生き急ぐ彼

武市真広

生き急ぐ彼



「死ぬのは怖くないんだよ、僕は」

 学校からの帰り道で彼は僕にそう告げた。何の脈絡もない唐突な言葉。それはあるいは独り言だったのかもしれない。

「人はいつか死ぬ。僕が一番恐れているのは人から忘れ去られることだよ。いつか僕という人間が生きていたことすらきれいさっぱり忘れ去られてしまう時が来る。それが怖いのだ」

 僕らは横断歩道の手前で立ち止まった。彼は続けた。

「君は死ぬのは怖いかい?」

 僕はすぐには答えなかった。少し間を置いた。

「怖い。僕は死ぬのがたまらなく怖い」

 正直に答えたつもりだ。

「死が怖い。けど生きている間常に死について意識している訳じゃない。時折ハッとして死を意識させられることがあるんだ。その時僕は死が怖くてたまらなくなる」

 彼は何も言わず、黙って僕の話を聞いていた。僕もそれ以上続けられなくなって黙った。何かが心をかき乱すように思えて彼の顔を直視できなかった。

 相変わらず蝉の鳴き声が煩い。大きな入道雲が緑色の山の向こうに見えた。強い日差しが容赦なく僕らを焼いた。体力のない僕は息を切らして何度となく額の汗を手に持っていたタオルで拭った。病弱なはずの彼は汗一つかかないで歩いていた。僕は少し心配になった。

『彼は生き急いでいるのではないか』


* * *


 彼から学校をサボろうと誘いを受けたのはそれから数日後のことである。毎日の退屈な授業に飽き飽きしていた僕はすぐに彼の誘いに乗った。

 翌日、いつものように制服を着て何食わぬ顔で母から弁当を受け取ってから家を出た。教科書やノートは家に置いて来た。いつもよりずっと軽い鞄を片手に待ち合わせ場所である駅へ向かう。


 駅に着くと既に改札前に彼は立っていた。いつもと同じ青白い顔。虚ろな眼差しを電光掲示板に向けている。初めて出会った時も彼はそんな顔をしていた。

「おはよう」

 僕がそう挨拶すると彼もおはようと返した。


 電車が来るまで僕らは駅のプラットフォームで待った。朝だというのに今日も暑い。駅まで来るのに汗をたくさん掻いてしまった。彼はやはり汗一つない。澄ました顔だ。それが不思議でならなかった。

 ふとこの間彼が言ったことを思い出す。

『死ぬのは怖くないんだよ』

 これは本心であろうかと僕は疑った。彼は決して心にもないようなことを言う男ではない。暑さのせいでそんなことを言ったのではないか。だが僕は、いつも彼に纏わりつく得体の知れない『何か』を感じている。

 僕らのすぐ近くで恋人同士と思われる男子学生と女子学生が腕を組んでいた。

 彼は僕の耳元で、

「彼らは幸せであり不幸な連中だよ」

 と囁いた。

「なぜ?」

 思わずそう聞き返すと、彼は口元を僅かに歪めた。

「自分たちが幸せだと気づていないから」

 彼の言いたい意味が分かって僕も笑った。


 僕らはああいう幸せな人間が憎かったのである。


* * *


 電車が来た。郊外へ向かう電車は、朝の時間はいつも空いていた。僕と彼は座席に座って無言のまま流れる風景を眺めた。緑の田、向こうに見える濃い緑の山、そして夏の蒼い空。これだけでも僕らは人間を憎まずに済む。人間であることを忘れられる。そう思えた。


 高校がある駅に着いた。降りていく学生たちは居残る僕らを不審そうに見ていた。僕にはそれが痛快だったが、彼は相変わらず無表情だった。

 

 一つまた一つと駅を通り過ぎる。初めて見る新鮮な風景。ある駅で乗り換えると乗客はさらに減って、車内には僕と彼だけが残った。

「来て良かっただろ」

 僕は頷いた。

「僕も君と来れて嬉しいよ」

 ハッとして彼の顔から目を逸らしてしまった。

「どこに行くつもりなんだ?」

 話題を変えようと行先を訊いた。

「僕の心の故郷だよ。遥か昔の僕らの祖先の故郷さ」

 こんな詩的な物言いも彼だから僕は許せた。

 

 初めて彼と会ったのは高校に入ってすぐのことである。一目見て彼は僕と同じだと思った。似た者同士だから感じる親近感。僕らはすぐ『友達』になった。僕には彼以外の友人はいない。彼もまた僕の他に友達はいなかった。


「また新しい詩を書いたんだ」

 彼は鞄の中からいつもの創作ノートを取り出した。

 僕らは小説や詩歌をよく書いた。書いては互いに読み合った。感想はお互いあまり言わない。大抵は読んで一言、「面白い」とか「いいね」とかその程度である。人に見せるために書いているのではない。ただ何となく書いているのだ。

「文芸部の連中に君の作品を一度見せたいね」

 僕の提案を彼は嘲った。

「あんな連中に何が分かるものか」

 僕も同意した。彼らは、いや、僕ら以外誰も僕らの世界を理解できる者なんていないのだ。


* * *


 彼の詩はいつも物悲しかった。僕らはそうやって感傷に浸ることで現実を僅かに忘れることができた。


 彼の詩を読み終わった頃、目的地の駅に着いた。そこは今ではもう忘れられた古い都だった。

 駅を出て僕らは付近になった小さな定食屋に入った。店を切り盛りしている老婆は、学生服の僕らを特に怪しむでもなく注文をきいてきた。僕らは簡単にかけ蕎麦を頼んだ。それを平らげて一杯の水を飲み干してから勘定を済ませて店を後にした。

「なかなか美味かったな」

 彼は素直に同意して頷いた。


 この古都の地理に詳しくない僕は、彼の案内のまま歩いた。平日の昼間ということもあって人は乏しい。まして学生と思える者は僕ら以外にいなかった。

「変な感じだな」

 僕が言うと彼は軽く笑いながら、

「君は平日こうやって街を歩いたことがないからそう思うのだ」

 と言った。

「君はよく来るのかい?」

「時折休むだろ。その時にな」

「……体の方は大丈夫なのか?」

「今はね。時折サボってこんなところを歩くくらいは元気さ」

 どこか無理をしているような気がした。

「君は生き急いでいるんじゃないのか?」

 彼は何も答えなかった。


* * *


 古い都。時代の流れに取り残されたように多くの遺構が今も昔の姿のまま残っている。三つほど寺院を回ってから小高い丘に登った。石碑があった。草書体で僕は読めない。代わりに彼が読んだ。有名な作家の言葉だった。

「彼もまたこの地を愛したんだね」

 彼の呟きに僕はしみじみと感動した。

 この丘から古い都が一望できた。都を囲むように三つの山が見えた。大きな入道雲が浮かんでいる。生暖かい風が吹いた。


「君は僕を忘れないでいてくれるかい?」

 不意に彼はそう言った。また脈絡のない唐突な呟き。

「当り前じゃないか」

「ならそれでいい。僕はね死ぬのは怖くないが人から忘れ去られるのが怖いんだ。でも君に覚えていて貰えるならもうそれでいいと思ってる。もう思うことはないよ」

 何か不吉なものを感じた。

「そんな縁起でもないこと言うなよ」

 彼は僕の方を振り返って寂しそうに微笑んだ。そして、それ以上は何も言わなかった。


 それから数日が経ってから、彼が死んだという報せが届いた。





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生き急ぐ彼 武市真広 @MiyazawaMahiro

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