esquisse #4
江ノ島大橋を通過し、島の東側の道を少し入ったところの路肩に車を停めてもらう。
伯父さんのワンボックスカーから降りて、続けてボストンバッグを引っ張り出す。その奥から、大きめのショルダーバッグのストラップを肩からクロスさせたちーちゃんが手を伸ばしてくる。どうやら今日もご機嫌麗しいようだ。彼女の手を引いて、降車を手伝う。
車から出た途端にむっとした熱気が身体を包み込み、海から染み出した潮の匂いが鼻の中を埋め尽くした。これは立っているだけで汗をかきそうだ。
ちーちゃんが首にかけたもう一つのストラップの先、デジタル一眼レフも持ち主と同様に機嫌よく揺れている。よく手入れされているんだろう。桜の園の花びら舞う春空の下で真っ白に輝いていたボディは、陽光の重い夏空の下でも変わらずに光っている。
ただ、ティーシャツに覆われた胸元が、非常によろしくない感じの凹凸をアピールしていたので、私が着ていた薄手のパーカーを、バッグのストラップの上から羽織らせる。意図を汲んでくれたのか、ちーちゃんは何も言わずにパーカーのチャックをあげた。まったく。日差しのせいか、手のひらと顔が熱い。
伯父さんが運転席から私たちのいる車の左側に回り込んできた。
「ありがとう。やっぱり電車で移動するよりも、ずっと早かったね」
「どういたしまして。ちょうど暇でよかったよ」
ちーちゃんも「ありがとうございました、龍さん」と人懐っこい笑みを浮かべる。
「突然旅行なんて言い出すから、何事かと思ったよ。でも、本当にいいの? ここで。箱根くらいなら連れてってあげるけど」
ここ数日で何度目かの確認をされる。
「いいの。旅行より合宿って感じだし」
全面的に私のための、だけど。
江ノ島には伯父さんのアトリエがある。画材も一通り揃っている。橘の部室で描き続けるのもいいけれど、夏といったら海という安直な発想に流されてみるのも悪くないと思った。
それに、私にとってはちょっとした気分転換にもなるだろう。連日ちーちゃんを描いてみたものの、なかなか良い絵を見出せず、行き詰まりかけていた。
そればかりでなく、学校と家を往復していると、胸の深いところに錨を下ろして度々銛を突き立ててくる先輩の不在という寂寥感と嫌でも向き合わねばならない。先輩は大学の人たちと旅行中。要するに、寂しさを紛らわせたいのだ。そのためにちーちゃんを連れ回すのは先輩の本意ではないだろうけれど。
しかし、他の遊び相手といっても、詩織は今頃避暑地の別荘でくつろいでいるのだろうし、吉谷さんたちは当然部活だ。
「まぁ、俺としてはいいんだけど。アトリエだって、たまには人が入らないと埃だらけ潮まみれになっちゃうからね」
伯父さんは手で顔を仰いで風を送りながら、口の端を上げて笑う。洒落たアロハシャツに汗の染みが浮かんでいる。モスグリーンの後ろ髪にも汗の玉が浮かんでいた。
アトリエは六月に私とちーちゃんが滞在して以来、誰も使用していない。でも、あのときかなり念入りに掃除をしたから、今回の滞在にはなんら支障はないだろう。
「じゃ、俺は帰るよ。狭いところで悪いけど、せっかく海も目の前にあることだからね。二人とも、楽しんでおいでよ」
「はいっ」
「伯父さん、今週の金曜日は電車で通うから。あの子のところ」
「はいはい。そうだ、何かあったらすぐに連絡しなよ。ご両親に了解はとってあるけど、ちーちゃんをお預かりしてるってことを忘れないように」
伯父さんが大人の、保護者の顔をして言う。実の父親よりも父親らしいその表情に、私は頷く。
「うん、わかってる」
「優しい伯父さんとの約束だぞー」
伯父さんはそう言うと、身を焦がす灼熱から避難するように、ワンボックスカーの運転席に駆け込む。
間もなくエンジン音がしてサイドミラーが展開する。きっと車中は涼しいんだろう。——いいなぁ。ちょっとはしたないと思いつつ、ブラウスの裾を摘んでぱたぱたと仰ぐ。そして、その一部始終をちーちゃんに目撃されてしまい、背中に余計な汗をかくことになった。
アトリエのクーラーに思いを馳せながら、ワンボックスカーの四角い背が見えなくなるまで見送った。
急な石段に息を切らせながらのぼっていくとアトリエが見えてくる。
赤い瓦の屋根に、木組みの床下の日本家屋。ちょっと手狭だが庭付きの一戸建て。かつて伯父さんと共に生活していたその家は、一ヶ月前と変わらぬ佇まいで私たちを迎え入れてくれる。
鍵を開け、引き戸をがらがらと開く。扉にはまっているガラスが静かに鳴いた。
「荷物置いたら海行きましょうよ、海」
「うーん、そうねぇ」
