割れた花瓶に花束を2

怖かった。

鞭で打たれるのが怖かった。

叩かれるのが怖かった。殴られるのが怖かった。蹴られるのが怖かった。踏まれるのが怖かった。髪を引っ張られるのが怖かった。突き飛ばされるのが怖かった。首を絞められるのが怖かった。縄で縛られるのが怖かった。食事を与えてもらえないことが怖かった。


死ぬのが、怖かった。





「おい、出てこい」


私の飼い主が檻を開けて私に声を掛けた。私は素直に言葉に従う。どんなものにしても罰を受けるのが怖かったから。


飼い主は私の首輪に鎖を繋いで引っ張って行く。私もそれについていこうとしたけれど久しぶりに檻の外に出た私の足は言うことを聞いてくれなかった。


「あぁ?」


蹴られた。飼い主は足を縺れさせて倒れた私を蹴った。せめて顔を蹴られないようにと腕を上げたら腕を蹴られて傷ができた。


「早く来い!」


これ以上殴られるのも蹴られるのも嫌だ。力の入らない腕と足に精一杯の力を入れて立ち上がると、飼い主は舌打ちをしてまた私を引っ張った。



「お待たせいたしました」

「ぅ」


飼い主が檻のある場所から離れた所にある仕切られた部屋に入り、私を一層強く引き寄せた。私はうめき声を漏らして倒れそうになったけれど、罰に対する恐怖が何とか踏みとどまらせてくれた。飼い主は私がうめき声をあげたことに苛立った様子だったけれどそれでもお客の前だから殴られなかった。


「………女か?」

「そうでございます」


客は男だった。男は左手がなかった。鋭い目をしていた。声が低かった。怖い顔をしていた。


「今は少し痩せておりますが身の回りのお世話をするくらいでしたら可能でしょう。一応言葉も話せますし物分りも良い方ですのでお値段は少し高くなってしまいますが、いかがなされますか?」


身の回りのお世話。私が奴隷として育てられる中で男性の身の回りの世話、と言うものがどう言うものかは飼い主からも他の奴隷からも聞いたことがあった。だからきっと私が買われたら私もすることになるのだろう。隣の檻にいた子は前の飼い主に奴隷は酷く扱われて凄く痛かったと言っていた。あまりに酷いところだと行為の最中に殺されることもあるらしい。


この人はきっとすごく怖い。もし買われたら私は殺されてしまうかもしれない。いくら殴られても蹴られても打たれてもいいから殺されはしないここにいたい。


―――どうか私を気に入らないで。


「幾らだ?」

「金貨四十枚でございます」


そんな祈りは虚しく、私は金貨四十枚で買われた。

もう、この人が私の新しい飼い主なんだ。




「ここだ」


首輪を引かれて連れられた先は飼い主の家だった。ここに来るまで何も言われなかったのが怖かった。きっと新しい飼い主は私に興味がない。気に入られなければ殺される。でも奴隷は物だ。意思を持つことを好まれない。だから私から話しかけることなどできない。


「入るぞ」


飼い主は私を家の中へと入れた。外に繋がれるわけではないと知って少しだけホッとした。


「風呂の入り方はわかるか?」


飼い主は私を洗おうとしているらしい。もう私の鼻は壊れて自分の匂いなどわからないけれど私は飼い主のように綺麗ではない。きっと酷い匂いだ。

わかるか?と聞かれて首を振りたくはなかった。だってきっと首を振れば面倒だと思われる。でも分からないものは分からない。小さい頃に山賊にお父さんとお母さんを殺されて売られた私は一人じゃお風呂に入れない。


少し悩んだけれど嘘をつくわけにはいかなかったので小さく首を振った。


「とりあえず服を脱げ」


きっと殴られると思ったけれど飼い主は少しため息をついただけで服を脱ぐように言った。ただ殴られないことが嬉しかった。


言われた通り服を脱ごうとしたけれど首輪と鎖が邪魔で脱げない。これ以上飼い主を苛立たせたくないのに焦れば焦るほど服が鎖に引っかかる。急がないと、急がないとと焦っていると飼い主が私の首輪を掴んだ。


「首輪も鎖も邪魔か」


殴られると硬直した私だったけれど、気がついたら首輪と鎖が外れて飼い主の手に握られていた。


「ぁ」


売られた時から一度も外れたことのなかった首輪が無くなって、呆然とした口から何ら意識のしていなかった言葉が漏れた。


「なんだ?邪魔になるだろう?………早く入れ」


飼い主はそれを気に留めることもなく呆然とする私をせっついて浴室に押し込んだ。私の後ろで飼い主が服を脱いでいる音が聞こえる。ここに押し込まれる寸前私が着ていた服が捨てられているのが見えた。飼い主はそういうのが好きだからこれから私は裸で過ごさねばならないんだ。もしかしてここでされるのだろうか。だから首輪と鎖が邪魔で外したんだ。


