これは死んだあなたに贈るラブレターです

西木 草成

それは、よく晴れた八月の昼下がり

 僕が恋をした女性は、夏の青い空に長袖の白いワンピースがよく似合う人だった。


「トランペット、やってるの?」


「え? あ、はい。まぁ」


「へぇ、男の子で楽器やってるなんて珍し」


 眩しい笑顔で土手の上から見下ろす彼女は中学生の僕よりも年が上だというのは一目瞭然だった。だが、その無邪気にも思える笑顔にはどこか親しみがあって、何よりも綺麗だったのをよく覚えている。


 彼女はいつの間にか土手を降りていて、僕の真横に立っていた。湿っぽい空気に乗って、彼女の淡い石鹸のような香りが流れてきて、少し気恥ずかしくなって顔を伏せて僕はうまく顔を見ることができなかった。


「始めたばっかりなんでしょ?」


 その言葉に思わずドキリとしてしまった、彼女の言葉はまさに図星だったからである。こうやって真夏の青空の下で一人トランペットを吹いているのも、あまりにも下手くそでパート練習から追い出されて行く場所がなかったから学校を出て鬱憤を晴らすために土手でめちゃくちゃに吹いていたのだ。


「始めたばっかりですけど……何か?」


 少し喧嘩腰で、声変わりのしていない声で出せる一番低い声で睨みつけるように僕は彼女の顔を見るが、いたって彼女の表情は涼やかで。なんの悪びれた感じもなく土手に流れる川のせせらぎを聴いている様だった。


「ここいつも私散歩してるんだけどね、聞きなれない音がしたからさ。私も楽器やってて懐かしくなって来ちゃった」


「そうですか、でもすみません。自分、もう行かなきゃなんで」


 そう言って、逃げる様にトランペットからマウスピースを取り外しケースに入れる。別に戻る場所なんてあるわけでもないがとにかく逃げたかった。


 だが、彼女はそんな僕の姿を見て素っ頓狂な表情を浮かべていた。


「え? もう帰っちゃうの?」


「だって、下手くそなの聞いたってしょうがないでしょう。帰って練習しますから、散歩でもなんなりしてください。それじゃ」


 まくしたてる様に早口で、ふてくされながら土手の坂道を登ってゆく。自分自身、かっこ悪いと思っていた。だが、それ以上に下手くそと言われた様な気がして悔しかった。土手を登りきり、学校へと続く川にかかった橋を渡る。


 全員が全員、下手くそだと罵った。そんなの百も承知だ。


 自分自身、ものすごく努力をしているつもりだった。


 始めたばっかりだから仕方がない。だが、そんなものは理由にならない。いつまでも下に見られてるのは癪だ、いつか見返してやる。そんな思春期特有の自己顕示欲の吹き溜まりだった。


「ねぇ、待ってっ!」


「なんですか、帰るんですけど」


 橋の上、そんなことを考えていた僕の後を彼女は走って追いかけて来た。大きな声で呼び止められ、後ろを振り返ると汗で張り付いた長袖のワンピースを着た彼女が肩で息をしながら橋の手すりに寄りかかっていた。さほど距離も開いていないのに、肩で息をしていた彼女に普段あまり運動をしない人なのかと思った。


「ごめん、何か気に障ったことを言っちゃったみたいで」


「……別に、気にしてません」


 肩で息をしてるのか、謝って頭を下げているのかわからない彼女に謝られて思わず同じ様にうつむいてしまう。しばらく、蝉の鳴き声だけが橋の空間を支配していた。


「すごくまっすぐでいい音してたと思う」


「……え?」


 その静寂を切り裂く様に、彼女は言った。聞き間違いではなかったはずだ、もう一度聞き返そうとして、顔を上げた僕だったがすぐにバツが悪くなって顔を伏せてしまう。


「もう少しだけ、聞きたいな」


 その言葉を聞き、言われてやらされた子供の様に渋々ともう一度ケースからトランペットを取り出すとマウスピースを付け直して構える。


 橋の下に流れている川が、視界の先で擦り切れたボールペンのインクの様に細くなって消えてゆく。前々から僕が意識していること、遠くに音を飛ばすのをイメージして、自分の音が大きな一つの塊になって広がってゆく。


