エピローグ:ニャルラトホテプ
マハーデーヴィーは冒頭と全く同じ服装でソファに座って本を読んでいる。テーブルの上に家族写真が飾ってあるが、写っているのはマハーデーヴィー、サラ、二十代まで成長したハワードの三人である。ハワードは実の叔母であるサラによく似ている。
ハワード:(二階から)伯母さん、今月の土曜っていつが空いてる?
マハーデーヴィー:今月はまだ予定は入れてないよ。
写真に写っていた青年がラップトップを持って階段を降りてくるとサラの隣に座る。
ハワード:ネットの知り合いがボストンで個展をやるんだけど、興味あるかと思って。こういう作風なんだけどさ……
ハワードはラップトップの画面をマハーデーヴィーに見せる。展覧会のサイトのトップで、見出しには「HAL SAN’NAI」と書かれ、大きな画像で人物画が掲載されている。古代エジプト風の絢爛たる衣装を身につけた女性が椅子に座っている絵で、描かれた女性の顔は紛れもなくナイラと瓜二つである。背景は偏執的にまで細密に描き込まれた色とりどりの幾何学模様である。
マハーデーヴィー:『至日に来たるもの』……
ハワード:その女の人のシリーズが有名なんだよ。
マハーデーヴィー:何だか懐かしいような気持ちにさせられる。大昔に失くしたものをようやく見つけたような……
インターホンが鳴る。
マハーデーヴィー:はい、どなた?
マハーデーヴィーは短い廊下を通って玄関に出るとドアを開ける。七時過ぎだが六月なので外は明るい。ナイラとそっくり同じ顔と背格好、年齢の女性が立っている。ナイラと最も違うところはファッションで、化粧にもアクセサリーにも全くインド風のところはなく、長い黒髪は三つ編みにして、黒いズボンとワイシャツを着ている。
ナイラ:あの、すみません……水を一杯いただけますか?
マハーデーヴィー:もちろんよろしいですけれど。どうなさいました?
ナイラ:お財布もスマートフォンも失くしてしまって、歩いても歩いても警察署が見つからないんです。
マハーデーヴィー:お気の毒に!そんなことなら上がっていって休憩なさってください。
ナイラ:ありがとうございます。
マハーデーヴィーはナイラを連れてリビングに戻る。二人はソファに座る。
マハーデーヴィー:ハワード、何か飲み物を持ってきて。
ハワード:どうしたの、その人?
マハーデーヴィー:お金を失くしたそうだからうちで休憩してもらうのよ。
ナイラ:ナイラと申します。どうもご親切に。
マハーデーヴィー:私はマハーデーヴィー・エルウッド。こちらは妻の甥のハワード。
ハワード:はじめまして。
ナイラ:お二人とも、はじめまして……
ハワードは冷蔵庫からジュースを持ってくるとソファに座る。ナイラはグラスの中身を一気に飲み干す。
ナイラ:ありがとうございます。
マハーデーヴィー:お宅はここから遠いの?
ナイラ:車で迎えを出してもらって一時間ほどかかると思います。近くに目印になるところはありますか?
マハーデーヴィー:ご家族にはミスカトニック大学の校門がわかりやすいだろうから送って行きます。それまでは夕ご飯をご一緒しながら待ちましょう。鶏肉のカレーがお好きなら、だけれど。
ナイラ:大好物です。母がよく作ってくれました。
マハーデーヴィー:良かったわ。
ナイラ:では、電話をお借りします。
ナイラは固定電話で会話を始める。
ナイラ:……はい、赤いトートバッグです。バスに乗るまでは持っていました……ありがとうございます。……ケザイア、帰って来られなくなったから車を出して欲しいんだけど。ミスカトニック大学の正門前だから。……じゃあ八時に。
ナイラは戻ってきて座る。
ナイラ:車は九時にお願いします。
マハーデーヴィー:わかりました。大変だったわね。
ナイラ:そそっかしい性分で……
マハーデーヴィー:アーカムにはどうしていらっしゃったの?
ナイラ:インスマスへの出張の帰りです。バスかバス停で鞄を失くして、乗り換えができなくなってしまったんです。
マハーデーヴィー:インスマスにご用となると、漁業関係のお仕事?
ナイラ:直接ではないのですが、向こうのリーダーの方に届けるものがありまして。父のもとで働いているので、こういう使い走りをよくさせられるんですよ。
ドアが開く音がしてサラがリビングに入ってくる。
サラ:ただいま。
マハーデーヴィー:おかえりなさい。ナイラ、こちらは妻のサラ。
サラ:こんばんは、ナイラ。
ナイラ:こんばんは。ちょっと家に帰れなくなってしまって、迎えが来るまでお世話になります。
マハーデーヴィー:サラも帰ってきたことだし晩ご飯にしましょう。
マハーデーヴィーはキッチンに向かう。
ハワード:何してたの?
