esquisse #2
「ええと——」
快く迎え入れるような温もり、星を散らしたような輝き、棘を突き立てられるような剣呑——六者六葉の、それぞれに想いのこもった視線が私に集約されている。
今更緊張するような間柄でもないけれど、注目されるとやはり身が引き締まる思いがする。特に不興を買っている後ろの席の、刺々しい彼女の前で滅多なことはしたくない。
旧校舎の美術室——シケンの部室では、長辺を合わせた二台の長机を囲んで、部員六人が座っている。私は短辺側を正面にして起立し、全員を順繰りに視界に収める。
ちーちゃんが、歯を見せてふにゃりと微笑んでくる。その鳶色の瞳には私だけが映っているんだろう。無邪気さの中にどこか艶っぽい色合いが混じっているように見えて、ぎくりと心臓から背中にかけて脈が伝播するのがわかる。
——だめだ。いちいちこの子に動揺しちゃ。
隣にいる萌黄くんが、ちーちゃんの頭を小突いて、私からぷいっと顔を背ける。あははと気の抜けた笑い声が漏れそうになる。彼女との関係は、ある意味ちーちゃんより厄介だ。
目下、ちーちゃんとも、萌黄くんとも、良好な間柄でいたいのだけれど。先輩なら上手い立ち回り方を見つけられるんだろうか。全てを穏やかに、鮮やかに解決する理屈があるのなら知りたかった。どうあれ、先輩には事の全容を詳らかに説明できるわけもなく、結果としては誰にも相談することもなく、なんの策も持たないまま、お祭りの後の三日間を過ごしてしまった。
しかし、自分の『本当にやりたいこと』はとりあえず見つけられた。ちーちゃんと結成した同好会『放課後ウォーカー』は見事にお役目を果たしたというわけだ。
そのために、まずは私が目を背けてきたものの一つ——シケンに復帰する。
私が立ち上がったことで自然と静まっていた場に、小石を投じて波紋を起こす。
「まずは、長い間幽霊部員でいたこと、ご迷惑をおかけしました。本当にごめんなさい」
頭を深く下げて、檜の床と見つめ合う。
今年度に入ってから、視覚芸術研究部——通称シケンが存亡の危機に陥ったのは知っている。五人目の部員である私が活動していなかったために、部活動として認可される最低人数を下回ってしまったからだ。危うく五月付けで同好会に格下げになるところだった。迂遠な方法だったのはともかくとして、ちーちゃんが入部してくれたおかげで、なんとか最悪の事態は免れたけれど、みんなには相当気を揉ませたことだろう。
絵描きとしてのアイデンティティを喪失し、先輩の期待に応えられなくなったと思い込んでいたため、肩身が狭くて顔を出せなかった。いや、もっと——根本にあるのはもっと醜い感情。純の絵に対して抱いたのと同じ、同年代の直向きな芸術家たちに劣等感を抱くのが辛かったからだ。その背中を黙って見つめるだけなのが、たまらなく居心地悪かったからだ。
「今更戻りたいなんて、虫のいいことを言っているとは思います。でも、私はシケンの部員として絵を描きたいです。あらためて、よろしくお願いします」
先輩のように上手には喋れないけれど、伝わってほしい。
顔を上げれば、みんなは変わらずそこで見守ってくれていて。それぞれが異色の才能を持った、ちょっとした変人たちだ。温泉旅行や七夕祭り、部を離れてからも、何度か行動を共にしたけれど、決して私を遠ざけるようなことはしなかった。
連続で波紋を立てたはずの教室の空気が再び静まり返る。
一年生の頃の私はシケンの他に、生徒会役員も兼任していた。
でも、全ては先輩の目に留まりたいがため。そんな不純すぎる動機で始めた活動が長続きするはずもなく、先輩への想いが募れば募るほどにもどかしく、いたたまれなくなり、やがてみんな捨ててしまったのだ。先輩はあれほど側にいてほしいとアピールしてくれていたのに。我ながら、愚かしいほど何も見えていなかった。
