第4話 旅立ち

 ルシエーナは、霧に囲まれていた。ぼんやりとした世界には、濃く白い霧が渦巻き、凍りついたように身体が冷たく固い。しばらく誰かの腕に抱えられ、ゆらゆらと運ばれたと思ったら、湿った柔らかな地面の上にそっと落とされた。

「気がついたかね?」

 焚火の向かいに座っていた男が言った。

 ルシエーナはすり切れた厚いマントにくるまれ、パチパチと音を立てて燃える明るい炎を見つめながら横たわっていた。光と熱がじんわりと身体にしみる。男が薪をくべるのを夢見心地で見つめ、二人の周りをふわふわと漂う霧を見つめ、それからルシエーナは飛び起きて叫んだ。

「目が…目が、見えてるわ!」

「そうだろうとも」

 男はくっくっと笑った。

「怒れる川の精霊の力が、あんたの中で閉ざされていた扉を開いたんだ」

 ルシエーナは叫ぶのをやめ、見知らぬ男をしげしげと眺めた。訳の分からないことを言われているのに、不思議と男を警戒する気持ちにはならなかった。

 男の皺の寄った皮膚は老木のよう、顔の前や横に垂れ下がる長い巻き毛は霧と同じ色をしていた。ルシエーナは、彼の色褪せた帽子、くたびれた上着、肩にもたせかけたごつごつした杖を見つめながら、一体彼は何歳なのだろうと思った。ひどく若いようにも、ひどく年老いているようにも見えた。

 霧の中で、焚火は星のように明るく輝いていた。焚火の上に真っ直ぐな棒が渡してあり、そこに下がった鍋から立ち昇るよい匂いにルシエーナはくらくらした。そしてその時になって、激流にもまれた身体が疲れ切り、休息と食事を求めていることに気づいた。

 男が何も言わないので、ルシエーナは思いきって訊ねてみた。

「あの、あなたが私をここに連れてきたんですか?フィナヴァ―は、どこにいるんでしょうか?」

「ここは扉の向こう側だ。あんたが一年前に開いた、最初の扉だよ」

「扉…?」

 ルシエーナは首を傾げて呟いた。男はどこからか木の椀と木の匙を取り出し、ぐつぐつ煮えている鍋の中身をたっぷりすくった。そして、湯気の立つお椀をルシエーナに手渡した。

「食べなさい」

 一口食べてみて、こんな美味しい物は今まで食べたことがないとルシエーナは思った。夢中になって飲み干すと、お腹の中がじんわり熱くなり、手足に力が戻った。お礼を言ってお椀を返すと、男は満足そうに微笑んだ。

「わたしはお前さんに力を与えるためにこちら側の食事を与えた。けれど、これっきりだ。これから扉をくぐってきた時は、何も口にしちゃいけないよ」

「扉って、なんのこと?ここは<霧の谷>じゃないんですか?さっき、私の中にも扉があるって言いましたよね?」

「そうさな、少しだけ教えてあげよう、お前さんが目覚めるまでね」

 私はもう目覚めているわとルシエーナは思ったが、男が静かに話し始めると、たちまち引き込まれた。

「この広大な世界には、人間が神とか精霊とか魔物と呼ぶモノ達が存在する。大抵の場合それらは、その人自身の頭の中にいるか、物語の中で徐々に形を成したものだが、中には本当に生きているモノもいる。扉をくぐってきたモノ、扉の向こうに佇むモノ。人間と同じように命と心を持つ、こちら側の住人達」

「扉のあちらとこちらは、どう違うんですか?」

「あちらには人間の世界が、こちらにはもう一つの世界がある」

 男はちょっと話を止め、鍋の中の物を匙ですくって飲んだ。

「二つの世界は常に隣りあい重なりあい、互いに影響を及ぼしている。片方がなければ、もう片方も生きられない。二つの世界の境界の通路は、いつもは閉ざされている。だが、こちら側の我々は、その『扉』を自由に開け閉めできるし、人間にもごくわずかだが、扉の鍵を持って生まれる者がいる。ルシエーナ、お前もそうだ」

 ルシエーナは息を飲んだ。男は顔を上げた。すると、皺に埋もれていた目が開き、正面からルシエーナの目を射抜いた。夜空にかかる鮮やかな雲の色をした目だった。ルシエーナの身体がぞくりと震えた。