 深く息を吸い込んだ。吹き出した音は少し揺れながら、まっすぐに飛んであたりを包み込んでいる様だった。所々、音が途切れてたり外したりしながら、それでも悔しいから最後まで吹き続けた。そんな姿に、彼女は失敗を嘲るような様子もなく、ただ川のせせらぎを聴いていたように穏やかな表情で側に立って静かに聴いていた。


「それ、アメイジンググレースでしょ」


 ちょうど僕が一曲を吹き終えた時、静かに聴いていた彼女が口を開いた。


 好きなんだ、と。


 優しく微笑んだ彼女が、今でも忘れらない。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 それから彼女は一週間おきのタイミングでやって来た。僕はといえば、時々パート練習を抜け出して、一人で変わらず土手で下手くそな演奏をしていた。通行人の誰もが気にも留めないのに、彼女だけが物好きなのかわからないが、後ろからやって来て何言わずに勝手に座って聴いていた。


 何も言わずに、ただ座って聴いているだけ。変わらず、白い長袖のワンピースを着て真夏の暑さなど気にもとめずに涼やかな表情で聴いている。そんな姿に僕は一言も声をかけることができず、少し目が合うとにっこりと微笑んで手を振る彼女に顔を赤くしてさらにめちゃくちゃに吹きまくるのが日常になりつつあった。


 季節は変わってゆく。


 季節は流れてゆく。


 秋になって、冬になって、そして僕はあまり土手に行くことにはなくなった。冷えた環境では金管楽器は吹いても音が高くなって練習にならないからだ。それに、この時期になれば三年生の引退が控えていて演奏会の準備に勤しんでいた。


「おい、あんま調子にのるなよ」


 トランペットを分解して手入れをしていた最中だった。突然後ろから聞こえて来た悪意の声に思わず振り返る。そこには、同じパートの二年生の先輩が立っていた。


「最近顧問に認めてもらってるからって自分がうまいとか勘違いすんなよ。練習もまともに出てないくせに大会メンバーに選ばれるなんて思うなよ」


「……さーせん」


 くだらない嫉妬だと僕は思った。確かに、あの土手で練習をしていた分。音は遠くに飛ばすイメージはついたし、肺活量も増えて高い音も綺麗に出せるようになっていた。まともにパート練習に出てないくせに顧問はトランペットパートで一番音が聞こえるなんていうものだから、周りの視線が冷たくなるのは当たり前だった。


 だが、


 だが、


 だが、


「でも……それって、先輩が下手なのが悪いんじゃないんですか?」


「……あ? もう一度言えよ。お前」


「すいません、俺。練習に行くので」


「こっち向けよこのやろうっ!」


 後ろで怒鳴りつける先輩を無視し、バラバラになったトランペットのパーツを元に戻してケースにしまう。ここで殴りつけたり、胸ぐらをつかんだりすればよかったものをすでに先輩の怒鳴り声で周りにいた他の部員の視線を集めていたし、結局先輩は僕の後ろ姿を睨みつけているだけで終わった。


「やめようかな……部活」


 ふと、そんな考えが頭をよぎった。廊下を歩いていると、顧問に会った。相変わらず僕のことを褒めるし、本来なら二・三年生に進めるソロコンテストの案内までされた。こんなものに参加した暁には余計風当たりが強くなるだろう。


 僕は学校を出て、またあの土手に行こうと思った。十一月の空気は肌にピリつくように冷たくて、吐く息が白く染まるたびに改めて冬なんだと自覚した。とにかく、この溜まった鬱憤をどこかに吐き出さなきゃ気が済まない。歩む足はだんだんと早くなってゆく、けど同時に期待もしていた。


