尊王攘夷だって言ったじゃない

井上みなと

第1話 尊王攘夷だって言ったじゃない

 維新を信じて突き進んだ後。

 

 新政府はそれまでのことをひっくり返す、まさにどんでん返しの発表をする。


『開国和親』


 これを国の政策方針にするというのだ。


「……尊王攘夷は?」


 維新のために戦った多くの志士たちはポカンとした。


 だって、攘夷って言ったじゃない。


 夷敵である外国を打ち払うぞって。

 

 え? 大尊王攘夷?

 

『まずは国内を統一し、外国の文化を学び、国を強くしてから諸外国と戦う』?


 外国艦隊との戦いで、その強さを学んで、そうなったじゃないかって?


 知らない、そんなの知らない。


 攘夷だって言ったじゃないか。


「お前たちは早く本国に帰れ」


 攘夷どころか西洋人のような洋服を着た奴らが、俺たち志士を追い立てていく。


 でも、新しい政府の方針がどうあれ、俺たち志士はこの自分たちが作った政府に参加する権利があるはずだ。


 五箇条の御誓文で言っていた。


「広く会議を興し、万機公論に決すべし」


 広くということならば、自分たち志士も参加できるはずだ。


 実際、同じように戦った志士たちが政府の一員として新しい政府を作っている。


 ところが、それも許されなった。


「お前らなんて出稼ぎの農民と同じだ。勝手に本国を離れるな。故郷に戻れ」


 勝手に本国を離れたって何?


 尊王攘夷のために集まれって。

 

 外国と手を結ぼうとする幕府を、天皇陛下のために倒して、外国人を追い払おうって。


 それに応えて、みんな集まったのに。


 道端に建てられた『五榜の掲示』の高札を見つめ、志士たちは唖然とする。


 浮浪の者? 不埒の所業? 脱走の者?


 なんだこれは。

 俺たちは命を賭けたんだぞ。


 なのに、なんなんだ、この扱いは!!


 不安を持ったのは志士たちだけではない。


 攘夷派公家たちも不満を持っていた。


「父上、評判になってしまっていますよ。徳大寺家の当主は攘夷を捨てておらず、いまだ京都にとどまっていると」


 息子である徳大寺実則とくだいじさねつねに何と言われようと父・公純きんいとはどこ吹く風だった。


「私は攘夷のために戦ってきた。それなのに洋装をして、異国のものを食べる、似非洋風な輩が新政府に巣食う江戸に行けというのか?」

 

 そう問われると、実則も返す言葉がない。


 徳大寺公純は五摂家ごせっけである鷹司家の子供であり、五摂家に次ぐ清華家せいがけの家の当主である。


 だが、尊王攘夷活動に参加し、井伊直弼にも睨まれ、安政の大獄で逮捕されても耐えた。


 実則も三条実美たち急進的な尊王攘夷派公家が、会津薩摩などの勢力によって朝廷から排除された『八月十八日の政変』では謹慎になるなど辛酸を舐めた。


 それも、攘夷のためだったはずである。


 まだ20代の実則は新政府の変化を飲み込めたが、公純はそれを受け入れようとはしなかった。


「私は洋服も着ないし、京都も出ない。公望にも会いに来るときは洋服では来るなと厳しく言っておけ」


「……父上には申し上げにくいですが、公望は海外留学したいと言い出しています」


 実則の弟・公望は西園寺家に養子に行っていたが、2歳の時に西園寺の前当主が亡くなっていたので、実質、公純の影響下で育った。


 それにも関わらずフランス留学したいという息子をなんというか……。


 長男である実則は緊張しながら伝えたが、公純の態度はあっさりしていた。


「それは構わない。私が京都を捨てないのも、攘夷をあきらめないのも、洋装の者に会わないのもあくまで私自身の信念の問題だ。息子に強要する気はない」


 飄々とした父の様子を見て、やはり公望は父の子だなと実則は妙な感心をした。

 

 そして、それはしたたかに続いてきた公家の強さもあった。


「お前たちが東京に行こうが海外に行こうが、洋食を食べようが勝手にすると良い。代わりに私も勝手にする」

「はい」

「ただな……私のように自分は自分という公家ばかりでないことは気を付けておけ」


 公純の忠告はしばらくして『ニ卿事件』という形で現れた。


 名家である外山家の外山光輔とやまみつすけ、羽林家である愛宕家の愛宕通旭あたごみちてるが『開国親和』という新政府の方針に憤慨し、政府を作り直そうと画策したのだ。


「天皇陛下を京都に連れ戻そう!」


 愛宕の計画に家臣たちは賛同した。


 御一新の時に『皇室の藩屏』と薩長は公家を持ち上げておきながら、いざ新政府が出来ると、天皇陛下からも中央の政治からも、公家たちを追い出した。


 幕末に名の出ていた公家たちの多くが、もう中心にはいなかった。


 維新の立役者である三条実美、岩倉具視たちは政治に今も関わっているが、それもいつまでかわからない。


 三条たちだって『維新の功労者』とまつり上げられて、蚊帳の外に置かれるかもしれない。


 また、京都の町民たちも不満を持っていた。

 

 大阪を都にするという方針と、東西両方を都とするため江戸を東京とするなどいろんな話があった。

 

 気付くとなし崩しで、天皇陛下が東京に居着いてしまった。


 外山光輔は国事に参加出来ず、公家たちに協力させるだけさせておいて、攘夷も忘れて洋化していく新政府が許せなかった。


 草莽の志士たちより多少の手当があるとはいえ、公家たちも薩長に使い捨てられたという意識があった。


 外山と愛宕はお互いの計画を知ると、連絡を取り合い、協力して新政府戦うことを誓った。


 攘夷を忘れた薩長に怒りを持つ久留米や土佐の藩士、庄屋なども愛宕たちに協力した。

 

 新政府に不満を持つ長州藩士・大楽源太郎とも連絡を取り、愛宕たちの計画は進んでいった。


「東京から我らの京都に、陛下を連れ戻す!」

 

 愛宕は計画の協力者を増やすため、久邇宮朝彦親王くにのみやあさひこしんのうにも協力をお願いする。


 だが、ここで新政府に計画がバレてしまう。


 まずは外山が逮捕され、久留米は藩邸が押収されて潘知事まで幽閉される。


 愛宕も逮捕され、339名が最終的には捕まり、安政の大獄以来の大きな捕縛劇となった。


 外山光輔と愛宕通旭は公家でありながら、切腹を命じられる。


 まだ計画段階で何も起きてなかったが、新政府の判断は厳しかった。


 二条城・芙蓉之間。


 後に離宮となる場所で、外山と愛宕は腹を切らされる。


 武士ではない公家の二人がどのような気持ちで自らの腹に刃を立てたのか。

 

 それを伝える資料はない。


 だが、明治六年の政変の前に、すでに新政府への不満はあちこちで上がっていたこと。


 弱そうに見られがちな公家が、士族の大きな反乱よりも前に新政府と戦い、京都に天皇陛下を取り戻そうとしていたことを記して、筆を置く。

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