最後に

あとがきに代えて

 笠置山墳丘墓の件を、幸田も宮崎県に確認してみました。

 すると驚くべき事に、

「記録が残っていない。つまり遺跡が存在するという調査結果が得られなかったのだろう」

 だそうです。

 どういう事でしょうか!? 日高氏によると、大正期に文化財指定されていたという話なのに。……


 そもそも宮崎の関係者達は、地元の古代史の重要性を全く理解していないのでしょうか。

 それとも単に、仕事が杜撰ずさんなだけでしょうか。

 或いは政財界辺りからの圧力があって、思うように遺跡保存が出来ないのでしょうか。


 はたまた、宮崎の古代史をあからさまにしたくない人々の思惑で、県内の考古学調査や遺跡保存が巧妙に妨害されているのでしょうか。


 いずれにせよ、このままでは宮崎の古代史が明らかにされる事は、当分あり得ないと思います。

 そして宮崎の古代史が明らかにされないことには、日本の古代史が明らかにされないという事です。


 いや、別に幸田の推測が間違っていたとしても、それはそれで構わないんですよ。卑弥呼邪馬台国は、宮崎ではなかった。それ以前に神武東征も無かった。……そういう事実が判明したとしても、それはそれで結構です。

 ですがハナっから、宮崎の古代史がタブー視され封印または破壊され、それに伴い日本の古代史自体も歪曲される……という事態を強く危惧しています。


「邪馬台国は無かった。3世紀は『先史時代』で、日本における『古代』とは5世紀からだ。いや7世紀からだ。そして日本の建国は8世紀だ」

 ……などといったイカサマ歴史観を、少しでも早く排除したいのです。


「日本人は昔から技術も文化も、全て大陸や半島から授けて頂いた。ありがたや~」

「半島百済による仏教公伝のお陰で、日本は宗教を授かりモラルを得た。初めて文化的民族となった。ありがたや~」

「聖徳太子は架空の人物だ(≒大昔の日本は未開国で、独自のモラルなんぞ存在しない)」

「百済様から仏教芸術を授かり、日本でも建築技術や芸術が隆興した」

 ……などといった、学者先生方のイカサマ歴史観を粉砕したいのです。


 ちなみに宗教なんてものは、なにも国家が正式に管理しているものではありません。僧侶が経文片手に勝手にやって来て、勝手に布教するものです。そうですよね!?


 つまり、学校で教わる「仏教公伝」なんて概念は全くのデタラメ。あれは単に、百済の聖明王が苦境に立たされた挙げ句、

「日本の天皇さん助けてぇ~(泣) お礼にこれをあげるから」

 と、どこぞで手に入れた仏像と経典を送り救援を求めて来ただけ。

 それを戦後の学者先生方が、「公伝」などと大層な呼称で崇め奉っているだけです。その証拠に、記録すらろくに残っておらず、だからこそ何年の出来事なのか曖昧なのです。実際戦前には、単に「仏教伝来・・」と呼んでいました。


 また百済仏教芸術なんてモノも存在しません。あれもまた岡倉天心の無知から生じ、それを戦後の学者先生方が利用しただけです。

 半島は6世紀7世紀当時、まだまだ未開国に過ぎず、立派な仏教寺院の痕跡など存在しません。

 仏像製造なども同様です。どちらも大陸等の影響・・を受けつつ、日本独自に発達し花開いたモノなのです。


 いわんや聖徳太子不在説など、おおよそ学者の主張とは思えませんよ。

 これらは全て、日本の「古代の始期」だとか「国家の誕生」を8世紀初頭にまで引き下げたい……という、非常によこしまな思惑が働いていると感じます。


 先日ある学者先生の講演動画を視ていたら、実にバカげた事をおっしゃっていました。

「箸墓古墳は、畿内を中心とする緩い豪族連合体によって作られたのだろう」

 だそうです。強大な国家が強権を用いて強制的に労働させたのではなく、各地の豪族達の合意・・で作られた……という見方が、学会における主流だというのです。


 ちょっと待て!!

「この度、全国町内会連合の寄合で、奈良県桜井市にて大規模土木事業を行うことが決まりました~。町内の皆さんは、早速全員、現地に赴いて下さ~い」

「なお費用は全て手弁当です。現地滞在費も自腹。交通手段も一切、使ってはダメです。現地まで自分の足で、歩いて行って下さ~い」

「あっ。カネだけ出す……ってのはNGですからね~」

「そうそう、○○町の方々は1家に1つ、円筒埴輪を手作りして拠出するように。××町の方々は、3人で1つずつ円筒埴輪を担いで、現地に行って下さい。あ、勿論ダンプもトラックも使用不可ですからね~」

「それから△△町の方々は全員、川原の石ころを5キロずつ抱えて行って下さい」

「ちなみにこの事業は、任意という名目の全員参加原則・・ですよ~」

 ……と、こんなアナウンスが回覧板で回ってきたら、どうしますか!?


 そんなプロジェクト、上手くいく筈がないですよね。

 バ○○カしいですが、しかし学者先生方は正に、こんな事を言っているんですよ。強権を用いず合意のみで、広域の人々をかき集めて大規模土木工事を興すという事は。……


 可能だと思いますか?

