第5話 金の花の宮
馬は飛ぶように駆け、山脈を突っ切り、北の荒野を渡っていった。最初は俯いたまま泣いてばかりいたルシエーナも、何日か経つと辺りの景色をもの珍しそうに眺めるようになった。
(山の外に出たのは初めて。見たことのない花や鳥がたくさん)
ふわふわたなびく光雲のような髪を一つに束ね、馬のたてがみにしがみつきながら、ルシエーナは好奇心をむきだしに周囲を見回す。大きな目は涙のたまっている時は焦げ茶色にけぶり、機嫌よく景色を見つめる時は透きとおった琥珀色に輝いた。
無理やり故郷からひき離した人間を連行していくにしては、フィナヴァーもセネルも、ルシエーナを自由にさせていた。ルシエーナの容姿は人というより精霊に近い特異なものだったが、その心はまだ完全に子供であり、わずかな休憩をとる時もほうっておけばその辺で蝶を追いかけたり花の香りをかいで一人遊びをしていたからだ。ルシエーナは人間とは決して言葉を交わそうとしなかったが、自然を心から愛していた。倒れた大木も、地面のぬかるみも、曇天から落ちる雨粒さえも、彼女の心を潤す糧になった。ひと時も同じ顔をしていない荒野の景色を、彼女は黙りこくったままいつまでも追っていた。
「おかしな子供だな。いいのか、縄でくくりつけておかなくて」
ぽつぽつと人の住む集落が見えてくる頃、男の一人がフィナヴァーに冗談交じりに言った。彼らが捕虜を連行するのはこれが最初ではなかったが、捕虜をここまで放置するのは初めてであった。その時ルシエーナは、小川に手を浸し、その上できらきらと光が踊るのを無心に眺めていた。
「いいんだ。どうせ王宮に入れば、どれ一つとしてできなくなる。それくらいの情けをかけてやっても罰にはならないだろう」
フィナヴァーは低い声で答えた。ルシエーナを見つめるその眼差しは暗く、憐憫が混ざっているようだった。それもそうだな、と男はつまらなさそうに認めた。
野性の獣に襲われることも予想外の悪天候に見舞われることもなく、一行は無事に荒野を渡り終えようとしていた。都の外壁が地平線に見える頃、天と地は春の盛りを迎えた。
「見えてきたぞ。<金の花の宮>だ」
先頭を駆けていたフィナヴァーが声を上げた。一行の間から明るい溜息が漏れる。ルシエーナは目を細めて、白く光る街を見つめた。こんなに大きな建物がたくさん並んでいるのは初めてだ、と思った時、記憶の薄布がひらりとめくれた。
(金の、花と…黒真珠…だっけ…?)
霧と、焚火と、それから更に時の彼方から、白い翼の羽ばたくさまが浮かんでくる。けれど夢のあぶくは、彼女の背中で馬の手綱を握っていた男が話しかけてきたことでぱちんと弾けた。
「あそこがライハルの都、帝と皇族が住まう<金の花の宮>だ。国で一番豊かで美しい街だぞ」
ルシエーナは返事をせずに俯く。今はまだ、誰とも話したくなかった。だが、そもそもルシエーナに意思があるということを考慮する者はこの一行にはほとんどいないらしく、時折このユユという名の男が気まぐれに声をかけてくれるくらいだった。
旅の間、ルシエーナはただ自然に心を任せて遊んでいただけではなかった。口は開かなくても、五感を忙しく働かせ、この奇妙な集団について少しでも情報をかすめとろうとつとめた。彼らには隙というものが存在せず、見えない細い細い糸で吊られているかのような統制がとれている。ルシエーナが花や土で遊んでいる時に干渉してくることはなかったが、少しでも遠くへ行く素振りを見せようものならすぐさま誰か氏らの視線が絡みついてきた。
(いったい何者なんだろう。私を王宮に連れていくということは、国から直接の指令を受けている…?)