「……あ」


 いつもの場所に向かうまでの橋を歩いている時、思わず声が漏れた。


 冬の寒空の下、川縁のいつもの土手で一人の女性が裸の両手を寒そうに擦り合わせながら座っている姿が見えたのだ。


 呆然と橋の上に佇む僕に彼女は気づいていない。


 しばらくそんな姿でいると、ふと顔をあげた彼女が僕の姿に気づいて立ち上がると大きくその手を振った。変わらずに眩しい笑顔を向けながらこちらを見るものだから、なるべく目を合わさないように足早に箸を渡り土手へと下ってゆく。


「久しぶり、元気だった?」


「……まぁ、はい」


 どこか嬉しそうな声で明るく声をかけてきた彼女は夏にあったときよりも少し痩せてみえた。


「何か、あった?」


「っ……いえ、なんでもないです」


 彼女の言葉に思わず顔を背け、ケースの中からトランペットを取り出す。僕自身がそんな表情を彼女に見せたくなかったが、それ以上に覗き込んだ彼女の顔に大きな青痣があったので気まずくなった。


 ケースからトランペットを取り出すと軽く息をふかして運指をしながら楽器を温めてゆく。


「ちゃんと、楽器続けてるんだね」


「……まぁ」


「どのくらい上手くなったのかな、楽しみ」


 トランペットから少し目を離し、彼女の顔をみるが痛々しい痣の代わりに優しい笑顔が張り付いているように見えた。だが事情を聞くのは忍びないと思ったが、単に度胸がないだけだったのかもしれない。


「……スゥ」


 息を吸い込む。冷たい息を体の中に取り込んで、それをトランペットの中に流し込む。今と昔、ここに来てからもやることとイメージすることはいたって変わってはいない。


 音を遠くに飛ばす。


 どこまで澄み渡るような、透明感のある音を。


 僕の僕自身の、僕だけの音を。


 誰に何と言われようが、評価しようが、自分が自分自身が最高だと認める音。


 『アメイジンググレース』


 最初に会ったときと変わらない曲を吹いた。最初に会ったときよりも、それはより遠くに、つまずかないで、まっすぐに響くような音で。彼女が、好きだと言ってくれた音を練習し続けた結果だ。隣で聞いている彼女は何も言わない、最初に会ったときと同じように川のせせらぎを聞くように聞いていた。


 そして最後の一息をトランペットに込めて、ロングトーンまで吹き切って曲は終わった。しばらく呆然とトランペットを下ろしてぼんやりと川岸の向こう側にゆっくりと沈むオレンジ色の夕焼けを眺めていた。


「……上手に、なったね」


「……ありがとう、ございます」


 夕焼けに照らされた彼女の顔は先ほどまでの張り付いた笑顔はなく、どこか力が抜けたかのような表情をしていてその目には涙を浮かべていた。


 綺麗だ。


 彼女がなぜ涙を浮かべているのかはついぞ分からなかった。だが、これから先彼女の表情を忘れることはないだろうという予感だけはした。


 そして同時に気づいた、今この隣で綺麗に涙を流している彼女に、僕は恋をしている。


 だが、それ以降、彼女に会うことはなくなった。


 純粋に忙しくなったというのもあり、新学期に入ると新しく入って来た後輩の指導に忙しくなって前よりも自分の時間を取ることはできなくなった。しかし、それでも何度か土手に訪れては彼女がふらりとやってくるのを待ってトランペットを吹いていたが、結局彼女は一度も姿を見せず季節はさらに流れていった。


 気づけば、三年生になって中学校最後の年になっていた。でも、相変わらず僕は独りよがりで後輩の世話をしながら自分自身の練習に夢中だった。全く一年の時の変わっていない練習法と音でここまでやって来た。あの時、彼女が褒めてくれた自分の音が間違いでないと証明したかった。そしてあのときよりもさらに上手くなって、今度は涙じゃなくて笑顔にさせてあげるんだと思っていた。


