esquisse #6
虚ろな耳朶を控えめにノックするように、「朝焼けが見たいな」と彼女が囁いた。寝苦しくてたまらず、浅い眠りを何度か繰り返した金曜日の未明のことだった。
起き抜けの頭に鈍痛がのしかかってくる。連日の猛暑に加えて、海から染み出してくる湿気のおかげで、少々睡眠不足気味だ。やっぱり寝る前にエアコンを止めたのは失敗だったかな。
「やだ。眠い……」
すげなく断って寝返りを打つと、まもなく、枕がばふっと勢いよく膨らんだ。突如後頭部を襲った空気砲の圧に思わず眉をしかめる。
私は目を瞑ったまま、近くに感じる気配に向かって低く落とした声を投げた。
「……怒るよ?」
「急ぎましょう。朝になっちゃいますよ」
「急がなくていいから、ゆっくり朝まで寝かせて欲しいな」
「ええ、付き合ってくださいよ〜。きっと三文なんて軽く超えちゃうようなラブな体験が待ってますよ。ね、せんぱーい」
途端に頭の上から非難の嵐が吹き荒れて、オマケとばかりに大波までついてきた。荒波に流されて、弛みきった脳がなす術もなくシェイクされる。
「せんぱーい。ねぇねぇ、せんぱ〜い」
「分かった。分かったから、枕揺らすのは、やめてっ」
悲鳴をあげると、暴れていた枕がぴたりと静まる。
安眠を脅かす揺れがおさまっても、眠気はおさまる訳もなく。しぶしぶ渋面を上げると、彼女——ちーちゃんは私の枕の端っこに膝を乗せてきちっと正座していた。
私がかつて伯父さんと共に生活していたアトリエの一室。手狭な上、幅の狭い長方形の間取りをしているもので、ベッドの隣に布団を一枚引くと、それだけで足の踏み場がなくなってしまう。
ちーちゃんは猫のように器用な足取りで音もなくベッドから降りて、布団で眠る私の枕に膝から着地したのだろう。
散々迷惑行為を働いた彼女は、悪びれることなく私の顔を覗き込んでくる。
「はぁ……。おはよう」
「おはようございます。せんぱい、お姉ちゃんより寝起きがいいですね」
「うーん……」
そこを同列に語られると複雑な気分だ。
先輩の家——ちーちゃんの家でもあるのだけれど——に何度か泊めてもらったおかげで、先輩の寝起きの悪さは把握している。普段の凛々しい姿からはおよそかけ離れた掠れ声で、もにょもにょと屁理屈を並べ立て、絶対に布団から出ようとしない。そんな体でも弁が立つのだから、起こすとなると手を焼かされる。まぁ、膨らんだ羽毛布団にくるまったヤドカリのような佇まいには愛らしさを感じるけれど。
とにかく、私は先輩と違って自力で起きられるし、寝覚めが悪い方でもないと思う。毎朝、お世辞にも寝起きが良いとは言えない伯父さんを起こすのは私の仕事だし。
ゆえに、この一件はどう考えても、ちーちゃんの理不尽な時間設定のせいである。
——と、文句ばかり垂れていてもしょうがない。
いつものことだ、と。ちーちゃんの行動の突飛さにすっかり慣らされている自分に気づいて口許がむずむずする。
「いいよ。どうせもう眠りなおすのも面倒だし」
タオルケットを跳ね上げ、頭上に乗り出したおでこを回避して身を起こす。軽く上に向かって伸びをすると、全身に血液が巡る感覚が広がっていく。
カーテンをちょいとめくって覗いた空は、のぺっと広がった雲の間から薄ぼんやりと小さな月が輝いていた。色づく時刻にはまだ早いかと思って、ベッドサイドのデジタル時計を見たら三時半だった。前言撤回。いくらでも眠りなおせそうである。
——いやいや。
目を瞑り、眉間を親指で押して、その誘惑を薙ぎ払う。
一度その気になったこの後輩を止める手段を、私は持ち合わせていない。
早くも下着姿になっているちーちゃんに倣って、私ももそもそと着替えに取り掛かる。寝巻きのジャージを脱ぎ、ネイビーカラーのハーフパンツに、リアルなクラゲの絵がプリントされたティーシャツを被っておしまいだ。幸い寝癖はほとんどついてないし、メイクは夜明け前決行のちょっとばかりのお散歩には不要だろう。
「キレイに焼けそうな空模様ですよ。楽しみですね、せんぱい」
そう言って窓辺から私を促すちーちゃんは、裾が丸くカットされた膝丈の白いシャツワンピース一枚というコーデだ。栗毛の前髪には三毛猫の髪留め、胸元には産まれたてのように真っ白なデジタル一眼レフカメラ。見慣れたセットには安らぎめいたものを感じる。
——ふむ。
私は彼女のワンピースの裾をばさっと摘み上げて中をあらためる。
「きゃー」
「よし、オーケー。行こっか」
「オーケーってなんですか?」
「ちゃんとショートパンツ穿いてたから」
先日同じ服装で海に行ったのだが、飛び跳ねた拍子にショーツが丸見えになりかけたのだった。よく弾む子だからなぁ。その際、下にパンツを穿くように厳重注意したのは記憶に新しい。
立ち振る舞いには隙がないようでいて、ちょくちょく脇が甘いのがこの子の弱点だとしみじみ思う。いきなりスカートを捲り上げられて平気な顔をしているのも、女子としていかがなものやら。
さて、お出かけ前の確認も終わったところで。
サンダルを突っ掛けて二人でアトリエを出る。
ちーちゃんはちゃっかり三脚まで持ち出していた。私が鍵を掛けている間に、彼女は早くも急な階段を下り始める。余程楽しみなのか、踊るようなステップだ。やっぱりパンツを穿かせておいて正解だった。
南東の空が見渡せる浜辺まで歩いていく。ゆっくり徒歩で十分くらいの距離だ。ちーちゃんの背中を前に見ながら、重たい腿をのそのそと持ち上げて進む。