だが、ルシエーナの考えはいつもそこで止まってしまう。外界から隔てられた小さな村で育ったルシエーナにとって、皇族も都も、国という感覚そのものすら遠いものだった。
フィナヴァーとは、目覚めた日から一度も言葉を交わしていない。視線が交わることもない。美しい顔に厳しい光を宿して、昼は先頭を駆け、夜は見張りに当たるのが、フィナヴァーの果たしている役割だった。この奇妙な集団の長たる人物は一応フィナヴァーらしいということは、ルシエーナにも感じとれた。一応、というのは、フィナヴァーが命令を下せば男達は従うけれども、彼らが自発的に指示を仰ぎ、また全ての物事を実際に決定しているのはセネルだったからだ。フィナヴァーに話しかけないよう気をつけるのと同じくらい、セネルに近づかないよう、ルシエーナは細心の注意を払った。
(フィナヴァーと話している所を、この人達には絶対に聞かれたくない。王宮についてから、なんとか会える時間を作れればいいのだけれど)
フィナヴァーもまた、ルシエーナをわざと遠ざけることで誰より彼女を意識しているのだと、ルシエーナはきちんと気づいていた。人の眼差しや気配は、今の彼女にとって光や風と同じくらい確かに感じ取れるものとなっていた。
(不思議ね。目が見えるようになったら、少しは感覚が鈍るかと思ったのに…溺れた時に変な夢を見てから、色んなことが以前よりはっきり感じられるようになってる)
夜、疲れきって眠りにおちる時、ルシエーナはほんの時たま、柔らかな視線に包まれているのを感じる。深い無意識下にあっても、頬をかすめる細い指の温もりを感じたと、確かに思った時もあった。
それから更に数週間を経て、一行はついに、都へ通じる門をくぐった。
金と銀と白に輝く王宮を中心に抱き、その街は花弁のように盆地の上にひらいていた。西地区と東地区を分ける川がその真ん中をつっきっている。きらびやかな巨大な睡蓮のように、皇族の住まう<金の花の宮>はこのクラン川の最も広い水域に造られ、四方をはね橋で囲んでいた。夜になると上げられる橋の出入り口は兵士達によって守られ、通るには許可証が必要になる。
きっちりと閉じられた箱のような場所だと思いながら、ルシエーナはその橋を渡った。白亜の門をくぐり、迷路のような渡り廊下を抜け、更に奥へと進んでゆく。終わりのない夢のような景色に、次第にルシエーナは頭がぼんやりし始めた。美しい細工を施された何千本もの柱がかすんでいる。渡り廊下の外は美しい庭園になっており、淡い緑の絨毯の上にちらちらと木漏れ日が揺れる。どこかで鳥が眠そうに鳴いた。
うとうとと頭を揺らしているルシエーナとは反対に、フィナヴァーは人の行き来がいつもより慌ただしいのに驚き、通りかかった侍女をつかまえた。
「一体なんの騒ぎだ。何があった?」
「フィナヴァー様、実は…皇太子殿下のお具合が悪いのです」
「何だって?!ではサリナ様は、弟ぎみの所においでか?」
「はい。けれど、新しい大臣様が皆様に伝言があるとかで、執務室に来るようにと仰せでした」
「そうか、分かった。ルナがだいぶ疲れているようだから、湯をつかわせてやってくれ。それと、謁見のための着替えを頼む」
「かしこまりました」
侍女はルシエーナをまじまじと見てから、その腕をとった。ルシエーナはというと、頭がひどくぼうっとしていて、今の会話もほとんど聞いていなかった。ルナ、と呼ばれた時だけわずかに顔を動かしたが、侍女に促されて少女の小さな背中は渡り廊下の向こうに消えていった。晴れた日の海の色にきらきら光る髪の残像が、フィナヴァーの瞼の裏にしばらく焼きついていた。
足早に執務室へ向かいながら、フィナヴァ―はマントを脱ぎ、短い髪に軽く手櫛を入れる。旅の埃に汚れていても、その美貌は全く色褪せていない。セネルが皮肉気な眼差しを向けた。
「さっそく色仕込みか。お前が我が国随一の密偵というのも頷けるな、テル嬢」
「我が国のためなら、ボクは女のふりだってしてやるさ」