「そこの椅子に座れ」


怖かったけれど私は大人しく飼い主の言うことに従った。飼い主は壁にかけてあった何かを手にとってそれが繋がっている部分に手を触れた。すると飼い主が持っている物からお湯が溢れてきて、飼い主はそのお湯に触れたあと私の背中に掛けてきた。


「熱いか?」


正直に言えば熱かった。けれど耐えられない程ではなかったし正直に言うのが怖かったから首を横に振った。


「頭に掛けるから目を閉じていろ」


飼い主の言葉に従って目を閉じるとお湯が頭から掛けられた。しばらく飼い主は私の頭にお湯を掛けていたけれど、突然「髪が邪魔だな」呟いた。髪を引っ張られると思って痛みに耐えようと体に力を入れたけれど、飼い主はそんなことはしなかった。ただ何かわからない粉を私の頭に乗せて淡々と頭を洗うだけだ。


二度私の頭を洗った飼い主は次にタオルで私の背中を擦り始めた。飼い主の力は強くてしかも傷に泡が染みて痛かったけれど耐えた。そうして私を立たせたりしながら腕と足とお尻を洗った飼い主は私にタオルを渡して「前は自分で洗え」と言った。


綺麗になったらされるのだろうか。


そんな事を思い、急がねばと思うのにもたもたとしてしまった。飼い主はそんな私の様子を見ていたけれど何も言わずただ待っていた。

体を洗い終わる頃には私の覚悟も決まり、嘆かないように、叫ばないようにと繰り返し心で唱えながら飼い主に体を流してもらった。


「傷が多いな」


飼い主は汚れが落ちた私の体を見てそう呟くと浴室を出てどこかへ行ってしまった。

私の体が汚かったから興味を失ったのだろうか。そう思うと強張っていた体から力が抜けた。


飼い主が服を着て戻ってきた時その手にはタオルと服が握られていた。


「今日はそれを着ていろ。服は明日買いに行く」


そう言って服が与えられた。私の体の傷はそんなに見るに耐えなかっただろうか。でもそのおかげで服も貰えたなら良かったと思った。


「次はもう一度外に出ろ。髪を切る」


そう言う飼い主についていくと、飼い主は私の髪を手早く切ってしまった。


「まぁ、それなりに見られるようにはなったか」


髪型の希望を聞かれたが髪のことなどわからないので首を振ったら飼い主が適当に切ってくれた。


「どうだ?多少はスッキリしたか?」


そう問われても私には分からない。上目がちに飼い主の表情を窺いながら首を傾げると飼い主は溜息をついて家の中へと入り、私も家の中に入るように指示をした。



「食えないものはあるか?」


食事をくれるのだろうか。流石に腐り切ったものなど食べられないがそれ以外なら食べられる。生きるための栄養になるなら虫でも残飯でも構わない。だから首を振った。


「何をしている?早く座れ」


何の指示もなかったので飼い主が自分の食事を作っている姿を眺めていると食事を作り終わった飼い主がそう言ったので私は食事の邪魔にならないように部屋の隅に座り込んだ。

飼い主は片手でも手際よく食事を配膳していく。二人分と言うことは来客か、この家にもう一人いるのだろうか。それよりもあの食べ残しを頂けるのなら少し楽しみだ。


「床にじゃなく椅子に座れ」


そう言われて私は混乱した。この部屋には椅子が二つしかない。今飼い主が座った椅子ともう一食分食事が置かれた場所にある椅子だ。私があそこに座ったらもう一人が食事を取れなくなってしまう。

けれど立ち尽くしたままではいられないのでとりあえず椅子の後ろまで移動してみた。そうすればどの椅子に座ればいいのか指示があると思ったから。


「座れ、と言ったはずだが?」


しかし飼い主はただ座れと繰り返すばかりでどこに座ればいいのか分からない。そうして立ち尽くしていると、飼い主が立ち上がって私を無理やり食事が置いてある前の椅子に座らせた。

本当にこの椅子だったようだ。


私を座らせた飼い主は溜息をついて食事を始めた。


あぁ、そうか。こうして豪華な食事を、それを食べる姿を見せつけるつもりなんだ。……と、思ったのに、


「見ていないで食え」


食え?食えとはつまり食べろと言うことだろうか。いや、まさかそんなはずはない。だけど目の前の食事以外他に食べ物は見当たらない。本来であれば自発的に話すことは好まれないことは分かっていたけれど、それでも尋ねないわけにはいかなかった。


