ダリア

木崎京

ダリア

 きっとダリアは、明日巨大怪物がいきなり現れて東京タワーを頭からバリバリと食べはじめたって、日本中のネズミがずらずらと列をなして海に飛びこみはじめたって、へらへらしたいつもの軽薄な笑いをうかべながら遅刻してくるんだろう。

 ただ適当につっかけてきたような履きかたで潰された上履き。巻いてるのか天然なのかわからない癖のある髪に指をつっこんで頭をかきながら、「近所の猫が産気づいててさぁ」とか間のびした調子で遅刻の理由を言うんだろう。

 そんな、だらしないだけのようにも思えるルーズさや美人なのに飾らない態度が好感を得たのか、池上いけがみ ダリアはクラスの人気者で。

 そしてあたし、海原うなばら 小菊こぎくは大変恐縮なのだが、その池上ダリアの『親友』なのだった。


   ***


「遅れましたァ」

「……見ればわかる」


 キツい匂いの整髪料で黒髪をきっちりオールバックに整えた数学教師が頬をひきつらせ、手にしたチョークを折りそうになるのをこらえつつふり返る。

 神経質なことで有名な鮫島さめじま教諭だ。

 視線のさきにいるのは毎度のことながら遅刻したダリア。彼女の姿を見て、すでに数本シワがきざまれている眉間に新たな一本が加わった。

 説教をするために開きかけた口が、ダリアの手もとに移ってとまる。


「――池上、それはなんだ」


 見ればダリアはチラシで作った紙の袋を持っていて、見間違いでなければいま、その袋がすこしだけ動いたような気がする。


「これはー……」

「また鳥のヒナでも拾ってきたのか」


 鮫島教諭が眉間のシワもそのままに言う。ダリアはヒナを拾って授業に遅れるという前科があった。そのときも彼女は平気な顔をしていて、叱る先生の方が哀れに見えたものだ。

 彼女が悪いのではない。彼女の登校する道に困った動物(人間含む)がいるのがいけないのだ。

 そう。池上ダリアは典型的なお人よしだった。


「まったく……学生の本分は勉強だぞ、池上」


 だから田舎は嫌なんだ、などとぶつぶつとつぶやく鮫島氏。

 ヒナを拾ったり、ケガをした動物を拾ってきたりするおかげで、ダリアは動物好きの生徒たちを味方につけてしまっていた。

 ヘタに処分すれば「先生たちは、ちいさな命をどう思っているんですか!? 池上さんは動物たちに優しいだけなんです!」と思わぬところから答えに困る非難が飛んでくる。

 なのに、渦中の本人はいたってマイペースで、万が一停学なんてことになったとしても「そうなんすか?」の一言ですませてしまう気がする。

 扱いかたが非常に難しい人種。

 教師側からすれば、池上ダリアは目のうえの特大のたんこぶだった。


「どうせツバメかハトだろう」


 不機嫌な教諭がツカツカと歩みよっていまだごそごそと動く袋のなかにそっと手をさしいれた。途端。


「なッ――!?」

「あ」


 鮫島氏の言葉にならない悲鳴とダリアの間の抜けた声が重なる。すこし遅れてなんともいえないアンモニア臭。

 後列では窓をあけていることもあってその匂いに気づいたものは数人だけだったが、前列に座っていた全員が鼻をつまんで机に突っ伏す。悶えているところからしてその破壊力がうかがえる。教諭の整髪料など目じゃない。

 助かった、と後列の人びとは悶え苦しむ前列の反応を見つつはじめて運任せな席決めに感謝した。小菊自身、前の地獄絵図を見て前列でなくてよかった、と存在するのかわからない席決めの神様に心の中でお礼を言った。


「コウモリの赤ちゃんです。おしっこしちゃったみたいですねえ」


 なんということもないというようにダリアは紙袋を持ちあげて言った。

 うえ、と小菊は頬をひきつらせる。どうやったらそんなものを登校途中で拾えるの、とは言うだけ無駄だ。だって、相手はダリアなのだから。

 二重三重にしてあるのかじわじわとしみができていく袋に、声をあげてから依然固まったままの教諭をダリアが仰ぎ見る。


「机汚れるんで、新しい袋作っちゃっていいですか? コンビニでいらないチラシもらってきたんで」


 学校指定のものとはあきらかに違うバッグからはみだしているのは、新聞に挟まれているスーパーなどのチラシ。放心したままそれを一瞥した教師は、予想だにしなかった第二陣にうっと息をつまらせ鼻をつまんだ。おや、とダリアが紙袋のなかをのぞきこむ。


