esquisse #5


「せんぱい。次いきましょ、次」


 黒のショートパンツ姿で存分に脚に水を滴らせた後輩が、周囲の気温が一度くらい上昇しそうな賑やかな声で呼びかけてくる。


「まだやるのー……?」


「じゃあこれがラストで」


「はいはい。今度は私が先攻ね」


 呆れ気味に返答しつつ、サンダルを脱いだ爪先で、波打ち際の海水を含んだ黒い砂を削る。つい数秒前に波に攫われてまっさらになった砂浜に『井』の字を描くように、縦横二本ずつの交差線ができあがった。

 足の指の間を通り抜ける肌触りも温度も大変心地よい。いっそ砂の中に埋まりたいくらいだ。上半身にのしかかる熱気との対比に、立ち眩むような酩酊感に襲われながらそう思う。

 私は続けて、三×三のマス目の真ん中に丸を描く。

 ちーちゃん後輩が機敏な所作で角にバツを置く。

 私がその隣に丸を描こうと足をつけたところで——。

 さざめく波がさも当然そうに私の足を飲み込んだ。その一瞬で即席のバトルフィールドが跡形もなく消滅する。

 既に五回ほど同じ光景を目にしているだけに、苦笑も落胆も出尽くしていた。

 ちーちゃんは「きゃー」とか騒いで砂の上で小躍りしている。ポニーテールに結わえた栗毛もぴょんぴょんと跳ね回る。

 箸が転んでも笑い転げる女子高生みたいだなとの感想を抱いたけれど、事実そのものだったので一人で納得しておく。かく言う私も、ワンゲーム目はちーちゃんにつられて真面目に挑んで、同じように声を出して悔しがっていたのだから他人事ではない。立派な同類である。

 ちーちゃん発案、二人で九マス埋めたら『勝ち』という厳しすぎるルールを課されたマルバツゲームは、やはり大自然の勝利に終わった。脆弱すぎる人の力では反逆は叶わなかった。

 遊ぶ余裕を与えてくれるゆったりした波間に、海水浴おあつらえの穏やかな波。しかし、ささやかな勝負に花を持たせてくれる慈悲はないのだ。


 ふいに、ちーちゃんのデジタル一眼レフが私の瞬間を切り取る。ただぼけっとちーちゃんを眺めていた瞬間を。

 私は歯を覗かせた笑顔を崩さない撮影者に駆け寄って口を尖らせる。


「もう、ちーちゃん。撮るときは事前に撮るって言ってよ」


「ええ。そんなことしたら、せんぱい、キメ顔になっちゃうじゃないですか。あたしは自然な絵が欲しいんですよ〜。自然にカメラに目線くれてるくらいがちょうどいいんです。メモリーがキメキメの写真ばっかりじゃ、ちょっと物足りないじゃないですか」


「なっていいのっ。……別にキメ顔なんてしないけど……。不意打ちで撮られる方がよっぽど恥ずかしいんだからね。——ほら、やっぱりだ」


 液晶モニターを覗くと撮れたてほやほやのポートレイト。案の定、ぼけっと曖昧な表情のまま、スカイブルーのシュシュをはめた左手で髪の毛をいじっている冴えない女子高生が映っていた。目やら口やらが半開きになっていないだけマシだったけれど。

 陽の光が私に覆い被さるように濃度の高い陰を作って、その背中には夏も盛りと喧伝せんばかりの真っ青な海が広がっていた。構図だけはとても美しかった。


「ちーちゃんはどうしてこう……、こんな絵にもならない瞬間を撮っちゃうの?」


 真面目にやれば、せっかくいい写真を撮れるのに。


「油断してたからつい」


「うん、消しましょう」


 私が白いデジタル一眼レフに手を伸ばすと、ちーちゃんは身を翻して逃げる。カメラを胸に抱えて、私に背を向けたまま寄せくる波を蹴った。


「——油断しててもキレイですよ。せんぱいは」


「む……」


 いつもはもっとしれっと言うくせに、こういうときだけしおらしげに呟くのはずるい。潮騒にかき消されそうなその声音。彼女の気持ちを知った今となっては冗談ばかりと軽く受け流せなくなってしまった。