「これを、でしょうか?」


罰を受ける覚悟でそう口にすると、飼い主はこちらを見て「食えないのか?」と聞いた。私はますます混乱したけれどさっき食べられない物はないと首を振ったのだから嘘にはできないためまた首を振った。


もしかしてこれは私を試しているのだろうか。ここではっきり断ることで奴隷としての基礎があるのかどうかを見極めるために。


「私などに勿体無いです。私は残飯でも――」

「なぜ有りもしない残飯を出さなければならない。それはお前に食べさせていいと判断したからお前の前に出している。いいから食え」


しかし私の言葉は途中で切られ、それよりも強い言葉で再び食べるように命令された。


「………………はい」


もうどうしたらいいか分からない。でもこれ以上同じことを言わせてしまったら本当に殺されてしまうかもしれない。もう食べるしかない。食べて、食べてはいけなかったのなら罰を受けるだけ。そうだ、少しだけ口に入れよう。お肉と野菜は高価だからパンの端を齧るだけ。それならきっとひどい罰も受けない。そうしよう。


私は覚悟を決めてパンを手にとった。まだ止められない。飼い主の顔色を見ながら口に近づけていく。

まだ、まだ、まだ。もう口に触れる。でも止められない。口を開いて、パンを口に入れて、歯で触れて、噛み切って……………。


「美味いか?」


飼い主はただそう言った。



……………食べても…いいのだろうか。


「はい」


そう答えると飼い主は私から視線を離して再び自分の食事に戻った。


どういうことなのかはわからないけど、私も言われたとおりに食事に手を付けた。最初はもう一度パンを齧ってみる。さっきは緊張で味が全く分からなかったけれど、このパンは檻に入れられていた頃のご馳走だった硬いパンと違ってとても柔らかく、上に乗っているトロリとしたものが甘くてとても美味しい。他にも卵を焼いたものや野菜も美味しい。今まで食べたことのあるものの中で一番だ。臭くない。いい匂いがする。味わえる。固くない。美味しい。ただただ美味しい。食べたくて食べたくてたまらない。……………なのに。




食べきれない。


 


これまでほんの少しの量しか食べさせてもらえなかったから一度にこんな量は食べられない。このパン一つでもお腹いっぱいで食べられないのにまだ他にも二皿残っている。とても食べきれる量じゃなかった。


でも食べないと。ここで残したらきっとこれからこんなに美味しいものは食べさせてもらえない。それどころか食事さえ貰えなくなるかもしれない。奴隷の分際で残すなんてと罰を受けるかもしれない。


残せない残せない残せない。

そんな強迫観念に押されて必死でパンと他の食べ物を口に詰め込む。もうお腹が一杯で気を緩めたら吐き出しそうだし、お腹が張り裂けそうに痛い。でも絶対に食べないと駄目だ。そう言い聞かせて食べているとついに食事を終わらせた飼い主がこちらを見た。


「食いきれないか?」 

「た、食べます」


無慈悲に問いかけられる飼い主の言葉に首を振り、焦りながら口に詰め込む。


「無理をして全て食う必要はない」


そんな私に告げられる飼い主の声が私には最後通告のように聞こえた。


「だ、大丈夫です。食べます」


それでも食べないなんて選択肢はない。だから手に持ったパンを口に入れようとした。けれどその前に立ち上がった飼い主が私の手を掴んで食事を止めた。


「も、申し訳ありません。ですが、た、食べてみせますから……どうかっ」


もう少し時間があれば絶対に全て口に入れてみせる。たとえ苦しくても――


「そこまでしなくていい。元々食えないものがあるかもしれないと量を多く作っておいたんだ。夕飯も用意するからこれはもう食わなくていい」


そんな決意をしていた私は飼い主の言葉によって食事を止められた。奴隷が食事を残すなんてこんな無礼なことはない。なのに飼い主は夕飯も用意すると言った。


「……………はぃ」


もしかしたら、この飼い主は………………。




「さて、家の説明は以上だ。見て分かったと思うが俺の家は広い」


食事の後動けなくなった私に飼い主は歯磨きを教え、それから何とか歩けるまで落ち着いた私に家の案内をしてくれた。飼い主の言うように飼い主の屋敷はとても広かった。使ってない部屋が十以上あり、屋敷の裏には馬小屋まである。


