たとえもしもが選べても

吉野奈津希(えのき)

たとえもしもが選べても

1.


 キリコが私と笑っている。私が残業を終えて帰宅して、私たちがルームシェアをしてから何年目からの記念日のお祝いを準備していてくれて、それで二人しかいないのにシャンパンを開けたりして、私たちはくだらない話をして笑いあう。


▽▽▽


 キリコが私と笑っている。私とキリコは映画を見ていて、それはチープなゾンビ映画で私がゲラゲラ笑ってキリコがクスクス笑っているんだけど、見終わった後にキリコが「私、気になったことがあるの」なんて言って再生し始めて、


「これは抑圧の話なのね……ゾンビはそれの比喩よ、そしてこの舞台の村は社会の枠組をしていて、だから外に出るといけないと軍人は言ったのよ。だから最後主人公たちは覚悟を決めることで外に出ることができる」なんて言う。


 私はそんなキリコの解釈を聞くのが好きで、私とは違う世界の見え方をしているキリコが好きだった。


「私たちも何かあったら一緒の世界の外へ行けるかしら?」


 キリコがそう言って、私は「行けるよ、絶対」と言う。

 それから私たちはくだらない話をして笑いあう。


▽▽▽


 キリコが私と笑っている。どうしようもなくちょっとしたことで喧嘩して、私が無愛想になってキリコがまくらを投げてキーキー泣いた次の日に私もキリコも謝って、それでなんとか二人でやっていこうと話す。

 それから私たちはくだらない話をして笑いあう。


▽▽▽



 キリコと私が笑っている。私は仕事を辞めて、キリコが「あんな仕事辞めちゃってよかったのよ」なんて言う。


「でも、これからどうしたらいいのかしら」

「そんなの大丈夫よ、だって生きているんですもの」

「生きてるだけで大丈夫なもんかな」

「大丈夫、絶対に大丈夫よ」 


 そう言って、キリコが仕事を辞めた開放感と不安感で泣く私を撫でる。私は笑う。

 それから私たちはくだらない話をして笑いあう。


2.


 パタン。私は冷蔵庫の扉を閉める。


3.


 冷蔵庫に入る。私は母のぬくもりを忘れる。


 胎内にいた時の記憶を覚えている人は百人に一人くらいの割合でいるらしい。だいたい親から離された記憶を何かと混同していて、それはたわいもない話と消費される。

 高校生の私は誰にも話していなかったけれど胎内の記憶があった、より正確に言うのなら感覚が残っていた。暖かで、生々しく羊水が体にまとわりつく感覚、自分が徐々に形作られて、時が進むほどに私という存在が構成される時間。無から有へと変わる時間。

 そんな感覚を強く持っていたから、私は冷蔵庫に入るようになったのだろうか? 

 未来へ進むということが、暖かで、まとわりつく生々しい羊水の中にいることで、過去へ戻るということが、冷たく、無機質な箱に入ることと同義だと私は無意識下で感じたのだろうか? 科学的、あるいは非科学観点でも説明は付かないが、ただ一つわかることがあった。


 私は冷蔵庫に入ることで過去を見ていた。

 いくつもの、私の体験したのとは違う、過去。もしもの過去。

 万華鏡のように色鮮やかな過去を私は冷蔵庫の中で見る。 

 冷蔵庫に体育座りで入ると、中の冷たく無機質な枠組みは消えて、幾つもの過去が見える。

 過去がモノクロームというのは誰にでもわかるような表現にすぎない。なにせ過去ほど変えることに魅力的なものはないからだ。仮に、過去がモノクロームに見える人がいるのならそれは、その人にとっての今が過去よりもずっと色彩に満ちていて相対的に過去がモノクロームに見えるだけなのだと私は思う。


 私は小学生の時に、そのことに気づいてからしばしば冷蔵庫に入り鮮やかな過去を見る。長くいると凍えてしまうから、本当に毎日少しずつ。日常で生きる時間に比べれば刹那の時を私は冷蔵庫の中で過ごす。


 ああ、手を伸ばせば簡単に過去に行けるのかな。

 でも、過去に戻って、何か変わるのかな。


 外に出て、呼吸する。何も美しくない、モノクロームの今の中で私はただ生きていた。

 踏み出すこと、過去に戻ることすら私は怖くて出来ない弱者だった。


 パタン。私は冷蔵庫の扉を閉める。

 私は今日も何もできなかった。


4.


