esquisse #1
***凛咲***
とどのつまり、私は生徒会長に立候補していたらしい。
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公示
平成三十年度
私立橘高等学校 生徒会会長選挙
一、立候補者
二年C組 川島詩織
二年C組 河内凛咲
〜中略〜
四、選挙活動期間
平成三十年九月十日(月)〜平成三十年九月二十五日(火)
五、立会演説会および投票
平成三十年九月二十六日(水)
六、当選発表
平成三十年九月二十七日(木) 掲示にて
七、付帯事項
・選挙活動は生徒会規約第二十五条に従い実施すること。
・立会演説会は生徒会規約第二十六条に従い実施すること。
・副会長、書記、会計は生徒会規約第二十七条に従い、
当選発表後に新生徒会長が即時任命すること。
〜中略〜
平成三十年九月三日発行 印
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「ん……——?」
L字のソファーに体重を預けるように腰掛けた私は、反対の端に背筋をきちっと伸ばして座る詩織と、彼女が机に置いたA3のプリントを交互に見比べる。身に覚えのない取り調べを受けて身に覚えのない証拠を突きつけられているような気分。これが正規の承認ルートをまかり通っているのだとしたらぞっとしない話だ。
「よろしくね、凛咲」
「待って待って、ちょっと待って、私、なにをよろしくされてるんだか理解してないんだけど——」
「そうね、ふふっ」
詩織は口許を抑えて愉快そうな吐息を漏らす。やんわりとした眼差しは幼い少女のように無邪気だった。まるで毒気のないところが逆に恐ろしい。
「——じゃなくてっ。どうやって私を候補にしたの? 立候補どころか、候補者を募集してたことすら忘れてたのにっ」
橘の生徒会会長選挙は九月初旬——夏休み明けも早々に開始される。そこで、候補者受付はかなり余裕を持って実施されるのだが、締め切りは七月の——先週末だったはず。無論応募などしていない。そのはずなのに、公示のプリントにはさも当たり前のように私の名前が記されている。
思えば温泉旅行から最近の七夕祭りまでずっと、日常という平坦なコンクリが剥がれ落ちた荒れ道のような日々を送っていた。それに当事者意識のなさも相まって、選挙のことなどすっかり意識からすっ飛んでいたのだ。
締め切りはとっくに過ぎた。今この時点で候補者名簿に名前を書かせても公的に有効にはならない。
しかし、詩織の澄まし顔からして、私はすでに生徒会側に候補者として登録されているんだろう。遺憾なことに、当人の預かり知らぬところで。
苦虫を噛む思いで詩織から目を外す。彼女は当然立候補するものと思っていたけど、まさかこんな隠し球を用意していたなんて……。いつかの温泉旅行でのヒワさんの悪巧みを秘めた笑みを思い出す。きっと彼女も一枚噛んでいる。
レースのカーテンとともに窓を開け放って、窓枠に身を乗り出し、傾いた日を見上げるヒワさんが机の端に落とす影は向日葵色が滲んでいるように映った。湿気を多分に孕んだぬるま風が、この部屋の蔵書にとって害あるものでないことを願わずにはいられない。
図書室の奥まったところにある一室、いつもの第七資料室にいるのは、ヒワさんと詩織と私。ここに居座るようになって初めて並ぶ顔ぶれだ。
ちーちゃんはサッカー部に顔を出すと言って、ささっと体操着に着替えて出ていってしまった。そして示し合わせたかのように入れ替わりでヒワさんを伴った詩織がやってきて、一枚のプリント——公開前の選挙公示——を突き出して来たのがことの発端だ。
「凛咲なら思い当たるんじゃない? 生徒会規約第二十二条」
その単語に、詩織に向けた方の耳がぴくりと反応する。生徒会規約は暗唱できるほど目を通したのですぐに思い当たる。二十二条は生徒会選挙に関する条項だ。恨めしさが伝わるように、喉の奥からその単語を絞り出す。
「推薦票……」
「さすがね、凛咲りん。アタシが集めたの。コネやらツテやら色々使ってねー」
ヒワさんが会話に参加してくる。例えば、その高々と突き上げた鼻にグーパンを見舞ったら、不祥事で立候補は取り下げられるのではなかろうか。いや、やらないけど。
私は野蛮な方面に傾いた思考を立て直しつつ問い返す。
「たしか本人の同意が必要だったはずですよ?」
「そこはしーちゃんにうまいこと」
「一応保留ってことにしてあるの。あとで一筆お願いするわね。手段がないことはないけど、やっぱりこういうのは、本人の意識がとても大事だもの」
しゃあしゃあと言ってくれる。
育ちのよさがわかるたおやかな微笑みは、ときに猛毒の花を咲かすから始末が悪い。
「なんか二人でこそこそやってると思ってたら、そんなことしてたんですか……?」
肺に溜まった空気を抜くのと同時に肩を落とす。
温泉旅行の頃から何やら結託していたのは察していたけれど、まさか自分に関することだとは夢にも思わなかった。
それにしても、候補を擁立するのに最低限必要な推薦票は三十票だったと記憶している。よくもまぁ、そんなに集めたものだ。私よりヒワさんのほうがよほど適性があるんじゃないだろうか。
「そんなやり方で票を集めたって無意味ですよ。ヒワさんも知ってると思いますけど、詩織は去年からずっと生徒会を支えてるんです。勝てる見込みが一ミリもないですから」
