Silent Park 3:45

あきらっち

第1話


 春の雲は細く長く薄くたなびいている。


 ――3:45――

 公園の中心に立つ黒く塗られた時計台。

 時計盤の二本の針は、この時刻を指し示していた。


 コンクリートの遊歩道から外れると、土の柔らかい感触をまだ新しいスニーカー越しに感じる。名前も知らない雑草が行き先を示してくれているように点々と生えている。

 新緑の季節と呼ぶのにはまだ早い。足下の雑草は「冬眠から目覚めたばかりです」と言いたげに、まるで寝ぼけ眼をこすりながら、そよ風に頼りなく揺れる。けれど、薄いピンクの桜が足早に散った今、春と言うには色彩が欠けている。季節の谷間に迷い込んだような気がする、そんな四月の下旬。

 だけど、やっぱり春なのだろう。花びらが散り柔らかい若葉が生い茂る桜の木。その木の葉の間から無数の光の筋が降り注ぐ。温かい木漏れ日を浴びてオレンジ色の毛並みをした野良猫が気持ちよさそうにあくびしている。「今、春ですよ?」と念押ししているかのように。

 僕は腰を落としてカメラを構える。そしてズーム。木漏れ日のスポットライトに照らされて、毛並みが黄金色に輝く野良猫がレンズに映る。シャッターチャンスはまだ来ない。「焦ってはいけませんよ」と、顧問の声が頭に響いた気がして、僕は心の中で頷いた。

 そして再び猫が大あくびする。今だ。僕は人差し指の指先に力を込める。カシッ……ジー。かすかな音に気がついたのか、猫はこちらを見て、次の瞬間には桜の木陰に隠れるように立ち去ってしまった。逃げ足の早さは桜も猫も同じなのかも。僕は妙に納得した。


 僕はカメラを両手で持ったまま、桜の木の後ろに回る。木の陰で見えなかったけれど人がいたようだ。浅葱色の薄手のパーカー、水色の生地が柔らかそうなジーンズ。春の装いが似合う男性。僕よりも年上みたいだ。

 先ほどの野良猫が、彼の足下でじゃれついている。その手に持つのはナズナ。ペンペン草とも呼ばれている。彼はその草で猫の鼻頭をくすぐっている。その光景があまりにも優しくて、僕は立ち止まってしまった。シャッターチャンスなのに、カメラを構えることも忘れてその景色に見とれてしまった。

 どれくらい見入っていたのだろう。恐らく一分も立っていないのだろうけれど、ずっと長くその場で立ち尽くした感覚がする。

 野良猫が「もう飽きました」と言ったような気がした。さっさと彼の側から立ち去ると、今度こそ姿を消した。一人残された彼は、ナズナを持て余したかのように揺らす。僕は彼に声をかけようとしたけれど、それは意味のないことだとすぐに思い直す。彼に向かって足を踏み出す。なんとなく雑草を踏まないように、ジグザグに歩く。ふかふかした土が気持ちよくて、飛び跳ねたい気持ちになった。

 彼はようやく僕に気がついたようだ。ナズナを僕に向かって揺らす。おいでおいでするかのように。僕は彼に誘われるように地面を蹴った。ホップ、ステップ、ジャンプ!

 彼は、少し眠たげな目をしながら柔らかい微笑みを浮かべている。僕も彼に微笑み返す。春の日溜まりが、いっそう暖かくなった気がした。僕らは言葉を交わさない。ただ、そよ風が耳元で囁いているだけ。

 おもむろに彼は、ナズナを僕の鼻頭をくすぐる。先ほど、野良猫にやっていたと同じように。うわ、くすぐった……、は、は、

「はっくしょん!」

 僕は耐えきれず、盛大なくしゃみをしてしまった。彼は、目を細めて、白い歯を覗かせる。まったく、僕は猫じゃないよ。僕は彼の手からナズナをそっと奪い取って、僕がされたように、彼の鼻先をくすぐる。

 彼は驚いたように目を見開いて、目をぎゅっと閉じる。そして、

「!」

 つむじ風のようなくしゃみをする。空気が渦を巻いて、僕の眉毛までかかる前髪を揺らすような、豪快なくしゃみだった。

 彼は、むすっとした表情に変わった。ちょっと怒らせちゃったかな。僕はくるりと振り返って、逃げるように駆けだした。彼も追ってくる。

 運動が苦手なのに、そのうえ首からカメラをかけているんじゃ、満足に走れない。あっという間に、肩をつかまれてしまった。ほんの数秒の鬼ごっこはおしまい。

 そして。

 彼は、僕のほっぺたに、かすかに触れるように、キスをする。




 なんてことない。これが彼なりの挨拶。

 耳が聞こえなくて、口もきけない。そんな彼のボディランゲージなんだ。

 最初は驚いたけれど、彼にとっては挨拶。それ以上でもそれ以下でもない。それに気づいてからは、僕も当たり前のように受け止めているんだ。海外の挨拶みたいでちょっとかっこいいし。

 けれど……。

 僕は挨拶以上の感情を彼に持ってしまっている。挨拶のようなキスでも、心臓が早鐘を打つように鼓動して息苦しくなる。本当は、僕がされたようにキスで返すべきなんだろうけれど、こんな下心がこもったキスなんてされたくないだろうし、僕もしたくない。

 だから、僕の肩をつかんでいる彼の手に、そっと手のひらを重ねた。僕の、このはしたない感情に気づかれないように。


 足下を見るとタンポポが咲いていた。

 僕は彼の手の甲を、ポンポンと指先で叩いた。

 彼は僕から身体を離した。ちょっと寂しいけれど、こんなところ誰かに見られると困るし、少しばかりホッともした。

 僕は、カメラとタンポポを交互に指さした。どうやら、僕がタンポポを撮ろうとしたことが伝わったようだ。彼はうんうんと頷いた。

 カメラを構えてファインダーを覗く。

 タンポポに近づいたり離れたり。腰を上げたり下ろしたり。なかなか「これだ!」と感じる構図にピントが合わない。

 ファインダーを覗いていない方の目で、彼をチラリを見てみた。ほんの一瞬しか見えなかったけれど、彼は穏やかに微笑んでいた。

 さんざん迷って、タンポポから一歩離れて、中腰になったときに、シャッターを切った。

 僕は彼にカメラを向けると、また彼はうんうんと頷いた。


 ほかにモチーフがないか見渡すと、時計台の時刻が目に入った。

 ――4:17――

 ハッとした。もう夢のような時間は終わりだ。

 僕は、時計を指さした。彼も納得したような顔つきになった。

 もう学校に戻らないと。四時三十分までに部室に戻る。それが顧問との約束だったから。

 この公園から学校まで歩いて十分。走れば間に合う。

 僕は彼に手を振った。彼も、手を振り返してくれた。ちょっと寂しそうに見えたのは、きっと僕の気のせいだと思う。

 だって、お互いのこと全然知らないから。彼の名前すらも。ただ、僕が彼に幻想を抱いて、幻想の彼に片思いしていているだけだから。彼にとって、僕はただの顔見知りでしかないから。

 それでも。

 僕は公園の出口に向かう途中で足を止めた。そして振り返った。

「ま た あ し た」

 彼に向かって声を出した。彼が聞こえないって分かっていても、言わずにいられなかった。これが僕の挨拶なんだから。

 彼は表情を変えず、首も手も振らず、ただじっと僕を見送った。

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