 キリコと出会ったのは高校二年の春で、私は彼女のことが嫌いだな、と出会った時に直感する。

 キリコは結構なお嬢様で、友人もたくさんいてそれでいて勉強はできたし、しばしば高飛車な面を見せるけれど、そこが本人の愛嬌で何となく許せてしまう。「独特の良いキャラだよな」なんてクラスの人は言っていて、クラスが変わって数日でキリコは皆の中心人物となる。

 私はそんな持っている人間の豊かさが勘に障る。何気なく人に朝の挨拶をしてそれが返されるのを自然だと思うこと、授業中になんの気負いもなしに発言して「どうですか? さすが私だと思いません?」なんて冗談を言えること、いつまでも自分を取り巻く幸福が続いていくと信じられること。

 私とも、当然のように友達になれると思うこと。


▽▽▽


「ねえ、あなた、友達にならない?」


 放課後、たまたま忘れ物を取りに来た時に、教室で日直の日誌を一人で書いていたキリコがそう私へ言った。二人の教室に茜色が差し込んで、キリコの表情を、生命感に満ちたその様をこの世界に浮かびあげる。

 その時、私は怒りすら覚えた。

 どうして私と友達になろうと思う? 私をパズルの最後の一つのピースのように、「仲良しクラスメイト」という枠組みで括るためか? 

 私は、あなたの綺麗な思い出を構成する道具なんかじゃない。

 だから私はそれを無視して教室を出る。キリコの呼ぶ声は聞こえない振りをする。

 

5,


 私の家はろくなものじゃない。父親はカップ酒を飲んでいる。ただひたすら、現実を見ないようにするために。口から胃袋へ直接落とすように飲む。


 私が帰っても父親は何も言わない。

 私も何も言わない。


 父親は私に暴力も振るわないし、何も口出ししない。ただ酒を飲む。それは何もかも失った父親の最後に残ったひとかけらの愛情かもしれなかったが、私はそれを笑顔で受け取ろうとはしなかった。

 ただ、はるか遠くに確かに存在する死へとゆっくりと歩く日々。

 私は父親が酔いつぶれて眠った夜に、冷蔵庫に入る。

 色鮮やかな過去を見る。


 パタン。私は冷蔵庫の扉を閉める。

 モノクロームな現在の、冷たい布団で私は眠る。


6.


「見つけましたよ。私、諦めが悪いんです」


 そう言ってキリコは私が校舎裏で一人お昼を食べている時にやってくる。

 私はうんざりして無視をする。


「お弁当ですか? 私も今日作ってきたんですよ」


 そう言って、自分の弁当を見せる。私の弁当は一色の死んだ色。キリコの弁当は色鮮やか。


「あんたナルシストなの? うざいんだけど」


 私の苛立ちを少しでも味わえばいい。優しさに包まれているような表情を壊したい、そう思って私が言った言葉をキリコは平然と受け止める。


「ええ、私、自分大好きなんです」

「は?」

「私、ナルシストなんですよ、それもとびっきり」

「バッカじゃないの? 私なんかと友達となろうって言うのも自分の飾り付けってわけ?」

「いえ、私の飾り付けは私で十分間に合っているので。趣味ですね」

「趣味とかバカにしてるの?」


 私が苛立ちを含んだ声を上げた時、キリコは私の目をまっすぐ見て、言う。


「いいえ、ちっとも。私はあなたと友達になってみたいと思っただけです」

「はぁ? 私にそんな価値があるとは思えないけどね。浮いてる人間と仲良くなれる自分って?」

「まさか」


 そう言って、キリコは私の嫌味を鼻で笑う。


「私は自分に絶対の自信を持っているので。あなたに価値がないなんてあなたが言おうと私は信じませんね」

「は?」


 耳を疑う。何を言っているんだこの女は。


「あなたに価値がないなんてありえませんね。だって、私が興味を持ったんですもの。誰だって興味持つに決まってますよ」


 絶句する。理解の出来ない存在と私は出会ってしまったのだと、その時理解する。


「あ、逃げないでいてくれるんですね。じゃあお昼、一緒に食べましょう。よかったら私のおかずと交換しましょ?」


 そう言って私の返事も聞かずにひょいひょいと弁当箱に厚焼き卵とブロッコリーを入れてくる。


「わ、わけわからない」

「それ、よく言われますね。まぁゆっくりわかってください」


 キリコは笑う。

 私の弁当箱に彩りが初めてできる。


 パタン。私は冷蔵庫の扉を閉める。

 明日、キリコと交換するおかずを見つめながら。


7.