「私は、ついさっきまで何も見えなかった子供にすぎないのに。鍵なんて、どこに…それに、私にどうしろと言うんですか?」

「それはあんた次第さ」

 男の答えは短く簡潔だった。その姿は、霧の向こうに消えかけている。それに気づき、ルシエーナは必死に叫んだ。

「待って!鍵って、何?あなたは一体誰なの?」

 言う側から声が宙に舞い、身体の感覚が消えてゆく。遠くから微かに、男の声が響いてきた。

――あんたの歌が 扉を開く 安心おし わたしはお前の味方だ こちらの世界には お前を見守る者が多くいる 勇気をもって 旅立つがいい 金の花と黒真珠の元へと――




 冷たい水を含んだ布が、優しく口に差し込まれる。その清らかな旨味に、ルシエーナの目がぱちんと開く。彼女を抱えて顔を覗き込んでいた女性が、嬉しそうな声を上げた。

「ルナ、目が覚めたんだね!よかった…もうこのまま、駄目なのかと思った」

「フィナヴァー…?」

 ルナ、と自分を呼ぶ人は、この世界でただ一人のはずだった。白く美しい顔立ちに短い黒髪の女性をまじまじと見つめ、ルシエーナは囁いた。彼女は目を潤ませて頷き、そっとルシエーナを起こしてくれた。

「やっぱり目が見えてるんだね。よかった。キミが川で溺れてるのを見た時は、心臓が止まるかと思ったよ」

 フィナヴァーの微かに震える手が、ルシエーナの頬を挟む。ルシエーナはフィナヴァーの顔に手を這わせる。想像していた通りの――それよりも更に美しいと思った。その瞬間から、ルシエーナにとって世界で一番美しい物は、フィナヴァーになった。

 ルシエーナは辺りを見回し、そこが見覚えのない森の中の小さな空地であることを認めた。

「フィナヴァー、あなたが助けてくれたのね。本当にありがとう。また会えたなんて、信じられない…もしかして、約束を覚えていてくれたの?私を、都へ誘いに来てくれたとか?」

「いや、それは…」

 ルシエーナが軽い気持ちで投げかけた言葉に、何故かフィナヴァーは具合の悪そうな表情になり、横を向いてしまった。不注意で割ってしまった皿の欠片を手にしているような、そんなおかしな表情に、ルシエーナが首を傾げた時だった。

「もちろん。我々はあなたを、王宮付きの歌姫としてお招きするために来たのですよ」

 ひやりと滑らかな、爬虫類の鱗を思わせる声が割り込んできた。ルシエーナの背筋を冷たいものが駆け抜けた。フィナヴァーが強張った声で呟く。

「…セネル」

「テル嬢、その子供が目を覚ましたら我々に知らせるはずだろう。何を腑抜けている」

 怯えた蝶のようにフィナヴァーの手がぱっと離れる。ルシエーナがそれを寂しく思う間もなく、空き地を囲む木々の後ろから男が姿を現した。中肉中背で、格別醜くも美しくもない顔立ちをしており、気配が異様に希薄だ。目をそらして五つ数えたら、その印象はひどく朧げになっている。そんな顔だった。しかし、細く切れ込んだその目を見た瞬間、ルシエーナはもはやこの男を記憶から消すことはできないと直感で悟った。暗く淀んだ目は、飢えた野獣のそれと同じ淀んだ色を湛えていた。

 フィナヴァーの細い背が、庇うようにルシエーナを男の視界から遮った。

「すまない、セネル。彼女はたった今、目を覚ましたんだ。ボクからはまだ何も伝えていない」

「さあ、どうだか。所詮は女のあなたのことだ、情にほだされて余計なことを漏らしたんじゃないか?」

「フィナヴァーにそんな言い方しないで!」

 男の嘲りに、ルシエーナはかっとして立ち上がり叫んだ。フィナヴァーが凍りつき、男の酷薄な眼差しがまともにルシエーナをとらえた。そこに蠢く悪意に、ルシエーナの身体は木の葉のように震えた。この眼差しを知っていると思った。村で暮らす自分を追ってきた、あの気味の悪い感覚と同じだった。ルシエーナは腹に力を込め、歯を食い縛って男を正面から見つめ返す。彼女の生乾きの髪は夜明けを閉じ込めた雲のように昏く白っぽく輝き、瞳は金色の眩い炎と化していた。

