esquisse #3


 開け放った窓から眩しい斜光とともに、怒涛のように蝉の声がなだれ込んでくる。一匹一匹は規則的に鳴いているのだとしても、テンポや音階のずれによって生まれる多重奏が私の耳に届く頃には、ひどくやかましいノイズになっている。


「ちーちゃん、ちょっと窓際向いて」


「こーですか?」


「もうちょっと。肘ついちゃってもいいくらい。————あ、おっけーだよ」


 トレードマークである三毛猫の髪留めが光を反射する。

 シケンに復帰してまもなく始まった期末テストを無難に終え、いよいよ夏休みに入った。待ち望んでいた、創作に集中できるまとまった時間だ。今日はシケンの部室を貸し切ってちーちゃんのデッサンに勤しんでいる。夏休み前に復帰したおかげで画材は使い放題だ。イーゼルに立てた大判のスケッチブックをめくる。

 私は青いデニムのオーバーオールの上にエプロンを着ているが、ちーちゃんは普通に制服だ。風を受けてブラウスを膨らませた立ち姿。姉と同じ臙脂色のネクタイピンが胸元を彩っている。


「動くなって言われると逆にむずむずしますよね」


「動いていいって言ったら?」


「あー、やっぱりむずむずしますね」


 ちーちゃんは歯を見せてししっと笑う。


「顔、動かしちゃダメだよ」


「おっと、そでした」


 グラウンドからホイッスルの鋭い音が鳴り響く。今日はサッカー部が不在のはずだから、野球部か陸上部あたりだろうか。

 私のモデルはそちらに意識を向けることにしたようだ。目を細めて窓の外を見遣り、口許に微笑を浮かべた表情は、彼女の姉をそのまま小さくしたようで、私に既視感を呼び起こす。

 ちーちゃんの纏う雰囲気はころころ変わって掴みどころがないけれど、やっぱり先輩に似通っているところがある。時にそれは、私の方が歳下に思えるくらい。


「さっきから立ちっぱでごめんね。もう少ししたら座ってもらうから」


「一日立ってても大丈夫ですよ」


 弾むように返事が投げかけられる。フィジカルが強いなぁと思う。

 今日から一週間くらいかけて色々なちーちゃんを描くことになる。作品としてではない。ただのデッサン。もちろん作品の完成に繋がるものではあるのだが、目的は彼女の魅力を描き出す試行錯誤、練習である。

 すでに『作品』にふさわしい場所は決めてある。あとは主役であるちーちゃんの側面をどんな風に切り取るか。


 湿気の匂いのする風に晒された横顔と立ち姿もなかなかどうして様になる。まるで夏に祝福されているようだ。


 出会ってから今日まで、期間は短いけれど、本当に多彩な彼女を見てきたように感じる。写真を撮って少年のように笑う仕草、スポーツに真剣に打ち込む姿勢、声もなく落涙する様子。当初はいつもにこにこしたポーカーフェイスの裏で何を考えているか想像もできなかったのだけれど。今でも想像できないことはあるのだけれど。彼女の本質が精神年齢『年相応よりちょっと上』の普通の少女だというのは理解できてきた。天真爛漫を絵にするだけでは足りないということも。

 私はスカイブルーに端正な和柄のシュシュを外して、髪の毛をまとめ直す。服の下にかけたネックレスがしゃらんと小気味よい音を立てる。


「よし、裸足になろう。ちーちゃん」


「窓際ですか?」


「そうだね。窓際でカーテンを掴む感じで」


「はぁい」


 ちーちゃんは柱に寄りかかり、ローファーを脱いで、それから靴下も脱いで履き口に放り込む。靴下を少し脱ぎづらそうにしていた。エアコンもない部室は暑苦しく、汗ばんでいるんだろう。

 チェック柄のプリーツスカートから伸びるすらりとした脚は、開放を喜ぶようにとんとんと檜の床を跳ねて、お願いしたポーズに収まる。

 ふと、脳裏に何かを見た気がした。それが意識の中ではっきりとした形を取る前に、


「せんぱい?」


 ズーム百パーセントの距離から放たれた声に呼び戻された。


「ちーちゃんはたまに、音もなくくるね」


「せんぱいがこっちを見てないだけですよ」


「そうかなぁー」


 そんなつもりはないんだけど。

 納得したものやら、彼女はとてとてと窓際に戻っていき、再びお願いしたポーズに収まる。

 あらためて鉛筆を握ってちーちゃんに向き合ってみる。

 おや。さっきはしっくりきたと思ったんだけれど。

 今は何かがちょっとだけ違う、気がする。

 その違う何かを探しながら、グラビアっぽいポーズのちーちゃんを描きとってみる。背が小さいだけで、スタイルはアイドル顔負けに整っていると思う。

 じっと観察していたら涼しそうなのが羨ましくなってきて、私もスニーカーと靴下を脱いで裸足になった。体温にほど近い生ぬるい風でも、むき出しの足にとっては心地よかった。