「元からあまり手入れが行き届いていなかったのに左手を失って出来ることが大幅に減った。そこでお前にはこの屋敷での家事を任せたいと思っている」


飼い主があの店で言っていた身の回りのお世話とは本当に家事全般だったようだ。


「俺も暫くは家にいるからその間に仕事を覚えてくれ」

「はい」


私は家事など教えてもらったことがないため飼い主がいる間に全てを覚えなくてはならない。それができなくては私は捨てられる。またあの檻の中に戻るのだけは嫌だ。


「それではこれからだが………まずは料理をやってもらう」


料理、と言うと先程のように食事を作ればいいのだろうか。これまで一度もしたことがないが何とかやり通さなくてはならない。今回の仕事の出来で飼い主から私への評価が決まるのだ。物覚えが悪いと思われたら今日にでも捨てられるかもしれないのだから失敗はできない。


飼い主と共に厨房へと戻りながら決意を固めた。


「今日はシチューを作ってもらおうか」

「………シチュー」


シチューとはどのようなものなのだろうか。あまり難しいものでないといいのだけれど。


「作り方は俺が教える。言うとおりにやってみろ。まずは洗った野菜の皮を包丁で剥いて―――」


飼い主の支持を一言一句聞き逃さないよう努め、言われたことは忘れず集中することで一つ一つの作業を乗り越えていく。そうして一時間ほどかけてシチューを作った。


「そしたら牛乳を入れてしばらく煮詰める」


シチュー作りの最後の工程が終わり、私はほっと息をつく。大きな失敗もなくシチュー作りを終わらせることができた。これで少なくとも今日捨てられることは無いはずだ。


「まぁ、多少時間は掛かったがいい手際だな」


飼い主からの評価もよかったらしい。今まで集中していた分、緊張の糸が切れたように肩が重くなった。


「配膳を手伝ってくれ」

「はい」


けれどその安心あったせいで私は完全に油断してしまっていた。


「………あ」


本当に配膳の最後、シチューの入った深皿を置こうとした瞬間、スプーンなどを並べていた飼い主の手にあたってしまった。そして手に持っていたシチューのお皿が手から離れてゆっくりと落下していく。こんなにも時間はゆっくり流れているのに私の体はまるで動かない。

やがて皿が地面に当たって砕け散り、シチューが足元に散乱したとき私の体はようやく動き出した。


「も、申し訳ございません!!」


だけど今更動き出したところでもう遅い。お皿は割れシチューは溢れ床は汚れてしまった。もう何一つとして取り返しがつかない。私の膝から力か抜けて地面に座り込んでしまった。何を思ってかシチューに向けた手は当てもなく彷徨うばかり。狭くなっていく視界と煩いほどに主張する心臓の鼓動が頭を真っ白にしていく。


失敗した。油断した。失敗してしまった。罰を受ける。捨てられる?殺される?なんでこんな。シチューが、せっかく上手くできたのに。あと少しだったのに。なぜ油断なんて。


駄目だ。もう、無理だ。終わってしまった。もう取り返せない。いっそ何もかも諦めて殺された方が………



「気にするな」 


私は私の頭に載せられた手の感覚で正気を取り戻した。狭くなっていた視界は広がり、心臓も鼓動は早いままだけど煩くはなくなった。


「誰にでもある失敗だ。今回は俺にも非がある」


続けて飼い主は言う。誰にでもある失敗だと。俺にも非はある、と。


自然と涙が出た。けれど奴隷が涙など流していいものではないから、俯いた。何も言わず私の失敗の片付けをしてくれる飼い主に私の涙が見えないように。


「………食うか」


片付けを終わらせた飼い主は席に座ってただそう言った。スプーンを使ってシチューを頬張る飼い主を見て私もシチューに手を付ける。


「…………」


温かい。

シチューが温かい。頬が温かい。胸が温かい。


心が温かい。


もう流れる涙も拭えずに私はシチューを口に運んだ。何度も何度も暖かさだけを噛みしめるように。

頭に残るあの手の平の温度を感じながら。





一年が経ち、私は主様から一人で屋敷すべての管理を任されるようになった。


朝早くに目を覚まし、朝食の用意を始める。

今日のメニューはもうずっと前から決めていた。

昼食はシチューにしよう。そして最後の夕食は――


手早く朝食を作り終え、主様を起こしに向かう。


「御主人様、朝食の用意が整いました」


扉を開くとまだ寝ぼけている主様が見えた。


「あぁ、今行く」


主様の言葉を確認して踵を返し部屋を出る。高鳴る胸を抑えながら。


今日の夕食はニンニクとアボカドを使う料理です。ワインなどもお出ししなければ。


喜んでいただけるといいのですが。



―――――私の愛おしい御主人様に。

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割れた花瓶に花束を @himagari

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