 男の底なしの淵のような目が、微かに揺れた。二人の間の空気が剣で斬れそうに張りつめた時、あちこちの木々や茂みがガサガサと鳴り、刀やら薪やらをかついだ男達が空き地に踏み込んできた。

 ルシエーナはびくりとして、見知らぬ男達を見回す。ざらざらした革靴を履いているにも関わらず、足音を立てずに歩く彼らは、セネルほど冷たく邪悪でもなかったが、どこか似たような空気をまとっていた。一人がルシエーナにちょっと頷き、フィナヴァーに話しかけた。

「テル、こっちの始末は大体済んだぞ。出発はいつにする」

「すぐだ。時間を無駄にはできない」

 そう言いながら、フィナヴァーがさっと黒いマントを羽織る。ルシエーナは何がなんだか分からずそれを見つめていたが、音もなく寄ってきた数人の男が自分の腕を掴もうとしたのを察知すると、小鳥のように飛び上がって空き地の隅へすばしこく逃げた。

「何するの、やめて!」

「セネルから聞いてないのか。俺達はお前を連れに来たんだ。お前はこれから王宮で暮らすことになる」

「誰がそんなことを決めたの」

 ルシエーナは言い返しながら、ぶるりと震える。無意識のうちに、喉元に下がっていたお守りの石を握りしめる彼女を、男達が無言で取り囲む。

「ねえ、ここはどこなの。どうして私を皆から引き離したの。お願い、村へ帰して」

 必死でルシエーナは訴えるが、誰もまともに聞いていないのを既に感じていた。フィナヴァーだけが、微かな同情と懸念の色を目元に滲ませているが、何も言ってくれない。投網のように並んだ男達は無表情だったが、一人がようやく口を開いた。

「お前は都で歌をうたい、王宮の歌姫になる。そういう定めだ。俺達はそのため、わざわざこんな辺境までやって来た。お前を確保する頃合いを見計らっていたら、お前は馬鹿な真似をして川で溺れ死にしかけるから、急遽作戦を変更したが…ちょうどよかったとも言えるな。お前は村では死んだことになっている。もはやお前の居場所はあそこにはない」

 ルシエーナの表情が凍りついた。フィナヴァーが唇を引き結び、俯いた。

「…死んだ?私を、殺したの…?私が眠っている間に…勝手に…?」

「もう充分だろう。無駄な抵抗を続けるようだったら、お喋りの代わりにこっちを使ってもいいんだぞ」

 セネルが冷ややかに言い、すらりと太刀を引き抜いてその切っ先をルシエーナの喉に突きつけた。初めてじかに感じる刃の冷たい感触に、ルシエーナが悲鳴を上げるより先に、フィナヴァーが動いた。

「やめろ、セネル!この子を髪の毛一筋でも傷つけたら、許さない!」

 感情も露わに怒鳴り、ルシエーナを腕に抱き込む。そうして、その耳元に切羽詰まった声で囁いた。

「ルナ、頼むから大人しくして。ボクと一緒に来てくれ。こいつらはもう絶対にキミを逃さない。ボクの傍にいれば、少しは守ってやれるし、待遇をよくしてやれる。一緒に、王宮へ来てくれ…」

「…それは、フィナヴァーのお願い?」

 彼女の腕に口元を隠されながら、ルシエーナは囁く。フィナヴァーが言葉に詰まり、小さく頷く。ルシエーナは震えながら目を閉じ、諦めた表情で頷いてみせた。生れて初めて、彼女は自らの意志で涙をおさえこんだ。

「分かった。あなたの行く所へ、私も行くわ…」

「ルナ、ごめん。ごめんね…」

 フィナヴァーの声は、苦悩に満ちていた。ゆっくりと、腕が離れる。いつの間にか、その場にいた二人以外の全員が、刀を抜いていた。これが自分の新しい世界になるのかと、ルシエーナは暗い気持ちになった。

「話はついた。馬を引いてこい。暗くなる前に、できるだけ進むぞ」

 フィナヴァーが感情のこもらない声で告げる。にわかに慌ただしく動き出す空気の中で、ルシエーナは震えながら立ちつくし、不安と闘おうとしていた。

(私、どうやらとんでもないことに巻き込まれちゃったみたい…)

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