サラ:ん、読書会。
ハワード:今年のテーマはホラーだったっけ?
サラ:そう。今日は「魔女の家の夢」の最終日だった。
ナイラ:ラヴクラフトがお好きなんですか?
サラ:ええ。テーブルゲームの会社に勤めているので、仕事のためにも必要ですし。
ナイラ:私も大ファンですよ。第二の父親のように思っています。本物は私に頼りきりなので余計に、ですね。
サラ:今度、彼の小説の舞台を歩く散歩会をやるんです。新規メンバーの参加は大歓迎。
ナイラ:本当に?ぜひ参加したいです。あとで連絡先を交換しましょうか。
マハーデーヴィーは食卓に料理を並べ終える。サラとハワードは洗面所に手を洗いに行く。
マハーデーヴィー:さあ、用意できた。おもてなしには少し品数が少ないけどね。洗面所はそこの扉の向こうよ。
ナイラが洗面所から戻ってくると、四人は食卓につく。人数分の食器には数種類の南インド式のカレーと米が盛られている。ナイラは料理に感傷的な視線を向ける。全員は料理を手で食べ始める。
マハーデーヴィー:私はタミル風の料理を作るものだからお口に合うかはわからないのだけれど、あなたのお宅ではどんなものを召し上がるの?
ナイラ:こういう、ものを……
ナイラの目から涙がこぼれる。
マハーデーヴィー:どうしたの?唐辛子が多すぎる?
ナイラ:あの、私にも昔は母が二人いて、こういう料理を作ってくれたものだから、母が恋しくて。
サラ:わかるわ、私たちも親と別れた身だから。
ナイラ:父はいるんです、父は私を必要としているんです。でも私は、この私は彼女たちと暮らし続けたかった……
ハワードがティッシュを差し出す。ナイラはカレーが付いていない方の左手で涙を拭く。
ナイラ:ご心配なく、いつもはこういう人間ではありませんし、どちらかと言えば楽しく世界を飛び回っています。
マハーデーヴィー:それは良かった。何か辛いことがあれば、早く周りの人に相談するのが吉よ。
ナイラ:そうしてみることにします。これでも顔は多い……いえ、広いので。
サラ:気楽にやりなさいな。人生の大体のことはやり直せるんだから。
ナイラ:ええ、そうですね。
ナイラは笑う。真に人間的な美しさ。
ナイラ:本当に、戻って来られて良かった。
ミスカトニック大学正門前。薄暗くなってきてはいるが、学生向けの飲食店は盛況である。マハーデーヴィーの運転するBMWが停車し、ナイラが降りてくる。
マハーデーヴィー:一緒に待っていましょうか?
ナイラ:いえ、一人で大丈夫です。本当にありがとうございました。
マハーデーヴィー:アーカムに来ることがあったら遊びに来てね。サラとは連絡先を交換したみたいだし。
ナイラ:楽しみにしています。
マハーデーヴィー:じゃあね、ナイラ!
ナイラ:また会いましょう。
車は走り去る。ナイラはしばらく佇んでいるが、おもむろに爪先を地面に円を描くように動かす。そこには明らかに異常な色の空間に繋がるポータルが開くが、周囲の誰も目に止めている様子はない。ナイラはいとも何気無い仕草でそのポータルに飛び込む。ポータルの先は名状しがたい色の星々が輝く宇宙空間で重力があるようにも見えないが、不可解にもナイラは「着地」する。彼女の周囲ではどんな生き物にも似ていない何かが複数蠢いている。それらは楽器のような音を発しており、空間内には常に笛と太鼓の合奏のような音が響いている。ナイラの姿が瞬くように何度も変わり始める。漆黒の肌をした長身の男になり、触手を持つ奇妙な塊になり、コウモリのような翼と燃え上がる三つの眼を持つ闇になり、顔の無い三本足の巨大な生き物になり、その間にも笑い声を上げ始める。宇宙にあらゆる声での哄笑が響き渡る。
【エンディング】
合唱:はじめに父なるアザトース、全存在の王があり、アザトースより闇と無名の霧が生まれた。
次にアザトースは自らの大いなる使者を創造した。
これが息子なるニャルラトホテプ、這い寄る混沌である。
女声:一人の娘がいた。
二人の母と、顔も名も無い父がいた。
それは千貌の神なるが
男声:永遠の我が子よ、混沌の化身よ……
女声と男声のユニゾン:私は最も古いものの子、しかし存在したことすらなかった。
全員:永遠の我が子よ!
FIN.
至日に来たるもの アーカムのローマ人 @toga-tunica
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