 現実には、古墳どころか小規模の民家ひとつ建てるのさえ、困難です。

 政治の何たるかを理解している人であれば、容易に解かる話です。豪族がもし、こんなことを住民達に要求すれば、反対どころか下手すりゃ暴動が起こりますよ。

 しかも、大規模土木事業は箸墓古墳1つじゃないんです。畿内には多数の、大型古墳が存在します。皆さんもよくご存知だと思います。


 学者先生方はこの類いの、噴飯モノの解釈をでっち上げてまで、

「太古の日本に国家と呼べるようなモノは存在しなかった。卑弥呼邪馬台国の時代にしろ古墳時代にしろ、まだまだ地方豪族の小国による緩い連合体しか存在していない。勿論神武東征もファンタジーだ(ワラ」

 などと主張しているのです。

 そう主張したいからこそ、あの数々の巨大古墳は各地の豪族達の合意で作られた……などとバ○○カしい事を言っているのです。


 彼らの妄言は念頭から捨て去りましょう。

 記紀を見て下さい。例えば太古の九州は元々、筑紫、豊、肥、建の4つの国があった、と書かれています。

 小国が沢山あって次第に纏まったのではなく、まず大きめの独立国・・・が4つ存在した。そしてそれが後年、筑前筑後、豊前豊後、肥前日向大隅薩摩、肥後へと細分化……という流れを辿るのです。

 実際に記紀に書かれている事は、学者先生方の主張とは逆のプロセスを辿っているのです。


 魏志倭人伝には、倭国内にはいかにも小国が多数存在したように書かれています。学者先生方はそれのみに着目し、

「太古の日本は小国の群雄割拠状態にあった。つまり邪馬台国は、それを短期間でまとめ上げた、小国群の連合体だったのだろう」

 と主張します。彼らにはその程度の発想しかありません。ですがこれは前述の、記紀の歴史観に反します。


 というわけで、あらためて魏志倭人伝を見て下さい。

 對海(対馬)と一大(壱岐)の長官副官は、共に「卑狗」と「卑奴母離」です。

 これはつまり、両者が別々の国ではなく、同一人物が統治する1つの国だった可能性を、示唆しているわけです。

 さらに言えば、その後の国々も副官はことごとく、「卑奴母離」です。つまり「肥ノもり」……後年の「肥前守」かもしれません。


 第3章において、「異文化コミュニケーションの困難さ」について書きました。

 魏朝の人々が持つ「国の概念」と、倭人のそれは全く異なる可能性があるのです。しかし日中辞書や語学テキスト等の存在しない大昔の事です。はたして国という抽象概念・・・・を、両者がスムーズに理解し合えたのかどうか。これは非常に心許ないことだ、と幸田は想像します。


 壱岐対馬を含む広大なエリアこそが、記紀の記述通り「肥の国」だった。即ち現在の宮崎鹿児島を含む「タケ日向ヒムカ日豊ヒトヨ久士クジ比泥分ヒネワケ」――女王国母体――だった。

 しかし数キロ四方の城壁に囲まれた狭小なエリアこそが「国」である魏朝の人々には、広大な肥の国全体が1国であると認識出来なかった。見渡す限りあちこちに点在する集落群を、1国と誤解した。そして太守たる「肥ノ守卑奴母離」を副官、現地責任者を長官と思い込んだ。……そういう可能性を考慮すべきなのではないでしょうか。


 記紀を真摯に歴史文献として読めば、魏志倭人伝記述をそのように読み解く事も可能なのです。そう解釈する方が、歴史観としては素直なのです。

 そして卑弥呼邪馬台国時代の倭国が、既に堂々たる連邦国家・・だったからこそ、魏朝が対等外交の相手と認めたのです。

 逆に言えば、数十の小国による緩い連合体は、政治学的に見て「魏朝が一目置くような大国」たり得ません。数十もの小国をまとめ上げ、かつ対外的影響力を持つ程の威力を維持するためには、当然ながら強大な権威や権力が必要なのです。子供でも解かるリクツでしょう。


 学者先生方は、そこに思い至らないのでしょうか。

 いや、そう気付いていながら敢えて、

「太古の日本は小国の群雄割拠状態にあった。邪馬台国にしろヤマト王権(これもアカデミズムによるインチキ歴史観)にしろ、小国を治める豪族達による緩い連合体だった。まだまだ国家と呼べない段階でしかなかった」

 などと嘯いているのでしょうか。


 そんな人々に、魏志倭人伝の謎を解ける筈がないのです。彼らは魏志倭人伝はおろか、記紀さえもきちんと分析していません。様々な文献や伝承、史跡、それに考古学の調査結果と真摯に向き合っていないのです。

 幸田は当稿を執筆するにあたり、幾つもの書籍や調査報告書に目を通しましたが、そう認識せざるを得ない……と感じました。それこそ古事記など、300年も前の人である本居宣長の業績を、ほぼパクっているだけです。


 アカデミズムがこのような状態では、お話になりません。幸田はそこに、強い危機感を抱きます。

 卑弥呼邪馬台国の所在が未だ判明しないのは、このようにちゃんと原因があるのです。難解だから解けないのではなく、学者先生方に、真面目に文献を読んで思考する意思が無いのです。


 それこそが、シロート幸田が当稿の執筆に一念発起した理由です。

 単に魏志倭人伝の謎を解き、それを披露する事だけが目的ではありません。アカデミズムの危機的状況を多くの人々に知って頂き、日本史崩壊を食い止めたいのです。多くの方々に、問題意識を共有して頂きたいのです。

 これはまた、日本人及び日本国が戦後に失いしアイデンティティを取り戻すことにも繋がる、と考えます。


 以上、5章にわたってお付き合い頂き、ありがとうございました。

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改めて魏志倭人伝を読み解く ー 有象無象の珍説奇説を木っ端微塵に蹴散らす 幸田 蒼之助 @PeerGynt

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