時折空を見上げると、徐々に紫がかっていく変化が見て取れる。真夏の朝は星の目覚めが早い。闇に埋もれて曖昧だった水平線の境目にはっきりと線が引かれてきた。朝焼けもじきにやって来るだろう。この雲のかかり具合なら、さぞや見事な赤橙色を見せてくれるはずだ。
ちーちゃんにあてられたのか。砂に塗れたアスファルトを踏みしめる足取りはすっかり軽くなっていた。
浜辺に着いてみると、砂浜を洗い流す波音以外は静かなもので、周囲に私たちと志を共にする人影は皆無だった。さもありなん。時刻は午前四時半だ。
淡々としかし厳かに、私たちが求める瞬間は近づきつつあった。
空と海はいまや完全に分たれ、この世の終わりを予感させるような薄紫色で塗りつぶされた空全体に、淡いかがり火が灯っている。
ふいに、シャッター音がひとつ。
「いい
「ぼちぼちですねぇ」
空を見上げたまま、釣り人のような軽口を交わす。
ちーちゃんは三脚に据えたカメラの調整に勤しんでいるようだ。波音に紛れて、何度か軽快な音が響いてくる。
「どうして写真を選んだの?」
「うーん」
この子は器用だ。表現の手段としてなら、写真だけにこだわる必要はないだろうに。
何気なく尋ねたその質問に、彼女はたっぷり時間をかけてから答えを告げる。
「初めて撮ったのは、ゆっちゃんだったんです。小学生のとき、せんぱいがくれたカメラで」
「結さん? へぇ、ちょっと意外かも」
結さんはちーちゃんの親友だ。確かに美人で社交的だし、きっと昔から人目を惹く存在だったのだろう。とはいえ、すぐ傍にもっと付き合いの深い人たち——先輩や萌黄くんがいたはずなのに。
「仲良くなりたかったんです。でも、あの頃のあたしには、どうすればそうなれるのか分からなかった。それでも諦められなくて、考えて。せんぱいと龍さんが教えてくれたことを思い出したんです。もしかしたら、あたしの気持ちは、カメラを通せば伝わるかもって」
「——不意打ちしたんでしょう。私のときみたいに」
「あはは。すごく怒られました。怒鳴られて、頭もはたかれたかも。でも、カメラにだけは手を出さなかったんですよね」
結さんと今の仲になるまでには、想像していたよりも色々あったらしい。
「そのとき確信したんですよ。ゆっちゃんとなら、絶対友達になれる。せんぱいにもらったカメラと勇気があれば、絶対に」
ふいに、歌うような声が熱を帯びた気がした。
「そのときから、写真はあたしになったんです」
「うん」
「——せんぱいも」
呟かれた言葉は私の胸中を撫でてから、海風に溶けていく。
雲を焼く日の光はその勢力を強め、いよいよ空全体を覆い尽くさんとしていた。薄紫のキャンバスを遠慮なく赤橙の火が飲み込んでいく。
その景色がほんのわずかの間しか見られないことを知っているから、私はまばたきも忘れて見入っていた。ちーちゃんはこの光景をレンズ越しに見ている。同じ空を違う見方で眺めている私たちは、果たして同じ世界を見ていると言えるんだろうか。
「ラブですねぇ」
「んー」
視線を上げたまま生返事をする。
彼女は度々『ラブ』と口にする。それは美しいものに出会ったときであったり、喜びに感極まったときであったり、集合写真の掛け声であったり。ともあれ、宮古いちかが大事にしている言葉なのは疑いようもない。どこまでも博愛な『ラブ』。
だから、それにちょっと反駁してみたくなる。
「どうかな。この朝焼けはただの自然現象だよ。そこには愛なんて関係ない。ちーちゃんが感じてる『ラブ』は恣意的な——自己満足なんじゃないかな」
「そうかもしれませんね」
シャッター音が、一つ。
「ひょっとして拗ねてます?」
「拗ねてません」
頷くように、シャッター音が間を置いて、三つ。
「でも、あたしは思うんですよ。世界を回すのは自然現象だけじゃないかもしないって。この星に住む大勢の生き物が持ってる願いや想いが影響しあって回っているのかもって」
何やら壮大な話になってきた。
赤橙の色に染まったちーちゃんの横顔が小さく息を吐く。
「その中にはたっくさんのラブがあって。あたしが一員になるとしたら、やっぱりラブなんです。きっと」
——人を描くことは、傍にいるよ、もっと知りたいよ、って気持ちを伝えること。好きな人に好きと伝えること。
彼女にとっては写真を撮ることこそがそうなのだ。
「だから写真は、あたしの一部で、あたしにとって世界との繋がりみたいな。そんなとこですね」
終始ファインダーを覗き込んだまま、小さな後輩は自らの想いを語った。
気がつけば、朝焼けはほとんど終わっていて。太陽が一日の始まりを告げるように昇りかけていた。
「ふーん。それじゃ、ちーちゃんは惚れっぽいんだ?」
「やっぱり拗ねてた」
「拗ねてません」
そうは言いながらも、自然と言葉がつっけんどんになる。分かっているのに上手に隠せない。つまり、結局は拗ねてるということなんだろう。何に拗ねているのかは言うまでもない。
まったく。夏休みに入ってからこっち、ずっと似たようなことばかり考えている。それでいて悪い気はしないのは、慣らされているのか。
あとは手を動かすだけの、とっくに固まった青写真を幻視しながら。水平線に向かって滑空する海鳥を追いかけて、目を眇めた。
***続く***
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