第7話 華やかな罠
「明日は宴だというのに、そのようなお顔ではいけません」
ほとんど手つかずの膳を片付けながら、女官が無表情で言った。ルシエーナは顔をしかめ、赤い目と涙の筋のついた頬をいっぺんにこすった。するとすかさず「はしたない真似はおやめください」と咎められたので、女官が背を向けた隙にこっそり舌を出す。何をしても結局は小言を言われることが分かっているので、最近は反抗的なのである。
「ルシエーナ様。聞いていらっしゃるのですか?全く、いつもぼんやりなさって。明日の宴の手取りも、ご自分がお歌いになる時も、ちゃんとわきまえていらっしゃるのやら」
お小言の後のわざとらしい溜息は、「何でこんな人が宮に住んでいるのかしら」という意味だということはルシエーナにも分かった。いつもより気が立っていたルシエーナは、思わず言い返した。
「承知してます。宴は日が天の頂へ昇ってから地の果てに沈むまで、私が歌うのは食事の間と、リリム様ご懐妊の祝辞が終わった後の奉納の時です」
女官のあっけにとられた顔に、ルシエーナは大声で笑いだしたいのを必死でこらえなければならなかった。ようやく威厳らしきものを取り戻し、憤慨で顔を真っ赤にしながら女官が荒々しく足音を立てて退出した後、ルシエーナは卓に突っ伏して涙が出るまで笑った。これでだいぶ気分がよくなった。
湯殿でいつもより念入りに顔や体を洗い、ようやく自室へ戻る頃、空には星達が静かに輝き始めていた。しんと透きとおるような美しい景色に見とれながら、ルシエーナは窓辺にもたれかかる。彼女にとって、星々はその美しさで慰めを与えてくれるだけでなく、星座によって季節を、位置によって方角を教えてくれる、導きの友のような存在だった。
(目が見えなくなるより前、母さんが毎晩教えてくれた。全部、憶えてるわ)
ルシエーナは微笑む。あの星達は自分が生まれる前から空にあり、自分が死んだ後も空にあるのだろうと思うと、不思議と心が安らいだ。地上の物がどれほど変化しても、きっと星は変わらない。無数の星々から届く無数の光が、人を励ます。
(扉よ、開け)
星の光を瞼の裏に写しとるように目を閉じ、ルシエーナは歌った。はるかな時の流れを抱きしめるように、呼びかけるように、空へと歌いかける。やがて、呼吸している空気と自分の歌との区別がつかなくなる頃、瞼の裏の光がちらちらと踊り出した。それが集結し、ぽっかりと開いた通路へ変わる。ルシエーナはもう、それを心に思い描いているのではなかった。『扉』の前に立っているのだった。
ルシエーナは軽やかに走り出し、自分に自由と安らぎを与えてくれる『扉』の向こうへ飛び込んだ。
「…ふーん。それでサリナ様は、白い鳥にあんなにご執心なのか」
フィナヴァーは乱れた髪を直し、
「それで、白い鳥が死者を蘇らせるというのは本当?」
「古い伝承ではそうなっている。私がエレノアに頼んでありったけの資料を調べたんだ」
「そう。大変だったでしょうね」
フィナヴァーが気だるく返事をすると、皇女直々に下された極秘の命令をあっさり喋った大臣はだらしなく頬を緩ませた。男には、甘さを滲ませた女言葉が劇的に効くことをフィナヴァーは知っている。膝上までの美しい曲線を見せつけるように足を組むと、男の目はそこに吸いつけられた。その絶妙の瞬間に、フィナヴァーはいっそう気だるげに、どうでもよさそうな口調で訊ねた。
「それで、白い鳥ってどうすると呼び出せるのよ」
「それは、時代によって異なる。だが、若い娘の歌に応えて現れることがあると、古い文献に書いてあったな。何でそんなことを聞く?」
男の目に不審げな色が浮かんだ。フィナヴァーはすぐに極上の笑みを作った。
「ちょっと気になっただけ。ほら、余計なこと考えてると夜が明けてしまうわよ。ボクがとっても忙しいのは知ってるでしょう?」
フィナヴァーの甘くひそやかな声は、寝室の空気を再びどろりと重たいものに変える。手に入れた情報を守るため、深海の水のような闇をかき分けて、フィナヴァーは沓を蹴り捨てながら寝台に戻った。
扉の向こうでは時の流れが違うから、好きなだけ遊ぶことができる。澄みきった川で泳ぎ、山を駆け回り、野原で踊った後、ルシエーナはようやく自分の世界へ戻ってきた。入るより出る方が難しい。目をつぶって、完璧な世界を追い出し、歌で道をもう一度作るのだけて一年分の体力を費やした気分になる。その後は扉に身を投じ、流されながら丁度いい所で飛び出せばよかった。
ルシエーナがゆっくりと目を開けると、夜明けの光が金の花の宮の部屋に差し込んできていた。丁度いい時間に戻れたみたいだ。ルシエーナは元気よく立ち上がり、鼻歌を口ずさみながら身支度を始めた。『あっち』で思う存分遊び周り羽を伸ばしたおかげで、心にも身体にも力がみなぎっている。
「今なら、いくらでも歌えそうだわ」
小さく呟き、ルシエーナは目を閉じて深く息を吸った。
第一皇女の懐妊を祝う宴は、一の宮の大広間で盛大に催された。細長い卓がいくつも置かれ、招かれた貴族達が続々と着席していく。皆きらびやかな衣装をまとい、笑いさざめいている。そのほぼ全てが男性であり、女性は皇族と侍女、そしてフィナヴァーと自分だけであることをルシエーナは見てとった。フィナヴァーは大臣に混じり、男性用の袖の狭い衣をまとっていた。金糸で縫いとりを施した夜の色の衣は、彼女の白い肌と凛とした顔立ちによく似合った。
(フィナヴァー、綺麗)
笛や琴を携え部屋の隅に控える楽士達に混じったルシエーナは、うっとりと彼女を見つめた。
宴の主役たるリリムは、帝の隣に誇らしげに腰かけていた。愛おしそうに手を置いた腹ははちきれそうに膨らんでいた。
侍女達が次々に豪勢な食事を載せた大皿を運んでくる。卓の上が華やかに彩られるにつれてあちこちから感嘆のため息が漏れる。帝が立ち上がり、金の杯を掲げて厳かに宣言した。
「神の血を引く聖なる一族に、新たな子が宿った。願わくば、健やかな美しい子が誕生するように」
全員が立ち、帝の言葉に唱和した。それから食事が始まり、大広間は笑いと話し声で溢れた。そんな中では、十人ほどの楽士が奏でる音など誰もまともに耳を傾けはしないだろう。何人かの楽士の顔には苦いものが見えたが、ルシエーナは構わず前へ出て帯に絡まった髪を払った。太陽の光が斜めにふりかかる大広間で、ルシエーナの髪は薄青い
最初の高音を竪琴と笛の音にのせた瞬間、ルシエーナは全てを忘れた。ざわめきも食卓も演奏さえも消え、光と音律のめくるめく中心を恍惚として漂う。身体を反らして腹に息をため、上から下へと音階を駆け抜ける。警告するような横笛の細い音が微かに響き、ルシエーナは息を吸いなおすと緩やかに高音と低音の中間に滑り込んでいった。歌えば歌うほど、もっと遠くへ、声を飛ばしたくなる。ルシエーナの唇が、複雑な旋律と繊細な
(私は歌。歌は、私)
ルシエーナは確信した。それは歓喜に満ちた、甘い驚きだった。いつしかルシエーナはうっとりと目を細め、微笑みを浮かべていた。焦点のぼやけた視界に、ちらちらと光る粒子が集まり始めた。
次の瞬間、ルシエーナは心底ぎょっとして声をぶれさせたので、音楽ががたがたに崩れた。背後からいくつも針のような視線が飛んでくる。ルシエーナは慌てて、単調な音楽に声を乗せなおしたが、あまりに動揺していたので全体の音律が再び揃うまではしばらくかかった。
(嘘。今のって、扉が開いた…?)
何も意識せず、ただ歌っていただけなのに、通路が視えたのは初めてだった。ルシエーナはばくばくと暴れる胸を何とか鎮めようと、何気なく大広間に目を走らせた。
音楽が崩れたことに気づいた様子の者は一人としていなかった。楽士達の存在にすら気づかず食べ続け、喋り続けている者がほとんどだ。フィナヴァーの姿はいつの間にかかき消えており、リリムは夫である七つ年上の
カヤンは、微笑んでいた。
ルシエーナの背筋を冷たいものが駆け抜けた。それは、彼女を部屋に呼びつけて散々憔悴させた時と同じ、甘く冷酷な、獲物を爪に引っかけた猫の表情だった。
無意識のうちに胸元の石を握りしめ、ルシエーナは歌いながらカヤンの視線を追った。カヤンは、向かいに座る妹サリナを見つめている。サリナは侍女から杯を受け取り、今まさに飲み干そうとしている所だった。金の杯に満たされた赤紫色の液体から一瞬幻の黒い靄が立ち昇り、蛇のようにカヤンの身体に巻きついて心臓に牙をむいた。
次の瞬間、大広間に響きわたったルシエーナの絶叫に、全ての者が動きを止めた。
「その杯、飲んじゃだめ!」
大広間は水を打ったように静まり返った。恐怖に見開かれ、琥珀色の点々を浮かべたルシエーナの目は、サリナの手元をひたと見つめていた。
「…なぜ、あなたがそうと分かるの?」
押し殺した声で沈黙を破ったのは、カヤンだった。氷のような怒りを宿したその言葉に、ルシエーナは呆然とした。そして、自分が無数の視線にさらされていることにようやく気づいた。
「…それは、えっと」
「とぼけないで。もしや、私の妹の杯に何か入れたの?今更怯えて自白したのだとしても、私は決して許さないわ」
「私は何もしてません!」
ルシエーナは叫んだ。身体がすくむ。急速に展開する事態は、彼女にとって最悪の方向へ向かおうとしていた。ルシエーナは我が身を抱きしめ、必死に訴えた。
「どうして私がサリナ様に毒を盛らなきゃいけないんですか。私じゃありません、どうか信じてください」
「毒を盛ったの?」
リリムの声が高く跳ね、その瞬間ルシエーナは嵌められたことを悟った。その時までまだ誰も、『毒』だとは指摘していなかったのだ。
(犯人に仕立て上げられたんだ…)
氷のように冷たくなった頬を、涙が伝う。カヤンが手を振ると、すぐさま兵士達がルシエーナを取り囲んだ。
「さあ、来るんだ」
「いやっ!」
ルシエーナは子供のように悲鳴を上げた。助けをもとめ、全身全霊をこめて祈った。
(お願い、誰か、誰でもいいから私を助けて…!)
扉を開くのよ。
心の奥底から声がした。
扉を開いて。扉の向こうに助けを求めて。
「あなたは毒が入っていると言ったわね。なら、あなたがそれを証明してみせて」
カヤンが近づいてきて、サリナの手から取り上げた杯を押しつけた。サリナは呆然と座ったままで、彼女には珍しく事態を把握しきれていないようだった。何百という視線が注がれる中、ルシエーナは杯を受け取り、カヤンの目を真っ向から見返した。落ち着きを取り戻した目は、澄んだ金色に輝き、その清らかな光はカヤンをすらわずかにたじろがせた。ルシエーナは、よく響く声で言った。
「私が毒を入れたと言ったのは、ただそう分かったからです。サリナ様のことは心から尊敬しています。私は、誰の死を望んだことも、まして実行に移したこともない。これまでも、これからも。私がこれを飲むのは、カヤン様に命じられたからではなく、そのことを証明するためです」
王宮という場所にそぐわないほど真っ直ぐで率直な言葉に、何人かの貴族は思わず顔を赤らめた。そこには、揺るぎない真実がみなぎっていた。
ルシエーナは目を閉じ、開いた唇に杯をあてがった。同時に、ようやく気を取り戻したサリナが弾かれたように立ち上がり、叫んだ。
「飲んではいけません、ルシエーナ!」
――扉よ、開け!
どろりとした液体が喉を焼いて体内へ落ちていくのを感じながら、ルシエーナは叫んだ。先程の歌に応えて造られかけていた通路を、まっしぐらに何かが飛んでくる。それが、ルシエーナがまともに感じられた最後だった。
内臓をねじり上げられるような激痛に襲われ、ルシエーナは撃たれたようにその場にくずおれた。同時にどこからともなく白く輝く鳥が大広間に現れ、痙攣する少女目がけて矢のように迫る。人間より大きな鳥の美しさと眩しさに、あちこちで悲鳴が上がる。リリムが気を失って夫の腕に倒れ込み、カヤンは生まれて初めて驚愕に凍りつき、サリナは立ちすくんだままガタガタと震えていた。
ルシエーナが、ゆらりと顔を上げる。蒼白な顔の中から、金色の炎と化したひとみが鳥を見据える。その喉から、この世のいかなる生き物もいまだかつて耳にしたことのないような歌声が噴き上がり、宮を貫く。
白い鳥が、ルシエーナの身体を突き抜けた。彼女を包み込んだ翼が白い光の固まりとなって爆発し、全ては白銀の波に飲み込まれた。
「大広間から誰も出てはなりません。すぐに医師を呼びなさい!」
ようやく辺りが見えるようになった時、白い鳥は影も形も消えていた。悲鳴と泣き叫ぶ声で溢れ大騒ぎとなっている大広間に、サリナの震える声が響きわたった。彼女が最初にしたのは、帝の方に向き、深々と頭を下げることだった。
「お騒がせして申し訳ありません、父上。私の不注意です。ここは危険ですから、何とぞ部屋にお戻りを」
「危険に近いのはそなたの方ではないのか」
帝の声は冷ややかだった。その眼差しは、命を狙われたばかりの我が子に対するものではなく、失敗した臣下を非難するそれだった。サリナは唇を噛んで涙をとどめ、歩み去る父の背を見送った。
自分を庇って倒れた少女に駆け寄りたくて仕方なかったのに、サリナはその場で衛兵や大臣達に幾つかの指示を与えなければならなかった。ようやくそれらを済ませて振り向くと、ぐったりしている少女をフィナヴァーが抱えていた。鳥と一緒に消え失せてしまったわけではなかったらしい。
「フィナヴァー、来てくれたのね」
安堵をあらわにサリナが呼びかけながら駆け寄り、跪くと、フィナヴァーは青ざめた顔をわずかに動かした。その手はルシエーナの口をこじ開け、喉の奥に指を突っ込んで毒酒を吐かせている所だった。
「その子、助かるの?」
「助けます。馬鹿げた陰謀なんかで死なせたりしない」
力強い返事に、少しほっとする。大広間から出られない貴族達が、遠巻きに三人を見物している。憐れみ、怯え、怒りとその表情は様々だったが、圧倒的に多いのは好奇だった。ルシエーナの星色の髪、鳥を受けとめたその身をじろじろと見回している。彼女が死にかけていることにはあまり興味はないらしい。
ルシエーナが激しくえずき、粘っこい液体を吐き出した。その色からは、血なのか毒なのかは判別できなかった。だが、ルシエーナの呼吸が弱弱しくも安定し、その顔から深い影がとれた所を見ると、彼女の身体に良くないものが取り除かれたことは明らかだった。フィナヴァーは安堵のため息をつき、ルシエーナを守るように優しく抱きしめた。
人混みをかき分けて医師達が到着した。フィナヴァーは長衣を脱ぎ、それでルシエーナを包み込む。手伝うふりをしながら、サリナは低い声でフィナヴァーに囁いた。
「新たな任務を与えます。宮に残っている『影』を総動員して、カヤンお姉さまを見張りなさい。少しでも不審な点を見つけたらすぐ私に報告するように」
フィナヴァーの美しい
「あんな小芝居が私に見抜けないと思って?」
そして彼女は立ち上がり、その場を去った。
星守りの唄 野原 杏 @annenohara
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