「私、生徒会長選挙に出るみたいなんだ」


「そうですか」


「もし私が会長になったら、ちーちゃんも役員になってみない?」


「あたしは新聞部のが合ってるかもですねぇ」


 ゴシップでもすっぱ抜く気だろうか。まさかの敵対宣言。彼女を敵に回すとなるとちょっと怖い。


「興味ない?」


「どーですかねぇ」


「うん。それは考えておいてもらうとして」


 さっき動かないでとお願いしたせいか、ちーちゃんは短い言葉でさくさくと返答してくる。そんな彼女に本題を告げる。


「これは具体的なお願い。選挙の応援演説をちーちゃんにお願いしたいんだ。過去の先輩方の原稿があるから、それも参考にできるよ」


「はい。あたしで良ければ」


 これまたあっさりとしたシンプルな返答だった。しかもノータイムで。少しも気負わないのが彼女らしくて、やっぱり頼んでよかったと満足した。


 それからしばらく黙々と描いていたが、やっぱりしっくりこない。

 そこで、ちーちゃんの方に歩いていくことにした。もっと近づいて観察しようと腕をまくろうとして半袖だったことを思い出す。


「どーしたんですか?」


「誰かさんにこっちを見てないって言われたから。じっくり見つめてみようかと思って」


「——好きなだけいいですよ」


 腰をかがめて顔を覗き込む。ぱっと見た感じは普段の彼女だ。私を見つめ返してくる目は、視線で抱擁するように優しい。じぃっと見つめていても、ほっぺたを指で押してみても、表情は全然崩れなかった。これは手強い。

 一歩引いてバストアップで眺める。やっぱりぱっと見に違和感はない。中紅のリップが薄いメイクの顔に彩りを添えている。

 と、ふいに違う何かを瞳に捉えた気がした。

 あれ、これって——。

 私はイーゼルの前に駆け戻ると、見つけたばかりのイメージを形にすべく、ちーちゃんにポージングの変更をお願いする。


「カーテン、お腹のあたりまで持ち上げて。それから、顔はさっきみたいに窓の方向いてみて」


「これでいいですか?」


「うん、ばっちり」


 違和感の正体はやっぱりこれだった。リップの下のくぼみにできた小さな影。


 ——ちーちゃんには、内緒かな。


 ちょっとだけ表情にはみ出した、子供みたいに拗ねた感情。無表情の下に隠しきれなかったそれが、あのワンカットに変化をもたらしていたのだ。

 その発見がなんだか試験の問題を解いたときより嬉しくなって、愛おしく思えてきて、踊るような気持ちでスケッチブックに向かった。ペン先も心なしか軽やかだった。




   *




 年季の入った木製の扉が、高いドアベルの音を鳴らしながら、閉じる。

 外は日が落ち、蝉の声もすっかり止んでいた。ちょっと長居しすぎたかもしれない。今日の成果であるスケッチを、ちーちゃんがあんまりじっくりと眺め回しては褒めそやすから、時間を忘れてしまった。

 和装のウェイターである旧姓渡辺さんこと睦月千代さんが、いつも通り外まで見送ってくれる。


「ごちそうさまでした、千代さん」


「またいらしてくださいね。いちかさん、凛咲さん」


「マスターにもよろしくです」


「ええ。お二人も夜道はお気をつけて」


 千代さんに見送られて喫茶『壱月亭』を離れ、真っ黒な葉が天蓋のように埋め尽くす銀杏並木を、歩を並べて行き過ぎていく。

 ちーちゃんは自宅、私はその手前の駅が目的地である。

 帰宅に電車を使うのは久しぶりだ。

 つい先日までは毎夕、先輩が迎えにきて、私の家まで一緒に下校していた。七夕祭り前の宣言通りだ。だからだろう。胸の中に変な空間ができたようで寂しい。息を吸っても肺が満杯にならないようなもどかしさが残る。

 先輩はゼミの合宿だ。八月中はオセアニアのどこかと言っていたっけ。行動範囲の広さに圧倒されて、説明されてもさっぱり分からなかった。学科は社会人類学科のはずだけど、ゼミではそれ以外のこともやっているらしい。

 そして、萌黄くんはサッカー部の合宿。二週間ほどみっちりと鍛えられてくると言っていた。

 初めてできた恋人と、複雑な間柄の後輩。

 二人のいないこの大和市はちょっと物足りないように思う。

 ちーちゃんも毎日萌黄くんと一緒に登下校しているのだから、似たような心持ちかもしれない。

 ——とたかを括ってしまうのは流石に無神経がすぎるか。七夕祭り以来、ちーちゃんと二人きりになるのは初めてではないけれど、私と一緒にいることで、彼女の心のカーブは多少なりとも上下するんだろう。傍目にはわからないほどスローに、だけどむっつりが顔に出るくらい確かに。


「私たちも旅行いこっか」


 それは、ぽろっと、本当に何の気もなく溢れた一言だった。

 でも、その次の瞬間には、ちーちゃんの顔は大輪の花を咲かすように綻んでいた。




   ***続く***

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