靴を脱いで玄関に上がったちーちゃんは早くも遊ぶ気満々なようだ。一応ここには絵を描きにきたのだけれど。あと、クーラーのひんやりとした風に当たってちょっと休みたい。
——まぁ、それは後でもいいか。
ちーちゃんの浮かれた横顔を見ていると、あれやこれやのプライオリティーが下がっていくらしい。もしかして甘やかし過ぎだろうか。
——まぁ、いいでしょ。このくらい。
結局、天秤は甘やかす方に傾いた。
ちーちゃんの提案を承諾して、私たちは荷物の整理もそこそこに財布とスマートフォンを持ってアトリエを後にした。もちろんちーちゃんはカメラも忘れない。
お互い用意がいいことで、靴はスニーカーからサンダルに履き替えている。
屋外に出るや、昼間の太陽が熱烈にアプローチしてくる。日焼け止めを塗ってきて正解だった。二人とも半袖だし、油断すると明日には真っ黒焦げだ。もっとも、ちーちゃんは既に健康的なくらいには日焼けしていたりする。サッカー部の練習に顔を出していたせいだろう。
雑談をしながら歩いて、電車に揺られて、歩いて。空と海の境界線がぼやけてあやふやな景色を右手に、目的地へと急ぐでもなく向かっていく。時間はたっぷりある。ちーちゃんの細い腕を汗が伝っていた。
やがて、海水浴客が浜辺を埋め尽くす由比ヶ浜にやってきた。
水着はアトリエに置いてきた。なので、私たちは浜辺に下りて、波打ち際で水面を冷やかすことにした。
「七月に来れたら花火大会もやってたんだけどね」
「花火ですかぁ」
ちーちゃんのぽつりとした返事。
口にしてからしまったと思い、自分の唇を隠すように押さえる。花火は失言だったかな。わずかひと月で時効になるほど薄っぺらい出来事でもあるまいに。
しかし、ちーちゃんは僅かも気にかける様子もなく、こう打ち明ける。
「実はちょっと苦手というか、むず痒いんですよね」
「えっと、何が?」
「花火ですよ。花火」
ちーちゃんは夜天を彩る光の粒を幻視するように、青く塗りつぶされた空を見上げる。眩しそうに目を細めて。栗毛がふわっと風に流される。
「むず痒いって、どういうこと?」
「花火を見てると、どうしてか泣いちゃうんです。別に悲しい思い出があるとかじゃないですよ。でも、あの火花を眺めてると、自然に涙が溢れてきちゃうんです。本当にそれだけのことなんですけどね。みんなに心配させちゃうので、今まではお姉ちゃんと萌くんが上手く誤魔化してくれてました」
「じゃあ、あのとき泣いてたのって……」
——もしかして、花火のせい?
だとしたら、七夕祭りの夜の壱月亭でちーちゃんが泣いていたのに実は深い理由なんかなくて、私があれほど焦って駆けつけたのは早計だったのか。
「それは、せんぱいには秘密です」
ちーちゃんはなんでもないようにうそぶく。しかし、これ以上追及しても満足に答えてはくれないという、きっぱりとした口調で。
いつもと同じ。こうやってまた、煙に巻かれてしまう。
いや。でも、その後に起こったことは間違いなくちーちゃんの意思だ。それが彼女のあの涙と繋がっていないとはどうしても思えない。確信をもてるほどじゃないけれど、私の勘が告げている。
仮にそうだとして。それを信じたとして、私は彼女の想いをどうしたいのか。
私はちーちゃんのことを知っているようで、全然知らない。自分のことだって知っているようで、全然知らない。
「もし行くなら誘ってくださいね」
「んー?」
「花火ですよ」
「むず痒いんじゃないの?」
「それはそれとして。好きなんですよ」
とりあえず変な子だなぁ。しみじみと再認識した。
そういえば温泉も好きと言う割には、すぐにのぼせていたっけ。
花火と温泉が苦手な女の子。行楽のド定番につくづく向いてないというか。そもそも向き不向きなんて考えたこともないという話だ。
申し訳ないけれど、思わず肩が震えてしまう。愛おしいの隣にある微笑ましいという感情を思いっきりくすぐられてしまった。
そうやって、知っていく。
——また少しだけ、彼女に近づけただろうか。
そうだったら良いなと思う。
モデルを知ることは大事だ。好きな人に好きと伝えるように。私があなたを傍で見ていると語りかけるように。筆先ひとつでその面影を描き表す。
私たち姉妹が伯父さんに教わったことだ。それならできる。自信がある。コンクールなんて関係なく、私のことが好きと言った他ならぬ彼女のために。先輩を描いたときもそうだった。
でも、あの頃とは想いも欲しいものも違う。
だって、私は彼女のことを、きちんと振らなければいけないから。
***続く***
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