 キリコとの学校生活が始まる。キリコがどうして私にそんなに興味を持ったのか、私はキリコのことがわからないものだから、理解が出来ない。

 ただ、キリコとお昼を一緒に食べて、キリコの説く高尚なのか低俗なのかわからない持論を聞く時間は学校生活の中で、認めたくなかったが唯一安らぐ時間となっていた。


「あんた、なんで私と話そうなんて思ったの?」 

 私はことあるごとに聞く。

「そうですねえ、あの日の夕焼けに移るあなたがとても、よかったからですかね」

「ばっかじゃないの」

「いいえ、直感というやつですよ」

「やっぱりバカだ」


 でも、キリコはとても色々なことを考えていて、勉強もしっかりとしていて、全然バカではない。私には理解の出来ないことを、キリコが感じただけだ。

 だから、きっとバカなのは私なのだろう。

 キリコが私にどうして声をかけたのか。

 キリコがどうして私と友達になると決めたのか。

 私には何にもわからないままでいるほどに私は愚かなのだから。


「バカですかねえ、そんな私を私は好きですけどね」

「ほんとにバカだ」


 そう言って、私たちはくだらない話をして笑いあう。


 パタン。私は冷蔵庫の扉を閉める。

 過去を見る習慣が減っていく。


8.


 だけど、そんなささやかな日もあっさり終わる。

 しょせん私の幸福は浅はかで、しょうもなくて、情けない。

 学校から帰ると、私の家の扉の隙間にガムテープが貼られている。窓が締め切られている。扉は鍵だけでなくてチェーンまでかかっていて入れない。

 私は事態をゆっくりと把握するけど、心はついていかなくて不思議なほどに冷静に警察や病院へ連絡をする。

 そうして、部屋に充満したガスによる自殺で、父親は死んだ。

 

 キリコは私の泣いた電話を受けて病院に駆けつける。「大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫ですから」その言葉は全然大丈夫じゃない私にそれでも大丈夫になることを祈って発せられる。


 私は情緒が不安定になる。

 誰もいない家にずっといる。


 キリコはしばしば私を学校へ迎えにくる。私はキリコに申し訳なさと、苛立ちを混ぜてしまってキリコを追い返す。


「あんたと友達になったのも、うっとおしかったからだし、もういいでしょ」

「本当にそうですか?」

「うるさい! いいからでてってよ! あんたみたいな、自分が好きで、大好きで、幸福な人間に私をわかるわけないでしょ!」


 そう言って迎えに来たキリコを追い返す。

 キリコは初めて、少しだけ悲しそうな顔をする。

 そうして私は自分の家に一人になる。私は自分の無価値さどころか、救えなさを自覚する。

 価値がないのに、キリコみたいな価値のある人間を否定している。


 私は、冷蔵庫を見つめる。

 全部をやり直そうと思う。

 私は冷蔵庫へ入る。


 パタン。私は冷蔵庫の扉を閉める。

 全部をやり直すために。


9.


 私は多くの過去を見る。

 父親を救えた過去、父親と私がちゃんと話しあった過去、父親がアルコールに依存しなかった過去、父親が仕事を辞めずに済んだ過去、母親が出て行かなかった過去、母親と争わなかった過去、私たちがみんな笑顔で過ごしていた過去。全部、もしもの過去だ。

 私は過去を見て、それがいかに正しいかを痛感して、私が全て間違っていたことを再確認する。

 全部、全部間違いだった。

 私の過去の一番始め、私が生まれなかった過去。

 でも、それでも、全ての過去に共通することがわかる。その時の私は、確かにそれを感じた。

 私にとって全てのもしもの過去はモノクロームで無機質だった。

 ——あ、逃げないでいてくれるんですね。じゃあお昼、一緒に食べましょう。よかったら私のおかずと交換しましょ?


 私の彩りは、あの時確かに今にあった。


 私は探す。幾千、幾億の過去を。どうか色鮮やかな、キリコと出会ったことを無くしてでも色鮮やかな過去を探して。

 ああ、だけど。

 私はどうやってもそれを見つけられなくて。


「しっかり! しっかりしてください!」


 突然の激痛で目を冷ます。ぼやけて視界で、それでもキリコの顔が見える。悲しそうな顔も、不快な顔も滅多にしなかったキリコの泣き顔がある。


「バカじゃないですか、本当にバカなんじゃないですか。どうしてこんなことしたんですか」


 そう言って、キリコに抱きしめられて私は思う。


「あたたかい……」


 パタン。私は冷蔵庫の扉を閉める。

 そうして私の過去は閉じられた。父親を救わず、私は生きる。


10.