 ふと、部長がつけたあだ名が浮かぶ。

 『恋するファインダー』と。

 ちーちゃんのファインダーから覗き込んだ世界はパノラマで、そこには萌黄くんだけじゃなく、私まで映り込んでしまっている。

 私の倫理観に照らし合わせれば、それはではない。本来なら誰かが諌めるべきところだろう。しかし、先輩も萌黄くんも何を思っているやら、真っ向から制止しようとする雰囲気は今のところ感じられない。壱月亭での出来事を知らない先輩はともかく、一部始終を目撃した萌黄くんなんかは、絶対心穏やかじゃないだろうに。


 こちらに向き直ったちーちゃんはふにゃっと弛緩した微笑を浮かべている。


「あのね。おだてられたくらいじゃ靡かないよ」


「そういうのじゃないですってば」


 しかし、思ってみれば、先輩はずっと前から気にかけていたのだ。温泉旅行の際に一見意味のない勝負を吹っかけて牽制したように。江ノ島から帰ったちーちゃんと私の関係性に起こった変化を疑ったように。

 でも最近は、一歩引いてしまっている感じが否めない。「快く思わない」とは言われたけれど、それ以上強く歯止めをかけられるようなことはなかった。

 ちーちゃんの、というよりは、私の動向を見守っているのかもしれない。

 現在ボールを持っているのは私で、次にアクションを起こすのは私の役目なのだ。


 いい具合に茹だった脳みそで真面目なことを考えていると、視覚に少女がカメラを構える映像がスローモーションで流れ込んでくる。

 そして、連続したシャッター音が浜風に乗った。


「……ちーちゃん?」


「油断してたからつい」


「うん、全く反省してないね。せんぱいは悲しいな。肖像権とかそういうの、もっと大事にしようね?」


「写真、撮ってもいいですか?」


「それは撮る前に言うやつだからっ」


 私は手のひらを上にして、ちーちゃんのほっぺたにぐにっと押し付ける。いい感じに日焼けした餅のような肌がへこむ。

 ひしゃげた笑顔のちーちゃんから私の手にカメラが渡る。

 新しく撮られた私は、目を細め口許だけが笑っていて、やっぱり心はどこかに遊離していた。

 でも、目線だけはカメラの方をしっかりと見据えている。

 そういえば。詩織に「潔白な顔して結構下心にまみれてる」と評されたことを思い出す。

 無防備に撮られた写真なのにカメラ目線になる理由は簡単だ。そのくらいの自己分析はとっくに終わらせている。

 問題は、レンズ越しにそれが看破されていないかだ。


 私はちーちゃんに目を奪われている。その恋心をもっと募らせて欲しいと期待している。

 近いうちに彼女を拒絶するという決まった結末に向けて、言葉を探しながら。


 矛盾した感情。

 無理だと知りながら、ちーちゃんの想いを、静謐な湖面に一雫だけこぼれ落ちてしまった揺らぎを壊したくないのだ。

 七夕祭りの人波に逆らって、本能に突き動かされて駆け回ったのは、そのためだった。ちーちゃんに芽吹いた私を懸想する気持ち。もしあのとき放っておいたら、彼女はそれを整理して、二度と見つからない場所にしまい込んでしまっただろう。私はその喪失を耐え難いと思ったのだ。


 ——私を見つめているときの彼女が一番美しい。


 そう思った。ううん、間違いなくそうだ。これは自惚れじゃない事実。

 だって、彼女は私の理想、哲学論的イデアなのだから。

 咲季に憧れ、目の前の凛咲をありのまま受け入れる稀有な存在。ずっと私を見守ってくれていた伯父さんや、対等な友人として付き合いの長い詩織の方が私たちのことをよく知っている。でも、いや、だからこそ、ちーちゃんと同じ役割は果たせない。そしてこればかりは恋人である先輩にも求められない。

 なぜなら、ちーちゃんの思い出のアルバムに収められた咲季こそが、きっと誰の記憶よりも純度が高いのだ。




   ***続く***

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