フィナヴァーは尊大な口調で言い返し、参謀長官サリナの執務室へ入った。
本棚の前に立っていた若い男が振り返り、笑った。
「よう、お前らが『影』か。皇女様から伝言を預かってる。俺はリュウ、よろしく」
この王宮では滅多に見られない気さくな笑顔を向けられ、フィナヴァーの眼差しはみるみるうちに鋭い険を増した。その手が腰に帯びた刀にかかる。
「お前、何故『影』の名を知っている?サリナ様が新参者に明かしたというのか」
「明かしたらいけないのか?」
リュウはきょとんとした。嘘をついているようには見えないその表情に、フィナヴァーの苛立ちはつのった。彼女は刀を引き抜き、切っ先をリュウの胸に向けた。
「答えろ、若造。何でサリナ様は、お前をボク達への伝言役にした」
「おい、いくら何でもその態度はないだろ」
リュウはむっとして声を荒げた。
「俺はただ、『影』と呼ばれる者達が来るからと言われただけだ。サリナ様からの伝言はこうだ。『しばらくは弟に付き添う。報告は後日するように』」
「礼を申し上げる、リュウ殿。非常に助かった」
セネルが慇懃無礼な例の口調で割り込んだ。虫を払うような仕草で合図され、フィナヴァーはしぶしぶ刀を納める。リュウはちょっと口角を上げた。
「伝えたからな。俺はこれで失礼する」
リュウが立ち去るまで、彼ら――参謀長官直属の密偵集団『影』は動かなかった。リュウの気配が完全に廊下の向こうへ消えると、セネルが軽蔑しきった口調でフィナヴァーへ言った。
「テル嬢、今の血気溢れる態度は感心しませんな。新任とはいえ、仮にも大臣に向かってあのような非礼を。私が参謀だったら、あなたの首をこそ飛ばしている」
「サリナ様が参謀であることに感謝しよう」
すかさずフィナヴァーは切り返した。セネルの嘲りも嫌味も、彼女にとってはもはや日常と化していた。
「我々『影』の信条は、第一に主人に忠誠を尽くすこと、第二に任務を完璧に遂行すること、第三に他者を信じないこと。ボクはそのどれにも反した覚えはない」
「他者を信じないこと…ね。しかしあなたは、あの奇妙な髪の娘に随分と甘いようだが」
不意を突かれ、フィナヴァーの反応が一瞬遅れる。その時点で負けであると、自分でも分かっていた。
「…ルナは関係ない。ボクはもう行く。お前たちも解散しろ」
そっけなく言い捨て、フィナヴァーは突風のような勢いで部屋を出て行った。
その頃ルシエーナは、十人以上の侍女達によってたかって浴場に押し込まれ洗い上げられ、すっかり閉口していた。竹筒から流れるお湯は今まで経験したことのない熱さと勢いで、裸足にあたるすべすべした石の床も身体をこする固い布も初めての感触だ。しかも、ルシエーナはぼうっと立っているだけで、周りの侍女達が何もかもしてくれる。
(…歌姫って、どういう身分になるのかしら)
肌が剥けそうな勢いで石鹸をこすりつけられ、髪には香料をすりこまれながら、ルシエーナは首を傾げてあくびをした。
王宮に入った時から、ルシエーナは異様なほどの眠気に包まれ、ぼんやりとしかものを考えられなくなっていた。身体が重たい。そうして、どこからともなく漂う甘い芳香が、ゆったりと肺を満たしていく。
(花の香り…?)
ようやく湯あみが終わると、今度は着替えだ。見たことがないほど豪華な衣装、たっぷりした帯、ふかふかで柔らかな袴に包まれ、仕上げにルシエーナは宝石をあしらった簪で長い髪を結い上げられた。
「本当に困ってしまいますわ。こんなに量の多いもつれた髪は初めてですし、それにこの色ではどんな服も合わないでしょうね」
侍女の一人がぶつぶつこぼすと、もう一人がたしなめた。
「仕方ありませんわ。この方は、私達の想像も及ばないくらい遠い辺境の地からいらしたのですもの」
「まあ、道理で、元の服がやぼったいわけですわね」
ルシエーナは身を縮めた。忍び笑いやわざとらしい言葉の端々にひそむ悪意が、肌をちくちく刺してくる。
(でも、何で私に?)