「そうでもないんだなぁ。みんな、凛咲りんならって喜んで協力してくれたんだぜ」
「まさか。私はヒワさんの友情票だと思いますね」
「二年生票が結構集まったんだよぅ。信じてくれよぅ——とか、ここで議論しても仕方ないか。選挙の結果が教えてくれるってね」
ヒワさんは自信たっぷりに告げる。
「なんだかんだ、凛咲は信頼されているのよ。波照間現会長だって、ね。去年の途中まで宮古先輩の右腕だったのは、間違いなく凛咲だったもの。それに、引き篭もったら引き篭もったで『図書室の令嬢』なんて噂されちゃったりして。自己
評価を見直してみたらどうかしら?」
詩織が風になびく髪を手櫛ですいて、ヒワさんの論を後押しする。
「むぅ……」
この策士二人に囲まれてはやりづらい。普段なら言いくるめられる前に退散するのがセオリーだけれど、こと今回に当たってはこれ以上の反駁の必要性を感じていないのも事実だ。
目一杯不機嫌な表情を作っているものの、それは二人のやり口に対してであって、選挙の出馬意思とは無関係だ。
「そうそう、応援演説を誰かにお願いしておいてね」
「生徒会規約第二十六条に従い、か……」
詩織は満足げに「そう」と口の中で唱えた。
「わかりました。やります——、やりますよ」
私は両手を頭の後ろで組んで、降参のポーズを取る。策士二人の腹黒い微笑みを見渡しながら。
「二人とも、恨みますからね。この仕打ちはあんまりです……」
「でも、普通に頼んだってやってくれなかったでしょう?」
「当たり前じゃない」
「黙ってたことは謝るけど、凛咲りんが生徒会長にふさわしいと思ってるのは事実だよ。しーちゃんと甲乙つけがたいってとこで」
「仮に私が会長になったとしても、シケンの部費を水増ししたりはしませんよ。もちろん四月の件も不問にはしません」
「えぇ——、そこはなんとかぁ」
ヒワさんが私のソファーの空いているスペースに膝立ちになって、まだ会長にもなっていない私に嘆願してくる。
秋になれば部活動の部長も一斉に交代になる。例えばだが、私が生徒会長とシケンの部長を兼任するとしたら、色々と融通は利かせやすくなる。あくまで『常識の範囲内で』とはいえ、各種手続きに加えて予算に部室に、と思ったより恩恵は大きいのかもしれない。
「意外だったわ」
「もうちょっとごねると思った?」
「ええ。どうやって説得しようか考えてきたのに、無駄になっちゃった」
「まぁ、生徒会には悪いことしちゃったし……。中途半端を清算するにはいい機会だと思ったの。詩織にも苦労かけたしね」
「それは——、私も生徒会のみんなも別に——」
「いいの。なんていうか。私が過去にしたことも、清算したいと思ったのも、どっちも根っこにあるものは同じだから」
そこまで言うと、詩織が堪えきれないといった様子で、肩を震わせて笑いだす。
「あなたって、潔白な顔して結構下心にまみれてるわよね」
「あのねぇ、……——気が変わるよ?」
私の放ったじとっとした視線は、親友の笑顔の表面をつるりと滑って夏の空気に霧散した。
二人が去った後の資料室から出て、軽く伸びをする。日増しに強くなる日差しも、瞼の裏を緑色に染める青臭い湿気も、嫌いじゃない。肩ストラップがずり落ちたリュックを背負い直す。
部屋を出るとすぐに校庭だ。戸締りを確認してから、サッカー部が使用しているグラウンドに向かう。
着いてみると案の定、二人の姿はすぐに見つかった。溌剌と揺れる栗毛と、ショートヘアの長身。紅白戦をしているようだ。
せっかく見るならとちーちゃんに教えてもらって、その後自分でもネットで調べたくらいの、貧相なサッカー知識のおかげで、試合がどう流れているのかはなんとなく追いかけられるようになっていた。ちーちゃんと萌黄くんは別のチームだ。フォーメーションはどちらもオーソドックスな『4-2-3-1』。自陣を守るディフェンダー四人に相手ゴールを攻めるフォワード一人を配置した、攻守を兼ねる陣形である。
ディフェンダーのうちの一人から、ちーちゃんへと短いパスが渡る。『2』の位置にいる彼女の役割はおそらく——。
「パスコース潰して!」
ちーちゃんの背後でセンターフォワードの萌黄くんが叫ぶ。
ちーちゃんは落ち着いていて、まるで彼女だけに見えているトンネルへボールを押し出すかのように、柔らかく、鋭い弧を描いてパスが飛ぶ。蹴り出すまでの判断が早かったため、ディフェンス側が追従できていない。パスは走り込んでいた右ウィングを目掛けて飛んでいく。足に吸い付くようにボールが落ちて、その子は理想的な形のシュートを放つ。しかし、それは惜しくもゴールキーパーの好プレーによって弾かれてしまった。
ちーちゃんの役割はボランチ。チームの司令塔だ。助っ人の身でそんな大役が務まっているのだから、目を見張るほどの観察力とメンタリティだ。才能に惹かれるという先輩の気持ちも分からなくもない。
私はグラウンドの端、サッカー部のコートがよく見える場所にシートを敷いて陣取った。短く刈り込まれた深緑は目に優しく、綺麗に整列された楠の屋根は日除けにちょうどいい。
リュックの中にあったスケッチブックを開き、鉛筆を走らせる。そうしているうちに自然と、五感が、神経が、目まぐるしく変わる戦況を駆け回る彼女に没入していく。
もう、描けないことに怯えていた私はいない。
***続く***
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