが揃って私に注目していた。


 その、ほんの一瞬訪れた間を——病室のドアが開け放たれる音が打ち破った。


 そう。窓際に置きっ放しのラジオを見たときから、来ているのは分かっていた。

 黒いスーツを纏った威圧的なほどの長身。伽羅色の短髪をワックスで固め、それと同じ色の双眸が私たち三人を一瞥する。咲季と私の父親——河内和馬だ。

 父はつかつかと踵を鳴らし、広い歩幅で一直線に窓際まで歩いていく。

 一緒に病室に入ってきた、すみれ色のワンピースの女性——母親の相子あいこは、ちーちゃんと私なんか目に入らないとでも言うように、咲季の側へ。ベッドサイドの椅子に腰掛けた。


「一人にしてごめんね、。今日はもう、一日ここにいるからね」


 覚悟をしていたつもりで、それでも鼓動が痛い。胃のあたりで膨らんだ熱が身体中を侵食してきて、皮膚がめくれ上がりそうだ。

 この家族の中での私は、まだ凛咲でも咲季でもない。名称不定の双子の姉妹——その妹だ。

 父はラジオを掴むと、入ってきたルートを一直線に遡り、ドアを開けて出て行こうとする。

 私はその背中に呼びかける。


「二人でちゃんと話して決めました」


 父が足を止める。

 伯父さん抜きで対峙するのは何年ぶりだろう。

 喉がからからに乾いている。声は、震えていないだろうか。


「私は凛咲として、この子は咲季として生きていきます」


「——そうか」


「ありがとう。ずっと守ってくれていたんでしょう? あの事故のことを思い出さないように。おかげで私は自分を責めずに生きてこられました」


 真っ黒な後ろ姿は微動だにせず。伯父さんに引き取られたとき、最後に見た光景とそっくり同じだ。

 でも、ここで萎縮するわけにはいかない。


「伯父さんもお父さんと話したがっています。良かったら今度一緒に……——」


「必要ない」


 鋼鉄の壁を拳で叩くような、頑ななまでの無感情。がつんと頭を殴られたみたいに景色が歪む。


「いいか。お前はもうあいつの子供だ。俺から話すことはない」


「どうしていつもそんな言い方……っ!」


 嗚咽のように言葉が詰まる。言いたいことがいくつもあるせいで、喉の奥が渋滞を起こしてしまった。

 ——金賞がどうした。値段のつかない絵に価値はないと言っただろう。

 まただ。伝わらない。家族のはずなのに。実の父親なのに。

 咲季が目を覚まして、ようやくやり直せると思ったのに。


「私は!」


「やめて!」


 どうにか張りあげた声は、神経質な金切り声に遮られた。


「大きい声を出さないで。この子の具合が悪くなったらどうするの? 喧嘩をするなら外でやってくださいな」


 母はそう言って、咲季を抱きすくめる。

 すでに許容量をオーバーした心臓が悲鳴をあげていた。

 父に視線を戻すと、肩をすくめて病室を出ていくところだった。

 ぴしゃりとドアが閉まる。

 冷え切った空気の中、私は酸素に喘ぐように首を彷徨わせる。

 母の表情は窺えない。でも、咲季を覆い隠すようにしたその背中から、拒絶の意思がはっきりと感じられる。そして、それは間違いなく私に向いている。私は、まだ許されていないのだ。

 空気が足りない。脳を焼き切りそうなほどにこめかみが熱いのに対して、指先は痺れるほど冷え切っている。

 ——どうして、無理、家族なのに、いつまで、どうしたら……。

 重苦しい思考の濁流が、しかし、顔を上げた瞬間に掻き消える。

 ちーちゃんは私を見ていた。無言で、いつもの理性的な彼女のままで。

 多分、それで、良かったんだと思う。

 私は急ぎ足で病室を後にした。



「待って」


 廊下を曲がってすぐに、真っ黒な人影を見つけた。

 その振り向かない背中に向かって、ごちゃついた頭の中から拾い上げた問いを投げかける。


「お父さん。今でも価値がないと思ってますか?」


「なんのことだ?」


「昔、言ってましたよね。『お金にならない絵に価値はない』って。今でも、そう思ってるんですか?」


「ああ」


 もどかしくなるほど平坦な反応だ。


「無論だ。どれほど技量が優れていようと、どれほど人間を感動させようと、値段のつかない絵は価値を生まない。俺はそういう仕事をしている」


「少なくとも私は……っ、これまで描き続けてきたことに価値があると信じてます。今の私の絵に値段はつかないかもしれない。でも、私には絵があったから、そのおかげで、たくさんの素敵な出会いに恵まれたんです。幸せだって感じる瞬間が何度もあったんです」


 離れ離れになった詩織と繋がっていられた。

 泣いていたちーちゃんにきっと勇気を分けることができた。

 先輩と、知り合えた。


「……お父さんだって、そうだったんじゃないの?」


 この人もまた、画家を目指していたのだ。そのときの情熱が本物だとしたら、今の仕事がどうであれ、絵を愛していることに違いはないはずだ。

 それとも、やはり相容れないのだろうか。これまでのように即答が返ってこないので、逆に不安になる。

 やがて、父は嘆息交じりに口を開いた。


「お前もまだ絵を描いているんだったな。もし本気で絵の道を志すのなら、美大に進むのが一番の近道だ。今からでも選択科目を美術に変更しておけ。意味の分からない普通科目選択は辞めてな」


 それで話はおしまいとばかりに、真っ黒な背中が遠ざかっていく。

 今度は引き止める間も、言葉も持ち合わせていなかった。




   ***続く***

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