「大きいほうもしてしまったようです」

「いますぐ捨ててらっしゃい!!」


 かすれてうわずった声をあげる鮫島教諭。

 乱れて額に落ちかかる黒髪。一瞬そのなかに数本の白髪が見えた。きらりと光ったように見えたそれが、若い彼の苦労を物語っている。

 肩を怒らせ眉を吊り上げた教諭の姿は、まるで傍若無人な小学生男子を相手にするお母さんのようだった。

 先生が手を洗うためにふらふらと教室をでていくと、ダリアがこちらを見た。目があう。

 袋を持ち上げ白い歯を見せニカッと笑ったダリアに、小菊は溜息をついた。


(あーあ……)


 これで今日の授業も中断だ。鮫島教諭が涙ながらに校長室に直談判しに行く姿が目にうかぶ。


「まったく……」


 やる気も失せて書きかけのノートの上にシャーペンを転がした小菊は、すこし離れた席の男子と目があって固まった。

 にこにこと笑っている少し猫目気味の彼は、ダリアのほうをちらりと見てまたこちらに目を戻し、ごくろうさま、というように唇だけを動かして首をかしげた。

 小菊は答えられずに机へと視線をおとす。

 両頬が、まるで太陽にずっと照らされていたかのように火照っていた。


   ***


「怒られた」

「当たり前」


 昼休みになった途端いそいそと近くの机をよせてきたダリアに、小菊はぴしゃりとそう返した。

 コウモリの赤ちゃんは然るべき手順で自然へ戻すため、生物の先生の手にひきわたされ、ダリアの手元には大量のチラシだけが残された。

 膝小僧が丸見えの短いスカートに、少し日本人離れした高い鼻と長い睫毛に縁取られた大きな目。派手な外見のダリアが、コウモリの赤ちゃんをとりあげられて心なしかしょんぼりと肩をおとしている姿はなんだかおかしい。


「ほら、いつまでも落ちこんでないでごはん食べないと。昼休みは待ってくれないんだからね」


 小菊の机のうえには小ぶりなお弁当箱。なかにはおいしそうなウインナーと卵焼きとサラダ、俵型のおにぎりが彩りよくきれいに並べられている。

 対してダリアはというと。


「……またコンビニ?」


 ダリアの鞄からつぎつぎにでてくるおにぎりやパンに小菊は眉をよせた。

 彼女はそのバランスのいい完璧なプロポーションに反比例して、食べる量がとてつもなく多い。いつも、その細い体のどこに消えていっているのか疑問な程の量を食べる。

 しかも、ごはんの選定基準が「おもしろそうなもの」なため、ダリアの鞄から定番の梅干しいりおにぎりやタマゴサンドなんてものがでてきたことは一度もなかった。

 今も、たこ焼き入りなんていうおにぎりのフィルムを、服装検査のときに真っ先にひっかかる長い爪で鼻歌まじりに剥ぎとっている。

 コンビニおにぎりやパンなどばかりでは体に悪いことだろう。だが、いくら言っても彼女は食生活を改めようとはしない。


「重箱は重いし、バリエーション少なくてさ」


 というのがダリアの言い分だった。

 中学までは三段重ねの重箱をかついで学校に行っていたと言うのだ。

 中学生が重箱をもって登校というのもあれだが、おにぎり五個にパン六個とサラダや果物、飲み物に一リットルのペットボトルにはいった水という現在を見ると、重量的にはあまりかわらない気がする。

 このあとに購買で買ってきたゼリーを食べたりするのだから、彼女の胃袋には驚くを通り越して敬服してしまう。


「いつか破裂するんじゃないの?」

「うまいもん食って死ねるなら本望だねえ」


 もしゃもしゃとイチゴチーズサンドをほおばりながら、まるでお年よりのようなことを言う。


「食いすぎで爆死とか笑えないから」

「圧死かもよ? そしたら墓石には『我が人生に悔いなし。供え物は紅北堂の豆大福希望』って彫っといて」

「ちょっと、死んでも食べる気?」


 あきれて溜息がでる。これで太らないなんて、神様は不公平だ。

 フォークでタコ型のウインナーを一突きにする。ダリアのせいで昼休みまえにはあった食欲も、半分以上食べたところで手がとまってしまっていた。

 それでも、午後の授業のためになんとか胃のなかに押しこんでおかなくてはとウインナーを口に放る。一生懸命お茶で流しこんでいると、ダリアの顔が急に至極楽しそうに緩んだ。