首を傾げた時、先程ぼやいた侍女がルシエーナの首にかかる石に気づいた。
「まあ、汚らしい。こんなものをつけたまま、帝の御前には出せませんわ。とってしまいましょう」
「やめてっ!」
乱暴に紐を引っぱられ、ルシエーナは思いきり身をよじって金切り声を上げた。今までされるがままだった少女の激しい抵抗に、全員が身を引く。ルシエーナはしっかり石を握りしめ、用心深く身構えながら言いつのった。
「これは母さんの形見なの。絶対に外さないから」
女達は顔を見合わせた。人数的にはどう考えてもルシエーナが不利だが、彼女の目はてこでも譲らないと言っていた。やがて、根負けしたのか大きな息をつき、一人が言った。
「母さんではなくお母様とお呼びなさい」
『金の花祭りの歌姫』と皇族の最初の謁見は、大広間ではなく皇太子リグの寝室で行われた。リグはどうしても立ち上がることができず、けれど辺境からやって来た少女を一目見たいと言って聞かなかったからだ。
ルシエーナが入ってきておずおずとお辞儀をした時、皇太子は寝台の大きな枕に小さな身体をもたせかけており、その両脇に三人の姉が並んでいた。皆、長い髪を見事に結い上げ、美しい顔立ちをしていたが、人に与える印象は三者三様に異なっていた。
お腹の膨らんだ
皇太子の肩に大きな手を置いていた、四十代程の男性が、ルシエーナをまじまじと見つめてから口を開いた。
「金の花の宮へよくぞ参った。
ルシエーナは腰を折ったまま、こっそり上目遣いに男を見た。この時ばかりは、異様な眠気も吹き飛んでいた。彼が帝に違いなかった。
帝は黒い髪に黒い目をした壮健な男性であり、全身に威厳をにじませ、その眼差しは鷹のように鋭く賢しげだった。皇子の肩に手を置いたまま、帝はもう片方の手を三人の皇女に向けて振った。
「余の子供たちだ。一番上から、リリム、カヤン、サリナ、そしてリグという」
白い肌に黒い髪と黒い目を持つ四人の皇女と皇子は、呼ばれた順にルシエーナにそれぞれの合図を送ってみせた。リリムは好奇心をむき出しにした眼差しを向け、カヤンはとってつけたような笑みを崩さず、サリナは澄んだ目にわずかな温もりをこめてわずかに頷いた。最も若いこの皇女に、ルシエーナは最も強く惹かれた。彼女の瞳は大空を思わせ、風の無垢なきらめきと奔放さを秘めていた。彼女なら好きになれそうだと思うと、ルシエーナはなんだか嬉しかった。
姉たちより遥かに青白い顔をし、遥かにやせ細っているリグは、不機嫌そうに顔をしかめた。そして、ぶっきらぼうに命じた。
「歌え」
ルシエーナはぽかんとした。リグはますます怒ったような顔になった。
「歌えと言ったんだ!聞こえなかったのか!」
「あ…はい」
皇太子の威光に恐れ入って、というよりは子供っぽい剣幕に圧されて、ルシエーナは頷いた。父と姉達はこの癇癪に慣れているようで苦笑を浮かべていたが、ルシエーナが立ち上がって背筋を伸ばすと、その笑みは凍りついた。
「あなたは辺境の育ちですから知らなくても無理はありませんが、皇族の前で許可なく身を起こすことは失礼にあたるのですよ」
カヤンが小さな子をあやすように言った。が、ルシエーナは即座に応じた。
「でもちゃんと立たないと、いい歌は歌えません」
そして彼女は胸の前で両手を重ね、歌い始めた。
本当の所、ルシエーナは怖くてたまらなかった。おそらく病に侵されているのであろう幼い皇子を憐れむ気持ちもあったが、それ以上に緊張し、震えていた。ルシエーナは紛れもなくよそ者で、王宮でははぐれ者の身分で、歌姫として何か訓練を受けてきたわけでもなかった。この場をとっとと終わらせたいという気持ちが、礼儀を上回っていた。
けれど、いざ歌いだした瞬間、その声ののびやかさと澄んでしっかりした音程に、誰より驚いたのはルシエーナ本人だった。
「光溢れる森の中 花に遊ぶ鳥の声
川は踊り せせらぎは夢を運ぶ」
それは、懐かしい谷の自然を愛でる歌だった。ルシエーナの母が生きていた頃、好んで歌ってくれた歌でもあった。始めはか細く震えていた歌声は、次第に明るく力強く、潮のうねりのように広がっていった。ルシエーナはそれを感じとり、楽しくてたまらなくなった。彼女の目は、活き活きとした金色と琥珀の
「歌う風よ 語る岩よ 囁く空よ
どうか届けて 私の想いを
鳥の翼にのせて 優しく 愛しく」
ルシエーナの歌声が、空気を震わせ、波を呼ぶ。目に見えない律動が、ルシエーナをすっぽりと守るようにくるみこむ。花の香りが、いっそう強くなる。
歌が終わった。リグはすっかり年相応のはしゃいだ顔になり、夢中で手を打ち合わせて叫んだ。
「すごいや。ルシエーナは本物の歌姫なんだね!こんなに綺麗な歌を聴いたのは、生まれて初めてだ」
素直な感想に、ルシエーナは顔を赤らめた。そうして、嬉しさと同時に大きな安堵を感じていた。
帝からも称賛の言葉を与えられ、ルシエーナはようやく部屋を退出することができた。その直前、フィナヴァーの強い視線がちりりとルシエーナのうなじを焼き、彼女はびくりとして一瞬足を止めた。フィナヴァーは、目だけで何かを伝えようとしていた。目につかないほど微かに、彼女はほっそりした顎を動かした。衣の裾をさばくふりをして、ルシエーナは彼女の示す方向へ目を走らせた。
第二皇女カヤンが、仮面のように感情の抜け落ちた冷たい顔で、ルシエーナをじっと見つめていた。
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