 そこで全てが終わったらどれだけ美しかっただろう。

 私はそれからも結局心の底から救われることはなかった。

 リストカットに服薬、首つり未遂、飛び降り未遂、わかっているのに何度も繰り返す。キリコが私をそうして助ける。

 キリコは本当に強くて、それでも私を助け続ける。「大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫ですから」なんて言い続ける。

 何も大丈夫なことなんてない。キリコを私は傷つけながら時間を溶かしていく。


 だから、こうなったのは始めから終わりまで私のせいなのだ。

 私とキリコがルームシェアをするマンションの、キッチン。

 キリコが目の前で、私に突き刺さるはずだった包丁を胸に突き立てて倒れている。


「大丈夫、ですか?」


 キリコはそれでも、うっすらと笑顔を浮かべて私に聞く。


「どうして……どうしてそんな」


 死のうとした私ともみくちゃになって、キリコに刺さる。そんな、情けなくてくだらない、喜劇。価値のない私の、どうしようもない、終わりの始まり。


「待って、おかしいよ、おかしいよキリコ、どうして、そんなの嘘だよ、こんなの嘘だよ」

「もう、たぶん無理ですねえ」


 そう話しながらキリコが血を口から垂らす。肺が傷ついているのか呼吸もまともにできていない。


 キリコを死なせない、死なせたくない! こんな私のためにキリコが死ぬなんておかしい!


「待って、待って待って、キリコ。いま、いま助ける、助けるから」

 私は冷蔵庫を開ける。中身をどんどん放り投げる。

 過去に飛ばなきゃだめだ! 私がこんなことをやらなかった過去! 私なんかと会わなかった過去に!


「キリコ、いい、いまから嘘みたいなこと本当のことを言う、やるから聞いて。冷蔵庫は過去と繋がってる。もしもの過去。だから一緒に入って、あなたが過去を選ぶ。私と会わない過去に飛ぶの。理屈はわからない。でも絶対大丈夫、大丈夫だから」


 私は「大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫だから」と繰り返す。その言葉がいままで本当に大丈夫だったことはないけれど、今度は本当に大丈夫。たとえ私が消えてしまおうとも、必ず過去をやり直してみせる。


 だって無価値な私だもの。無に還るだけだもの。


 パタン。私は冷蔵庫の扉を閉める。

 キリコを救うために。


 11.


 キリコと冷蔵庫に入ると、いままで以上に色鮮やかな世界が幾つも広がった。 

 それは私の可能性なんかとは比べものにならないキリコのもしもの過去だった。

 もしもの過去の濁流。それはとても綺麗で、全ての世界でキリコが煌めいていた。


「ほら、キリコ、キリコがデザイナーになった過去だよ、去年なってたかもしれない。あっちは医学生だよ、すごいじゃない、あっちはOL、あっちは作家、あっちはスポーツ選手、あっちはお嫁さんになってるよ、キリコ、たくさんの過去があって、無限の未来がキリコにあるんだよ、私なんかのせいで絶対死んだらダメなんだよ、選んでよ、キリコ」


 キリコは何も言わない。キリコはつまらないものを見るような目で、ただその無数のもしもの過去を見ている。


「ねえ、キリコ、お願い。あなたの選択は間違ってたんだよ。こんなに色鮮やかなもしもの過去があなたにはあるんだよ」

「————————」


 キリコが何か言う。それはコポリ、と血が溢れて私に何も聞こえない。


「キリコ! 早く選んでよ!」


 その言葉と同時に、強い力で私はその空間からはじき出される。

 冷蔵庫の扉が、開く。


12.

 私が意識を取り戻すと、私もキリコも冷蔵庫の前で倒れている。

 キリコの顔を見る。


「バカだよ……本当にバカだよ……」


 私は警察に電話をする。私は逮捕されて、キリコは死んだ人として処理される。

 私はキリコのいない日々を、罪を償いながら生きることになる。


▽▽▽


 そうして数年の時間が過ぎる。

 私は一人でそこにいる。

 独房の、誰もいない、冷たい壁を見て思う。


「冷蔵庫みたい」


 でも、何も見えたりしない。もしもの過去なんて見えたりしない。

 いや、もしかしたら私の目の前に広がっているこの壁すら、もしもの過去なのかもしれない。

 わからない、ただ、私の目の前には灰色の壁が広がっている。

 今になって、キリコが何もしなかった理由がわかる。

 きっと、キリコにとって、キリコの過去は全然、色鮮やかではなかったのだ。


 ——あなたに価値がないなんてありえませんね。だって、私が興味を持ったんですもの。誰だって興味持つに決まってますよ。


 キリコは、愚かにも、私なんかと過ごした時の価値を信じたのだ。


「ねえ、キリコ、キリコのこと全然わかんないや」


 私は部屋の窓を見る。そこには青く澄んだ空が見える。とても色鮮やかな、今の世界。


「本当、わからない。ごめんなさい。それから、ありがとう」


 あの日、キリコの最後の表情はとても綺麗な笑顔だった。〈了〉

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たとえもしもが選べても 吉野奈津希(えのき) @enokiki003

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