別にシケンに戻らなくても絵は描ける。しかし、ここで描きたい。もう一度ここを自分の意思で選びたい。
先輩が創設して、ちーちゃんがいて、みんながいる。この場所で絵を描きたい。その気持ちは本物だ。
だから、恐ろしいほど静まりきった室内には、否が応でも不安が募ってくる。
「その、えっと——みんな……」
ヒワさんは我に返ったように私を見据える。向日葵色の前髪をそっとかき上げて、困ったように微笑する。
「あ、ごめん。そんながちがちに謝罪会見されると思ってなかったから」
「でも……」
ヒワさんは机に片肘をついて、ぴんと立てた人差し指の中程に頬を乗せる。
「凛咲りんが気に病むことじゃないよぅ。結局何事もうまく行くってわけだし、終わりよければ万事よし。それに、文化祭前に帰ってきてくれるなんてなかなかジャストタイミングじゃない? 今年も熱が入るってもんですよ、リアルアート対決」
昨年実施したリアルアート対決。校庭の一角を貸し切り、二日間かけて、それぞれの部員が作品を作り上げる。完成した作品は三日目に投票にかけられ、明確に人気順がつく。先輩のアイデアで実施した競作企画である。
前回は羽賀先輩に一歩及ばなかったが、今年はもっといい絵を描いてみせる。十月の文化祭が今から楽しみになってくる。
「まぁ、四月のアレはやりすぎですけどねー。あ、もちろん凛咲りんに関しては何も心配してないですからねー」
「ぐ——っ」
「まだ言うんすか……? もう水に流してくださいよ」
「んだとぉ。アタシがどんだけ苦労したと思ってるの? 初香さんいなかったら、キミたち今頃ここにいなかったかもしれないんですよ?」
ヒワさんは腕組みをして櫻井くんと斉木くんを睨みつける。
噂には聞いている。新入生勧誘のために実施されたリアルアートの催しを、この二人が台無しにした事件だ。曰く、『スプリング・アートの惨劇』と呼称されて、一時期校内で有名になっていた。悪評として。おかげで一年生の間で「近寄るべからず」という不文律が定着したそうな。
しかし、ヒワさんは私に向き直るとからっと表情を変える。大きく手を広げて、全員に向かって呼びかける。
「まぁ、それじゃ。凛咲りんも戻ってきたことだし、シケンは再出発ってことで。記念にカラオケでもいく?」
「いいね。久しぶりに僕の美声を聴かせてあげるよ」
席を立ったヒワさんの意見に、櫻井くんが賛同する。
美声とは。確かに声質はいい部類なのだが、何せその持ち主が筋金入りの音痴である。本人は全く理解していないのが、これまた始末が悪い。
「ちょっといい?」
私の気負いとは裏腹にあっけなくカラオケへと走りかけた雰囲気を、手をあげた斉木くんが引き留める。私をじっと見つめて。
「うん」
「まぁ、俺はさ、描けなくなった経験とかないから、頓珍漢なことを言うかもしれないけど。いわゆるスランプって言うのかな。河内さんは絵の道を一旦休んで、それでも戻ってきたってことだろ?」
「そう、だね」
「一度置いた筆を取るって、怖いよな。その間も周りは進んでるなんて、信じたくないよな。俺の道は漫画一筋って決めてるけど、なんとなく焦る気持ちは共感できるよ。それに、仲間がいなきゃやっぱり締まらないっていうか——」
「斉木くん……」
彼は握りしめた手に目を落として、それから再び顔をあげる。
「うまくまとまんないけど、俺は河内さんを尊敬する。描きたいって気持ち一本で戻ってきた河内さんを応援するよ。ぜひ——ぐはぁっ」
その言葉が終わる前に、彼は後頭部をしこたま叩かれる。悶絶と共に台詞が中断される。
斉木くんを色白な拳で殴打したのはもちろんというか——櫻井くんだ。
こちらにつかつかと寄ってくる。近い。私の周囲に影が落ちる。
「ふ、コレのことは気にしないでいいさ。何も心配することはない。また一緒に活動しよう、子猫ちゃん」
「櫻井くんは、全く変わってないね……」
櫻井くんは勿体つけたようで、それでいて機敏な所作で、私の手を取る。