『本日未明、○○市の交差点で、親子二人を乗せた軽自動車がトラックと衝突し二人共意識不明のまま病院に搬送されましたが、死亡が確認されました』


 夜、何気なく見ていた地方ニュースに彼女は写っていた。


 手に持っていたマグカップが床に落ち、中身がこぼれ出て床一面を濡らした。呆然とテレビを眺めていた数分の報道の後、暗い声色をしていたニュースキャスターは急に声色を変えSNSで流行の可愛い動物特集へと移り変わっていた。


 何かの間違いだ。


 何かの間違いだ。


 何かの間違いだ。


 すでに、ニュースの報道は聞こえていなかった。その代わりに自分の中で何かが音を立てて崩れてゆく音が聞こえた。


 何かの間違いだ。


 そう思って、堤防工事の始まったあの時の土手を次の日にトランペットを持って訪れた。あの時、二人で一緒にいたはずの土手は無機質なコンクリートの堤防に変わり始めていて、改めて彼女がいなくなったのだと思い知らされているようだった。


「なぁ、辞める前にソロコンテスト。でないか?」


「……」


 顧問と自分の間に退部届けがあった。顧問は無理に止めるようなことは一切しなかった、しかし退部届けの隣にはまるでこれを受け取る代わりにこれにサインをしろと言わんばかりに地区で行われるソロコンテストのエントリーシートが置かれていた。


「せっかくここまで上手くなったんだ。このまま辞めるのもいいが、集大成でやって見たらどうだ?」


「……やる意味がないんです。俺、聞かせたい奴がいないんで」


「せっかく親父さんに憧れてトランペット始めたんだろ。天国にいるお父さんも、お前のトランペット聞きたいと思ってるぞ? 友人だった俺が言うんだから間違いないさ」


 お前の音は、誰よりも遠くに飛ぶんだから。


 顧問のその言葉が、胸に小さな痛みを走らせた。そういえば、そんなことを誰かに言われたような気がした。ここ最近、全く練習に身が入らず途中で帰ることの多かった日々だったが、何かを忘れているような気がしたのだ。

 

 そうだ、自分の音は誰よりもまっすぐで、遠くにまで飛ばせるんだということに。


 誰に聞かせるわけでもない。自分自身のため、そして。


「……わかりました。ソロコン、出てみます」


「……わかった、曲は何にする。俺が選ぼうか?」


「いや、もう。決まってるんです」


 そして、今。自分はステージの裏にいる。


 何度も練習した曲だ、間違えるはずがないと言いながら前の演奏者の盛り上がりを聞いて半ば手が震えていた。大きな拍手の後、MCの喋りとともにステージに登壇する。


 明転。


 ステージは熱い光に照らされ同時に、目の前に広がる大きなホールの観客席に並んだ観客が一斉に大きな拍手をする。ひとしきりの拍手の後MCの紹介が入り、その間にトランペットにもう一度行きを流しこむ。


『エントリNo.9、演奏曲は「アメイジンググレース」です』


 マイクの音声が切れ、先ほどの盛り上がりは嘘のように静寂がホールを包み込んだ。トランペットを構え、遠くを見据える。


 これは、誰かに聞かせるわけでもない。


 しかし、これは、自分自身に聞かせるためなのか。否、違う。


 僕は、あの時から一歩も変わっていない。下手くそで、ただまっすぐにしか音を飛ばすことしかできない。でも、一度だけあなたが綺麗だと褒めてくれたこの音は間違いなく自分の希望だった。


 はっきり言える、僕はあなたに恋をしていました。


 あなたがいなかったら僕はここに立っていない。


 けど、あなたはどこかに行ってしまった。


 最後の最後に、自分は自分自身が伝えたいことを見つけた。


 深く息を吸い込む、言葉では伝えられないから。僕は僕のできることで。


 あの時の土手で、伝えられなかったことを。


 これは、死んだあなたに贈るラブレターです。


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