「いや、悔いはあったな。――アンタと浅羽あさばのこと」


 ふいうちに小菊は思わず飲んでいたお茶をふきだす。


「うわっ」


 慌ててダリアがパンやおにぎりたちを避難させる。しかし、あけたままだった焼き肉おにぎりだけが逃げおくれて犠牲になってしまった。


「だ、ダリア、なに言って……」


 なんだなんだとこちらを見るクラスメイトたちの視線にごほごほと咳きこみながら口元をすばやくハンカチで拭った小菊は、目のまえの友人を見る。

 ダリアの態度は実に飄々としていた。


「よかったなぁ、浅羽がクラスでメシ食ってなくて。いまのはとても見せられないぞ。百年の恋もさめる」


 わざとらしく芝居がかった調子で肩をすくめてみせる。すぐにわかった。からかっているのだ。


「よけいなお世話! それで、なんでアンタがそんなこと知ってるのよ!?」


 濡れたおにぎりをビニール袋のなかに処分するダリアに、小菊は声を落としながらもそう詰め寄った。


「おまえなぁ、気づかれてないつもりだったのか? あれだけ恋する乙女な目をしてアイツを見ておいて」

「うそっあたしそんな目してない!」


 そう言い返しながらも、小菊はあきらかに動揺していた。

 浅羽というのは、おなじクラスの浅羽 佑介ゆうすけのことだ。愛嬌のある笑顔と裏表のない性格が、男女問わず人気で、友達が多い。

 甘さのある顔立ちのおかげでとくに女子からの人気は高く、小菊などは席が隣にでもならないと話す機会すらないほどだ。いつでも人の輪のなかで楽しそうに笑っている彼と、読書が趣味で人見知りが激しく少人数としか話せない小菊とは対照的なタイプだった。

 偶然にも彼とは一年生のときに隣の席になり、それからずっとおなじクラスが続いている。

 忘れもしない。一年の一学期、ダリアとはまだクラスが別でなかなかなじめなかった小菊に、浅羽は優しくしてくれたのだ。

 三年生でまたおなじクラスになったとき、きっと一年生のときのことなど忘れていると思った小菊にむかって、彼は「またおなじクラスになれたね」と笑ってくれた。

 苗字があ行なのをここまで感謝したことはないと、そのとき小菊は思った。


「本当、いつか王子様がーとか言ってたあの小菊がねぇ……お姉さんはうれしいよ」


 ハンカチで涙を拭う真似をするダリアの言葉に、小菊ははずかしさに顔が熱くなる。きっと、耳まで赤くなっているはずだ。


『いつか王子様があらわれるんだもん』


 それは小学校低学年のときに小菊がダリアに言った言葉だ。あのころは本のなかの世界に強い憧れがあって、お姫様と王子様のでる物語を熱心に読みあさっていたような気がする。

 そしてちょうどそのころだっただろう。ダリアが引っ越してしまったのは。

 何も言わず、突然たった一人の親友がいなくなってしまって、ずいぶんと泣いたのを覚えている。

 それなのに、ダリアはといえば高校で再会した際に開口一番「王子様には会えた?」とのたまったのだ。

 以来、このネタで毎回からかわれているのである。


「すいませんねぇ、夢見がちで。なーんで動物への優しさをあたしにはむけてくれないかなー」


 長い溜息をついて机に突っ伏す。お弁当はすでに蓋を閉めて机のすみにやっている。もう、食べきる気になれない。


 ダリアは自分にだけ意地悪だ。小菊はいつもそう思っていた。


「なに言ってんだよ、小菊にも優しくしてるだろ?」


 笑いながらダリアがしらじらしく答える。どこがよどこが、と小菊は心のなかで舌をだした。

 それを察したのか、ダリアがいいことを思いついたというようにぽんと手をうった。なぜだかとてつもなく嫌な予感がする。


「なぁ、小菊。言えないんならアタシがかわりに告白――」

「絶対やめて」


 きつく睨みつけ、低い声で言う。ダリアならやりかねない。


「そんなことしたら、絶交だからね」


 言いながら、小菊は我ながら小学生みたいだなと思った。絶交だなんて子どもっぽい。脅しにもなんにもなっていない。

 しかし、ダリアはよっぽど絶交が嫌だったのか、まだ納得がいかないようにしながらも渋々ひきさがってくれた。そして、再び食事を再開する。

 そんな友人の様子を横目に、小菊はふと思う。

(あたしがもしダリアみたいだったら、もっと浅羽くんとも気軽に話せて、告白だって簡単にできちゃうのかな……)


   ***


「海原って池上と仲いいけど、おなじ中学だったの?」


 浅羽が小菊にそう話しかけてきたのは、五限目と六限目のあいだの休憩時間だった。

 いつものように寄ってくるダリアと何でもない話をしていた小菊は、瞬間なにがおこったのか理解できず硬直した。

 ギギギ、と音がしそうなぎこちなさで首だけでふりかえると、そこには夏の太陽よりもまぶしい笑顔があった。

 男子のあいだで「あれは卑怯だ」とくやしげに語られる老若男女に有効な必殺のスマイル。その効果は絶大で、小菊もあまりの眩しさに思わず手をかざしそうになった。


「え、あの……別に、中学は――」

「中学は別。小学校の低学年のときに一時期いっしょだったってだけ」


 つっかえつっかえどもりながら答える小菊の言を継いでダリアが言う。


「へぇ、案外短いんだ」

「友情は、すごした時間のながさじゃないのだよ」


 感心したようにうなずく浅羽に、ダリアが満面の笑みを浮かべる。あまりにもそれが得意げに見えて、小菊はつい浅羽のまえだというのも忘れていつものように肩をすくめた。


「よく言うよ。名前も覚えてなかったくせに」

「なんだよ、おまえなんかアタシの存在自体覚えてなかったじゃないか」

「覚えなくてもいいことはすぐに忘れられる優秀な頭なだけです」

「あーっ! おまえまだアタシが挨拶もなしに転校したこと根にもってんのか!? ほんっとねちっこいヤツだなぁっ」

「繊細って言ってよ! でも、ほんと転校の挨拶もなしでなにが親友なのかってねぇ。牛乳のめなくて昼休みまで残されてたくせに! だれが先生のいないうちに飲んであげたと思ってるの」

「どんだけ昔のはなしだよっ! ってかそれとこれとは関係ないだろー! おまえだってニンジン食えなくて鼻つまんで丸のみしたらのどにひっかけたことあったじゃん!」

「そ、それこそ昔のはなしでしょ! 忘れてよっ」


 怒涛のスピードでくりひろげられる言葉の応酬は、一見口喧嘩のように聞こえる。しかし、当の本人たちの様子が喧嘩とはあまりにかけはなれているためそう見えない。

 すると、ふいに声をおさえて笑う気配がした。小菊ははっとする。浅羽がいたことを思いだしたのだ。はずかしさにみるみる顔が赤くなる。


(うぅ……つい、いつもの調子で返しちゃった……)


 両手で顔を隠して机に突っ伏してしまいたい心境だったけれど、いまの状態ではそれもできない。


(穴があったら埋まりたい……)


 ダリアが聞いていたら、きっと「それをいうなら入りたいだろ」とツッコミをいれてくるところだ。

 だけど、小菊のいまの心境的には埋まりたいのほうが近かった。

 このままでは穴がなくても掘りだしそうな小菊をよそに、浅羽は「ごめん」と申し訳なさそうに笑った。


「本当、仲がいいんだなって思って」

「おう。アタシと小菊は鎖の縁だからなっ」

「それをいうなら腐れ縁でしょ。ってそれはあたしのセリフだから!」


 胸をはって間違えるダリアの言葉を訂正すると、浅羽が肩を揺らして笑った。

 楽しそうなその様子に、小菊はなんだか嬉しくなる。胸の奥から元気がわいてくるような感覚。思わず自然に口元が綻んでいた。ぎこちなさもなく、ひきつることもない。

 ダリアが冗談を言うと、小菊がツッコミをいれて浅羽が笑う。

 憧れていた相手とこんなふうに笑いあえる日がくるなんて夢にも思わなかった。

 いつもの小菊は恐縮し、話しかけられてもちいさい声で短く答えるだけなので、会話が続いたことも盛り上がったこともなかったのだ。

 沈黙のたびにひっこみ思案な自分の性格を呪っていたので、このときだけは、ダリアの物怖じしないノリのいい性格に感謝した。

 ダリアが小菊にウインクしてみせる。よかったな、というようなそのしぐさに、小菊はちいさくうなずいた。

 彼女がいればどこでもぱっと花が咲いたように明るくなる。

 ダリアはことあるごとに小菊のもとへやってくるけれど、彼女自身友達は小菊だけというわけではない。

 あまり人に話しかけることができない小菊とちがって、ダリアの交友範囲は広いのだ。


「ダリアー? 一年の子がよんでるー」

「へいへーい、そんじゃちょっと失礼」


 席をたつダリアに、小菊はすこしあわてた。二人で残されると会話に困ってしまうからだ。

 話題をふることもできずにうつむき、膝のうえでせわしなく指をもてあそぶ。

 なにか話さないといけないだろうに、なにも頭のなかにうかんでこない。

 教室の前方にある扉のほうで、弾けるような笑い声があがった。きっとダリアだ。後輩の子たちにかこまれるようにしてなにかを話しているのだろう。これもいつもの光景だった。


「本当、いつも元気だよね」

「え?」


 ふと降ってきた言葉に顔をあげ、小菊はわずかに目をみはった。

 浅羽の笑みに、さきほどとは違う優しげな色がまじっているのに気づいたからだ。

 それは、ただ明るいクラスメイトを見るという目ではなかった。

 もっと、特別な感情を抱いている瞳。

 小菊はすぐに気づいた。


(浅羽くんは、ダリアのことを――)


 ズキンと胸が痛んだ。ズキズキと痛みは強くなって、やがて心がバラバラになってしまうのではないかと思えた。

 今までぬるま湯につかっていたところに、いきなり冷や水をかぶせられたようだ。

 浅羽は自分の席へと戻っていく。

 どうしてだろう。いつもこうだ。小菊はうつむき、唇を噛みしめた。

 好きなひとは、いつでも小菊のまわりだけを見ている。その目が小菊にむけられたことはない。


『だって、女子のヤツらにつきあえって言われたからさ……』


 中学のときにつきあったひとはそう言った。

 ずっと好きで、友達の力を借りながらも精一杯告白した。OKをもらえて舞いあがった。

 なのに、一ヶ月も経たずにわかった。

 すべて、彼と小菊の両方と仲のよかった女子グループによってしくまれたことだったのだ。

 両思いだったんだとよろこんだ自分がバカのように思えて、小菊はそのあと彼を避けるようになり、結局自然消滅した。

 のちに彼は、そのグループの一人とつきあいだしたのだと聞いた。

 どんなに好きになっても、相手が好きになってくれるとはかぎらない。誰かに好きになってもらえない自分を、どうして好きになれるだろう。自信がもてるだろう。


「あたしが、もしもダリアみたいだったら……」


 誰にも聞こえないようちいさな声で、小菊はつぶやいた。


(きっと、ダリアだったらこんな風に苦しくなることもないんだろうな……)


 そう思って、小菊は溜息をついた。くだらない妄想だとわかっているのに、考えずにはいられない。

 

「なんだ、どうかしたか?」

 

 急に視界に思い浮かべた通りの顔が飛び込んでくる。後輩との話を終えたらしいダリアが怪訝そうに顔をのぞきこんでいた。小菊は思わず身をひく。ちょうど彼女のことを考えていたところだっただけに、ばつが悪い。

 まともに顔を見ることができずに、つい目を背ける。


「……別に。授業はじまるよ」


 返事をした声が思ったよりもそっけなく聞こえて、小菊は自分で驚いた。ちらりとダリアをあおぎ見ると、彼女は驚いたような戸惑ったような表情を浮かべている。

 完璧なやつあたりだ。そんなことはわかっていた。

 だけど、どうしようもないもやもやとした感情が胸のなかで渦巻いている。

 チャイムの音が鳴って、渋々というようにダリアも席に戻っていった。先生が教室に入って来る。


(放課後、ダリアにあやまろう……)


 そう思って小菊はまたひとつ溜息をついた。


          *


 小菊とダリアは、本当に昔から正反対だった。

 それは好きな食べものから好きな色、部活にもあらわれていて、小菊は文芸部、ダリアはバスケ部に所属していた。

 ダリアは、勉強はいまいちだったけれどスポーツはよくできる。

 バスケも、持ち前の高い身体能力から将来を有望視されていて、よくコーチにプロを目指せと言われているようだった。

 しかし、ダリアはこれに応えるつもりなどまったくないらしい。


『そんなことしたら小菊とあそぶ時間もなくなるじゃん』


 選手になるのをめざしているひとには、恨まれそうな言葉だ。

 だけど、そうやって口にする彼女の様子を見ながら小菊はいつも思う。


(もしかしたら、ダリアは――)


「そんなの……ダメだ!」


 部活終わりのダリアを探してさまよっていたなか、とつぜん廊下に響いた声。ダリアだ。ちょうど彼女のことを考えていただけに驚いて肩が跳ねる。聞こえたのは、きっと教室からだ。

 足早に教室の前まで来て、小菊は足をとめた。

 ダリアは誰かと話している。それが、見知った姿だと気づいて動けなくなったのだ。


「なんで?」

「なんでって……だって」


 ダリアは困惑しているようだった。あんなにいつも自信満々でためらうことのないダリアが困っている。めずらしいことだ。


「だって……アタシはそんな風に考えたことなんてないし、それに小菊が……っ」


 戸惑うダリアの口からこぼれた言葉に、血の気が引く。思わず眩暈がした。

 小菊が見たのは、浅羽とダリアの姿だったのだ。

 二人の様子は、ただならないものを感じさせる。頭のなかで、ダリアを見ていた浅羽の優しい笑顔が浮かんで消えた。

 なんとなく雰囲気でわかった。わかってしまった。浅羽はダリアに告白したのだろうと。


「小菊って……海原がどうかしたの?」


 怪訝そうな浅羽の言葉に、小菊は無意識に両手を組んで願っていた。


(もういい。言わないで)


 お願いだからこれ以上いたたまれなくしないで。

 脳裏をよぎるのは、中学の記憶。

 あんな息苦しい毎日は、もう嫌だから。


(お願い)


「小菊は、アンタが好きなんだ」


 一瞬だけ、時がとまった気がした。

 言ってしまった――。


(世界の終わりだ……)


 言わないつもりだった想いを、よりにもよって本人にばらした。

 がくがくとひざが震える。小菊はへたりこんでしまいたいのをなんとかこらえた。だけど目には自然に涙が浮かんでいく。


(消えちゃいたい……)


 できるのなら、今すぐにでもこの世界から消えてしまいたい。

 明日からどんな顔をして浅羽とおなじクラスに通えばいいのだろう。ダリアと会えばいいのだろう。

 心のなかでは、いますぐにでもでていってダリアを殴ってやりたい。

 でも、そんなことできるわけがない。

 いままでダリアに腹をたてたことなど何回もあった。

 大事にしていたメモ帳を折り紙がわりに使われたり、ビーズのアクセサリーを壊されたりした。大切な本を枕がわりに使われたこともある。

 それでも言葉だけですんでいたのは、単純に小菊の高校での友達がダリアだけだったからだ。

 ダリアのそばにいると、楽に呼吸をできる気がした。

 ダリアだけが、慣れるまで人見知りが激しく、口下手な小菊に辛抱づよくつきあってくれた。

 なんだかんだ言いながらも、小菊はそんなダリアという友達が離れていくのがこわかったのだ。

 だけど、今回だけは許せない。

 浅羽が動いたのがわかって、あわてて音をたてないように気をつけながらその場をはなれた。

 廊下の角までくると、徐々にかなしさが増してくる。

 浅羽はもうきっとまえとおなじようには接してくれないだろう。告白もしないうちに失恋するなんて。


「どうした、海原」


 声をかけられびくりと肩を震わせた。ふりかえると、そこには鮫島教諭の姿。

 そういえば、この階にある囲碁部の顧問だったな、とぼんやりと思いだしながらも、小菊は答えずただうつむいた。

 それをどうやら反抗的な態度だと受け取ったのだろう。鮫島教諭は息をつく。

「なんなんだその態度は。まったく……おまえといいクラスの連中といい、池上の悪い影響を受けているんじゃないか。もう少し、付き合う人間を選んで――」

 鮫島の言葉が途切れた。いつもは神経質に眉を寄せている顔がぎょっとした驚愕の表情に変わっていた。

 耐えようとしていたのに、こらえきれずに小菊は泣いていた。とめようとしてもあとからあとから涙がこぼれていく。


「べ、べつに私は泣くほどのことは……」


 意外にも涙に弱かったのか、わたわたとあわてる鮫島教諭。すると。


「鮫島――――ッ!」


 雷のような叫び声が遠くからちかづいてくる。嫌な予感がしたようで、鮫島氏の顔から血の気がひいた。

 小菊がふりむくと、ちょうど傍らをなにかがすごい速さで横切っていった。ふわりとその風圧で肩口までの髪がおどる。

 ダリアだった。

 彼女のきれいなとび蹴りが顔に命中し、ただ居合わせただけだった鮫島教諭が悲鳴をあげるまもなく床にたおれる。彼は不幸の星のもとに、どこまでもダリアといると災難が続く運命のようだ。

 軽く着地したダリアは仁王だちで腰に手をあてる。肩を上下させていることから、廊下を走ってきたのだろう。


「小菊になにしやがったんだこの変態! うすらハゲ! ロリコンー!」


 あらんかぎりの罵倒の言葉をならべながら胸倉をつかんでひきずりあげるダリアだが、相手はすでにのびている。


「だいじょうぶか? なに言われたんだ?」


 いつもより優しいダリアの態度に、小菊は積もり積もったものがくずれていくのを感じた。

 あんなことしておいて、どうしてそんな風に何事もなかったような顔ができるんだろう。

 今までずっとためていた感情があふれだす。思わず、手が動いていた。

 乾いた音があがる。驚いたようなダリアの顔。てのひらに、焼けるような痛み。


「ダリアは卑怯だよ……ッ」


 流れる涙もそのままに、小菊はしゃくりあげながらやっとそう言った。叩かれた右頬に手をあて、ダリアは呆然としている。


「いっつもそうだ……っダリアはひとのためだって言って自分の本当の意見を言わないんだ。いまも昔もそう!」

「小菊……?」


 聞いたこともない、弱々しいダリアの声。だけど、聞いたことがなかったのは、見たことがなかったのは、知ろうとしなかったからだ。

 ダリアは強いはずだと、小菊自身が思っていたからだ。


「あたしが浅羽君を好きだから、ダリアは浅羽君とはつきあえないの? 自分の気持ちも言わないで断るのは、あたしにも浅羽君にも失礼だよ……!」

「だけど小菊、アタシは――」

「そりゃあ告白できないあたしも悪いよ? 浅羽君がダリアを好きなんだって気づいて、正直腹がたった。なんであたしばっかりこんなめにあうんだって思った! どうせあたしはいつも誰かの引き立て役なんだって。だけど、だけどさ、ダリア」


 人の幸せを自分のせいで壊すのはいやだ。

 それが友達なら、なおさらだった。

 浅羽がダリアを好きで、もしもダリアも彼を好きなら、どんなに苦しくても応援しようと思った。

 せめて邪魔なんかする嫌な人間にはなりたくなかったから。


「あたしにだって人並みの誇りがあるんだよ、ダリア」

 なのに。

「ちゃんと自分の気持ちを考えもしないで、あたしを、告白から逃げる理由に使わないで!」


 叫ぶと、一目散に階段を駆けおりた。うしろをふりむいたりはしない。一つ下の階の女子トイレにとびこむ。誰もいないせいか変にしずかに感じた。

 一番手前の個室に入り、扉を閉める。鍵をかけた瞬間、たまらなくなって声を殺して泣きじゃくった。

 好きな人も親友もいっぺんになくした。

 ほんの数時間前にはどちらもまだ近くにあったのに。

 色とりどりだった世界が、足元からくずれさってしまったようだ。

 制服の袖が涙でびちょびちょになると、トイレットペーパーをとって涙を拭いた。なりふりなんてかまっていられない。ただ、思いきり泣きたい。胸にあるのはそれだけだ。

 こんなに泣いたのは、きっとダリアが転校したとき以来だろう。

 ふと、階段を誰かが駆けてくるのがわかった。あちこちの教室の扉を開けているのが音でわかる。


(ダリア……?)


 そう思った瞬間、緊張がはしった。見つからない場所に逃げたいけれど、そんなところ思いつかないしもうおそい。

 個室の扉を閉めているかぎり大丈夫だろうとたかをくくった次の瞬間、女子トイレの扉がバンッと派手な音をたてて開けられた。


「小菊、いるのか?」


 息をひそめようとしたけれど、ついさきほどまで泣いていたためしゃくりあげる声が漏れてしまった。


「――なんの用よ」


 誤魔化すのをあきらめ、涙で潤んだ声で小菊は短く答えた。


「絶交の約束でも果たしにきたの?」


 少しの皮肉を含んだ返事。あのときはこんなことになるとは思わなかった。ただの口約束のつもりだった。


「…………ごめん」


 素直なダリアの謝罪の言葉に、瞠目する。あの小菊だけには意地悪なダリアが、真剣にあやまるなんて。


「小菊に言われてわかったんだ。確かに、アタシは逃げてた。転校すること言えなかったのも、バスケでプロを目指そうと思えないのも、こわかったからだ。別れの挨拶をすればもうそれまでだと思ったし、一度道を決めたら挫折するのがこわかったから……。浅羽のことだって、なにかを選んでなにかを失うのがこわくて小菊を理由にした。親友とか言いながら、ひどいヤツだよな」


 ひどくおちこんだ声でダリアはだけど、と続けた。


「アタシは小菊を引き立て役だと思ったことはない。覚えてるか? 小学生のとき、アタシは嫌いな牛乳をアンタに飲んでもらった。そのおかえしにニンジン食べてやるよって言ったアタシに、小菊は頼ったりしなかったよな」