「凛咲の手はやっぱり綺麗だね」
櫻井くんは整った顔をうっとりさせるように片目を伏せる。彼が人の手というモチーフに並々ならぬこだわりを持っているのはここにいる全員の知るところだ。
何も知らない人から見たらドン引きしそうな光景であるが、私も部員たちも慣れたもので、この程度のセクハラまがい行為じゃ眉一つ動かさない。
「どうだい、今度モデルになってくれよ。この校舎、音楽室は空いてるからね、ぜひ二人きりで——っごふ」
「お前、シゲェ!」
「いちいち気持ち悪いんだよ、ミッチーよぉ」
思えばこれに慣れるのもいくらか時間がかかったものだ。最初のうちは先輩がひと睨みで黙らせていたけれど、時間が経つにつれ、だんだんと先輩が介入することは減っていったように思う。その理由の一端は、斉木くんが必ずツッコミに入るというのもあるだろう。しょうもなく絶大な信頼である。
一触即発。椅子を蹴り飛ばし、拳を握ってファイティングポーズを取る二人。仲がいいんだか悪いんだか。
——その間に、すたすたと向日葵色の癖毛をした小柄な身体が割って入る。ここまでが私の知っている通りのテンプレだ。
「あらぁ、まさかこの流れで喧嘩なんて野暮な真似、しないわよねぇ?」
「ひ、ヒワさん……っ」
「別にいいのよ、アタシは。でもねー、予算ももう残り少ないんだなぁ。粘土と原稿用紙代くらい、ケチってもいいかなって思うんだけど、どうかなぁ?」
圧のこもった問いかけを受けた櫻井くんと斉木くんは、竹馬の友も顔負けなほど、がっちりと握手を交わす。
「僕たちほどのベストフレンズ、そうそういないですよ」「だよな」
「うんうん。仲よきことは善きことかな。いちかちゃんと萌黄くんは何か言いたいことある?」
「あたしは何も。せんぱいが絵を描くだけで嬉しいですから」
ちーちゃんは夏の日向のように熱のこもった声を羽ばたかせる。季節が移り変わるように、彼女の表情もころころ変わる。
「俺も別に、なんもないです。正規の部員でもないですし——」
対して萌黄くんは、私のことを一切見ずに、味も素っ気も、興味もなさそうな応えを返す。
ふいにヒワさんが眉根を寄せて複雑そうな表情をした気がしたけど、それも一瞬のうちにかき消えてしまう。
「よしよし。こうなったら、部長。シメはよろしくお願いしますよ」
これまで静かに様子を見ていたところに、いきなり音頭を振られた羽賀先輩は苦笑混じりに肩を竦める。
「まったく、ヒワさんは乱暴だね」
「失敬な。恭一くん以外、誰がまとめるって言うのよぅ」
彼は眼鏡の向こうでゆっくりと瞬きする。穏やかで自己主張はしない。でも、その場の空気が彼の色に染まったのが分かる。
「まとめる必要なんかないさ。ここはそういう部だからね。それは、河内さんが一番よくわかってるんじゃないかな?」
先輩が同好会としてこの部を創設したときに、羽賀先輩と私を前にして高らかに打ち立てた宣言は、今でも鮮烈に記憶している。
——芸術家たちよ、
「自由であれ、ですか」
羽賀先輩は腕を組んで、緩やかに首を縦に振る。
「そう。何をするにも自由。それなら、離れるも戻ってくるも自由さ。心のままであること。それは芸術の道を志すにあたって、何よりも重要なことだと思う。僕から言えることはそうだね。フィールドワーク、また行こうか」
「はいっ。ぜひ、みんなでっ」
——そうだ。この人たちはずっと守ってくれていたんだ。
ここは先輩と私の理想郷だった場所。いや、だったじゃない。今この瞬間も私たちの理想郷なんだ。卒業という形で先輩は去ったけれど、その理念は生き続けている。彼女が私に残そうとしたのは、きっとそういうものだ。
——ああ、今すぐに会いたいな。いつだって人の一歩先を見ているあの人に。
***続く***
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます