第6話 図書館の主《ぬし》

 王宮の内部にいる限り、ルシエーナにはかなりの広い範囲を自由に動き回ることが許された。金の花の宮は独特の造りをしており、皇族の住まう奥の宮をめしべとおしべのように抱き五つの宮が花びらのように開いている。ルシエーナは第三の宮に自室を与えられ、午前中はやせぎすの女官により礼儀作法を片端から叩き込まれなければならなかった。この女官は恐ろしくいかめしい上に、ルシエーナがちょっとでも反抗するとすぐ彼女の手を固い木の枝でぶつので、ルシエーナは彼女が大嫌いだった。話し方も服の選び方も食事の仕方も、全てが細かく決められた。午後は大抵自由に過ごすことができ、礼儀さえ守っていれば何をしていてもよかったが、王宮の外へ出ることはできなかった。ルシエーナがちょっとでも門に近づくや否や兵士の誰かが立ちふさがり、無表情でこう言うのだった。

「あなたさまをお通しすることは禁じられております」

 一度だけルシエーナは地団太を踏んで猛烈に泣きわめいたが、次の日両手がはれ上がって何も持てなくなるほど枝でぶたれた。結局のところルシエーナは囚人だった。自由は自分の意思で、隅っこにこそこそ創り出してやるしかなかった。

 王宮の食事は豪華でたっぷり用意されていたが、ルシエーナはなぜか食欲を全くそそられず、広い宮もひと月かけてほとんど探検し終えてしまった。実際の所、王宮の図書室の室長をつとめるノアがいなかったら、ルシエーナはとうに気が狂っていたかもしれないのだった。

「まったく、あんたが歌姫じゃなかったら、うちで雇いたいわ」

 第五の宮で最も広い面積を占める図書室で、写本の山を片付けながら、エレノアララント・ココは楽しそうに笑った。あまりに名前が長いので、誰もが彼女の名前の好きな部分を抜き出して呼んでいた。エリイだのラランだのラントだの、それは様々だったが、ルシエーナは彼女をノアと呼んだ。色とりどりの音節を結び合わせたような彼女の名の中で、そこが一番好きな響きだった。

「私もノアのお手伝いになりたい。それに歌姫っていっても、歌わされたのは王宮に来た日だけだし…」

 図書目録に筆で印をつけながら、ルシエーナはため息をつく。ノアといる時だけ、ルシエーナは素直な本音が言えた。分厚い黒縁の眼鏡をかけ、栗色の真っ直ぐな髪を背中で一つに束ねたノアはにっこりして、ルシエーナの頭を撫でた。

「ルシエーナが来てくれて、本当に助かるわ。私一人でこの本全部を管理できるわけないんだから。兵士を一握り、図書室にまわしてほしいわよ」

 歯に衣着せぬ物言いに、ルシエーナは思わず噴き出してしまった。うんざりするほど長く平坦な一日も、埃っぽい広い部屋で本を整理したり表紙を付け替えたり目録に書き込みをしていると、ぐっと楽しくなった。二十代半ばのノアはルシエーナを可愛がり、進んで仕事のやり方を教えてくれた。ノアに出会うまで、ルシエーナは文字さえろくに読めなかったのだ。今では、彼女が選んでくれる簡単なお話の本を自室に持ち帰るまでになっている。王宮でただ一人栗色の髪を持ち、華やかな顔立ちとひどい近眼を巨大な眼鏡で隠し、ずば抜けた記憶力で大臣からも一目置かれているノアといると、ルシエーナは楽に息がつけるのだった。


 王宮に連れてこられてから五十日ほど経ったある日、ルシエーナは顔を涙で汚して図書室に現れた。机に向かって古い写本を解読していたノアは、彼女を奥の部屋に連れて行き、ひどくしゃくりあげる少女が何とか喋れるようになるまで、黙って背中をさすってやった。そこは、破損した本を一時的に避難させるための小部屋だった。ルシエーナは真っ赤になった目をこすりながら話した。

「今日は勉強の代わりに、カヤン様のお部屋に呼ばれたの。それで、歌を歌ってほししいって…何度も何度も…」

『歌いなさい』

 繻子とビロードを張った長椅子に寝そべり、カヤンは命じた。一曲終わると次を、またその次を歌わされる。水さえ与えられず、とうとう喉が嗄れて声が出なくなるまで、ルシエーナは十曲以上をぶっ続けで歌わされた。そうして、もう声が出ませんと訴えると、カヤンは鼠を爪にひっかけた猫のような目でにこやかに言った。

『私もあなたの醜いしゃがれ声に我慢ならなくなっていたところです。その程度の歌で王宮に居候しようというなら、考え直した方がよいですよ』

「そりゃまた陳腐な嫌がらせだこと」

 ノアは不愉快なことがあった時の癖で、ぎゅっと唇をすぼめた。ルシエーナは洟をすすり、ノアが渡してくれた温かい甘いお茶を飲む。

「私だって、来たくて来たわけじゃないもん。帰れるものならすぐにでも谷に帰りたいのに、どうして嫌がらせなんかされるの?」

「女の嫉妬ね」

 ノアは断言して、自分の分のお茶をひと息に飲み干した。天窓から差し込む西日が、茶色く変色した大量の古紙を優しい金色に染めていた。

「第二皇女カヤンはね、皇族で一番の美人だから男には評判がいいけど、性格も一番悪いの。高慢で嫉妬深くて計算高くて、おまけに意地悪。あんたが来るまでは彼女が王宮で一番美しい声の持ち主だったから、悔しくてたまらないのよ」

「…そんなに悪い人?」

「そんなに悪い人」

 ルシエーナは目をぱちくりさせた。

「王宮って、大変な所なのね」

「そうよ。皇族はいがみあってるわ。三人の皇女はお互いを全く信用していないし、リグ皇子は身体が弱いの。次の金の花の祭りで帝が正式にリグ皇子を帝位継承者に指名するまで、三人の皇女をそれぞれ支持する大臣達のいがみあいも続くでしょうね」

 あなたも覚悟しておきなさい、と言ってノアは片目をつぶった。ルシエーナの眉がへにゃりと下がった。

「仲が悪いのね。家族なのに。誰も幸せじゃないみたい」

「ルシエーナがいた場所とは、だいぶ違うんでしょうね」

 ノアははっとして呟いた。ルシエーナは大きな目を窓の外へ向けた。

「<霧の谷>は、土地が痩せてたし、山も川も険しい所だったからね。夏は涼しいけど、冬は髪が凍りそうに寒いの。家族どころか、村ぐるみで助け合わないと、生き延びることはできないわ」

「そう…」

 あまりにも王宮にはそぐわない、この不可思議な少女を、ノアはそっと見やったが、それ以上突っ込んだことは尋ねなかった。ルシエーナには、その細やかな気遣いが嬉しかった。生まれ故郷を想い出すと、胸が痛んだ。

 黄昏の金色の光が弱まり、藍色のとばりがひそやかに降りてくる。ノアは立って灯火を点け、ごちゃごちゃに散らかった筆や紙をかき集めながら話題をかえた。

「そうそう、あんたは官僚のフィナヴァー・テルが気になってるみたいだけど、あの人にはあまり関わらない方がいいわよ」

 ぼんやりと髪をいじっていたルシエーナが、びくりと身じろぎした。

「…どうして?」

「危ないもの。噂じゃ、あちこちの大臣に使われてる、何重もの密偵らしいわよ。いわゆる男装の麗人だから、皆面白がって噂を流してるんだと思うけどね」

 いかにも司書らしい言い回しを使ってから、ノアは「それにいつもつんとしてていけすかない」とボソリと付け足す。どうも彼女とは根本的に相性がよくないらしい。

「…密偵」

「噂よ、ただの噂」

 からりと笑って、そろそろ帰りなさいとノアは言った。


 香ばしい詰め物をした鶏肉やら色々な香草で旨味を引き出した煮物やら目にも鮮やかな彩りの果物の盛り合わせやらは、もうほとんどルシエーナの食欲を刺激しなくなっていた。山で不思議な夢を見てからというものの、ルシエーナは空腹というものを感じたことがなかった。毎日、水だけは飲んでいた。

 それでも、後ろで見張っている女官を満足させるためだけに少しずつ口に押し込み、湯殿で身体と髪をざぶざぶ洗い、ようやくルシエーナは寝台にもぐりこむことができた。白鳥の羽毛が詰め込まれた真っ白な寝台は、雲のようにふかふかだ。いい匂いのする布団を鼻の上まで引っ張り上げて身体をぐんと伸ばす。そうして初めて、ルシエーナは心からくつろいだ幸福な気持ちになるのだった。

(ああ、気持ちがいいなあ。ここで眠る時だけ、王宮に来てよかったって思える…)

 うっとりとそんなことを考えながら、ルシエーナは心地よい眠りに落ちていった。


 強烈にくっきりした夢を見たのは、その日の夜だった。言葉、声、色彩が混沌と漂う世界の空を、大きな鳥が飛んでいた。ルシエーナは、高い崖の先端に立ち、それを見つめている。真っ白い翼がぐんと空気を切るたびに新しい風が生まれ、ルシエーナの衣の裾と長い髪を巻き上げた。じっと目をこらし、耳を澄ませているうちに、鳥が創り出しているある調律が視えてきた。その中で、無数の小さな風が生まれ、大きな流れを編み上げ、空中をくぐり抜け、どこかへ道を通そうとしている。いつしかルシエーナは、その風の歌に、自らの歌声を重ねていた。調律が太く、しなやかに、遠くへ伸びていく。空気が割れ、裂け目ができる。

 裂け目。割れ目。道。

 『扉』。


 鋭い叫び声を上げて、ルシエーナは目を覚ました。夢で受けた衝撃のまま飛び起き、激しく息をつく。びっしょりかいた汗が気持ち悪かったが、心は高揚していた。

(今のは…夢…?それとも…)

 片時も離さず首から下げている石を握りしめ、ルシエーナは目を閉じる。感じる。闇がざわめき、心だけが聴きとれる微かな囁きを風が運んでくる。この世界は、見かけ通りの場所ではない。

(夢じゃない。私は、向こう側の世界に行ってきたんだわ。そして、この世界はあの世界と、重なっている)

 喜びに心が浮き立つ。とうとうルシエーナは、扉を開ける方法を見つけたのだ。『扉』の向こうは、霧と森と谷と風と――ルシエーナが焦がれる自由に満ちていた。

 ルシエーナは寝台から降り、窓に近寄る。決して開かない窓の向こうに、整然と刈り込まれた庭園、巨人の兵士のごとくそびえ立つ白亜の柱、そしてその向こうに白んでいく空が見える。夜明けが近い。灰色の空に少しずつ差し込む光は、窓辺に立つルシエーナの波打つ髪を空と同じ色に淡く染めた。きらきらと踊る彼女の瞳は、それまでにない力強い色を宿していた。





 執務室で一心に筆を走らせていたサリナは、微かに流れてくる歌声に、ふと耳を澄ませた。少女の澄んだ明るい声だ。

「あれは…ルシエーナかしら」

「なかなかいい声じゃないか」

 本棚から勝手に本を抜き出してぱらぱらめくっていたリュウが、返事をする。何気ない用事をこしらえてはサリナが何度もリュウを呼びつけるうち、二人の距離は徐々に縮まり、今では二人きりの時は幼馴染のように気安く話をするようになっていた。リュウといると、サリナは己を縛る鎖の存在を忘れられた。彼女が切望する自由の切れ端を、リュウは惜しみなく彼女に分け与えてくれたのだった。

(それだけじゃない…何だろう、この甘い気持ちは。息が、苦しい)

 リュウが近づいてきて、サリナの髪を優しく撫でる。心地よさに、サリナは目を閉じる。

「ルシエーナが次の宴で歌を披露するって噂は本当なのか?」

「本当よ。あの子が王宮のあちこちで歌の練習をするものだから、自分も聴いてみたいって人が増えたの。それに、公の場で歌わせる機会を一度でも作っておけば皆を納得させられるし」

 サリナは口を滑らせたことに気づき、言葉をとぎらせた。幸いリュウは気づかなかったようで、笑いながらサリナの簪をつついて遊んでいた。

「楽しみだ。それに…サリナの晴れ姿を見たいな」

 サリナのうなじに血がのぼる。けれど言葉は出てこず、彼女はただその穏やかな時間を噛みしめていた。




 ある一点に狙いを定めて、声を放つ。けれどそこはあまりに遠く、結果的にその音階は波紋のような広がりを残しながら旅をしていくことになるのだ。

 漠然とそんな想像をしながら、ルシエーナは腹にぐっと力を入れて顔をあおのかせ、今度は思いのままに声を響かせた。高くくっきりとした、飛んで行く矢のようなその歌声は、花瓶に挿してあった花の花弁をわずかに震わせ、やがて空に吸い込まれて消えていった。それが最後の音階だった。ルシエーナは小さく息を弾ませながら壁に寄りかかり、恍惚と耳を澄ませていた。

「今日は一段とよく響いてるわねえ。いい声だわ」

 本の山を抱えてくるくると動き回っているノアが、半分開いた扉から顔を覗かせて笑った。ルシエーナは照れくさそうに笑い返した。

「悪いわね、ノア。資料室を占領しちゃって」

「どうせ誰も来ないんだもん、構わないわよ。綺麗な歌のおかげで仕事もはかどるしね。とうとう宴に出られることが決まったんでしょ?」

「そうなの」

 ルシエーナは嬉しさに光る顔で頷き、傍らの小卓の水差しから水をついでごくごく飲んだ。正確に言えば、嬉しいのは宴に出られるからではなく、ノアがそれを我がことのように喜んでくれるからなのだった。

「資料室の鍵、渡しておくから好きな時に使っていいわよ」

「ありがとう、ノア!」

 ルシエーナは目を輝かせて重たい鍵を受け取り、大切に懐にしまった。五の宮の高台の張り出しに位置する資料室は、広大な庭の手入れされていない一角に面しており、思いきり声を張り上げてもほとんど人に聞こえる心配はなかった。

 ノアは抱えていた本を下ろし、ルシエーナと並んで窓の外を何気なく見やる。と、その目に冷ややかな光が浮かんだ。

「ルシエーナ。御覧なさい」

 彼女らしくない平淡な声音に戸惑い、ルシエーナは言われた通りにノアの視線の先に自分も目を走らせた。

太い樫の木の幹に溶け込むように、二人の人間が立っていた。一人はルシエーナが何度か見かけたことのある、財務大臣だ。髪に白いものが混じる中年の男が詰め寄るようにしているもう一人の人物は、フィナヴァーだった。光と影がまだらに踊る木の下で、彼女は一層美しく見えた。ルシエーナが初めて見る女性用の衣をまとい、組んだ白い腕をむきだしにしている。遠目にも、フィナヴァーの紅を引いた口元にひどく艶めいた甘い笑みが浮かんでいるのが見てとれた。その笑みの意味が分からないほど、ルシエーナは無知な子供ではなかった。

 ルシエーナの心が、たちまち重く沈んだ。

 ほっそりと白い足首をちらちらと揺らしながら、フィナヴァーは何か言ったようだった。男の顔がだらしなく緩む。影をほとんど重ねるようにして、二人は三の宮の方へ歩いて行った。

「刺激が強かったわね。中に入りましょう」

 ノアがそっとルシエーナの肩を抱いた。ルシエーナは俯いて首を振った。一人になりたかった。ノアは小さく息をつき、資料室を出て行った。

 誰もいなくなった、古い紙と埃だらけの部屋で、ルシエーナは何度も深呼吸をして気持ちを落ち着かせようとつとめた。胸元の石を握りしめ、震える声で呟く。

「フィナヴァーは、悪い人じゃない」

 口に出した途端、涙がぽろりと零れた。乱暴に袖で拭いても後から後から出てくる。ルシエーナは乱暴に目をこすりながら、自分に言い聞かせるように呟き続けた。

「フィナヴァーは、私を助けてくれた。優しくお話してくれて、私の髪を綺麗だって言ってくれた…優しい、いい人だもん…」

 茨の向こうから差し伸べられた優しい手、軽やかな声は、ルシエーナにとって闇に差し込んだ一筋の光だった。目が見えなかったからこそ、ルシエーナはフィナヴァーの内面を好きになり、美しいと思った。助けを求める少女を導いてくれた、柔らかくあたたかな手の温もりと、包み込むように甘く穏やかな声が、ルシエーナにとってのフィナヴァーだった。

 けれどそれは、ルシエーナの勘違いで、この宮では全てが幻とされてしまうものだったのだろうか。

 頬に涙を伝わらせ、ルシエーナは思いつめた顔でいつまでも虚空を見つめていた。

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