 ずっとずっと昔の話。だけど、覚えている。

 あの時の小菊は、だれかに助けてもらうまえに、自分でどうにかしようと思ったのだ。


「逆上がりができなかったときは、一人で放課後に残って練習してただろ。絶対に、ずるいことはしなかった。そういう、小菊のまっすぐなところも、頑張り屋なところも、それでいて女の子らしいところも自分にはないものばかりですごくすごく好きで、憧れてるんだ。――アタシは、小菊になりたかった」


 ほしかったものをすべて持っているひとが、自分とおなじことを言う。あなたになりたかった、と。

 涙がまたあふれだした。


「なあ小菊、でてきてくれよ」


 トントン、とダリアが扉をたたく。


「アタシは、転校したあの日からずっとずっとおまえのことを忘れた日なんてなかったんだ。そりゃ名前はあやふやだったけど……お別れの前の日におまえが言った言葉、一言一句おぼえてる」


 小菊ははっとした。


『大好きな人がとつぜんいなくなったらどうする?』


 それは転校する前日にダリアが小菊に訊ねた言葉。


『いつか王子様があらわれるんだもん』


 なぜか小菊はそんな素っ頓狂な答えを返した。

 これにはさすがにダリアも意味を理解できなかったのか首をかしげた。そんなダリアに小菊は言ったのだ。


『王子様がでたら、物語はハッピーエンドだから。王子様はみんなを幸せにしてくれるんでしょ? だったら、かなしいお別れもなくしてくれるよ』


 そのときの小菊は、王子様を魔法使いかなにかと勘違いしていた。だからこその言葉だった。


「なんてバカみたいな話だろうって思った。王子様なんているわけないじゃん。夢見がちなのもいいかげんにしろよってすこし、腹もたった。だけど、あんまりアンタが真剣に話すから……アタシもいつの間にかそれを信じたいと思うようになってた」


 鍵をはずす。扉を開けたそこにあったのは、はじめて見たダリアの泣き顔。


「アタシにとって、あのときから小菊はたったひとりの特別な友達になったんだ。だから、絶交なんてしたくない」


 まるで子どものように涙を零すダリアを見ていると、今までの怒りも悲しみもすべてがとけていくような気がして小菊は眉をさげ微笑んだ。


「絶交なんてしないよ。一発殴りたいとは思ってるけど」


 冗談めかし言う。すると、ダリアもくしゃりと顔を歪めて笑った。


「もう叩かれたと思ったんだけど」

「まだ足りないもん」


 二人は顔を見合わせ笑った。目の端にまだ涙を残しながら。どうして、いままでこんなふうに思ったことを言いあえなかったのだろう。

 相手の嫌なところや好きなところを、もっと堂々と言えなかったのだろう。

 今ならわかる。

 自分たちはまだ本当の親友ではなかったのだ。


「浅羽のこと、ちゃんと考えてみるよ」


 なにかを決意したらしいきっぱりとしたダリアの言葉に、小菊はうなずく。


「うん。あたしもちゃんと決着つけてくる。もう言わないまんまは嫌だから」


 そして二人はもう一度笑いあった。


   ***


「あのさ、池上に聞いたんだけど――」

「知ってるよ。ダリアが好きなんだよね」


 人気のない裏庭。神妙な面持ちで言いにくそうにきりだしかけた浅羽の先手をうって、小菊は言った。


「え?」


 虚を突かれたような浅羽の顔に、ニヤリと笑う。それはいままでしたことのないまるでダリアのような不敵な笑みだった。


「知ってるけど、まだあきらめない。そんなに簡単に整理がつく気持ちじゃないから。ダリアの気持ちがはっきりするまでは、好きでいさせて?」


 今までなんで言えなかったのかと思うくらい、すんなりと言葉がでた。これが、ダリアの言っていた潔さやまっすぐなところなのかもしれない。

 なんだか不思議な感じだけど、ダリアはそんな小菊を好きだと言ってくれたから。きっと自分もこんな自分を好きになっていける。そんな気がする。


「大丈夫だよ。ダリアはちゃんと考えてるから。本当にダリアが好きなら、答えが出るまで待っててあげて」


 きっと今ごろ熱をだしそうなくらい頭をかかえて考えている友を思ってそう告げる。

 恋とか好きとかわからないんだもん、と泣きそうな顔で言ったダリアを思い出して小菊はちいさく笑った。


「池上のこと……大事に思ってるんだね」


 呆けたように言う浅羽の言葉に、小菊はまっすぐに相手を見た。いまは胸をはって言える。どこか不釣り合いな気がして恐縮してしまっていた言葉。

 ふわりと微笑んで、小菊は答えた。


「親友だからね」


 それは、やっと言えた心からの言葉だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ダリア 木崎京 @fukamiaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