第3話 若き参謀の日常

  姉の飼っている虎が甘ったれた唸り声を出しながらすり寄ってきたので、サリナは正面の姉に気づかれないようその腹をぐいと足でおしやった。ギャウンと悲鳴が上がり、お茶を飲んでいた姉が目を丸くする。

「あら、シシイ、どうしたのかしら?」

「卓の足にぶつかったのでしょう、リリム姉さま」

 サリナは冷ややかに言った。頭を垂れて寄ってきた虎を撫で、リリムはころころ笑う。

「いやね。いくら獣でも、シシイはもう少し賢くてよ?ほら、こんなに大人しくていい子だもの」

 誇り高い野性の虎の子を散々甘やかし、室内用に仕立て上げたのはあなたでしょうとサリナは考えたが、何も言わなかった。

 第一皇女リリムの部屋は、サリナの部屋の三倍は広い。調度品も豪華で、金箔で凝った模様を描いたものや絹のふさを縫いつけた美しいものばかりだ。だがサリナは、この場所が苦手だった。どんなにごてごてと飾りたてても、ここは檻のようだ。そしてその中で、何の意欲もなくぼんやりしている姉を見るのが、サリナは苦痛でたまらなかった。

 緩やかに波打つ黒髪をしどけなく垂らし、装飾品をびっしりつけた細い腕や繊細な美貌を見せびらかすように長椅子の上に投げ出して、リリムは大皿に盛られた菓子をつまんでいる。王宮の赤い薔薇と讃えられる彼女は、たとえ腹が太鼓のように出っ張っていてもなお艶やかな魅力を香水のようにまき散らしていた。

 愛虎シシイの新しい芸について得意げに喋っていたリリムが、サリナの視線に気づいて微笑みながら腹に手をあてた。

「臨月に入っているの。きっと男の子ね」

「姉さまにはお分かりなのですか」

「ええ。だって私はこの国の第一皇女ですもの。必ずや後継ぎとなる皇子を出産するわ」

 無邪気に言いきったリリムに、サリナはいっそ憐れみをおぼえた。

「姉さま。今の帝には、私達の弟であり皇太子であるリグが既にあらせられます。彼が皇座を継ぎ、妃を娶って子をなせば、その子が世継ぎとなるのです。姉さまのお子が帝になるとは限りませぬ」

「そんな、小さな子に説くような言い方をしないで頂戴な。私だってそれくらい分かっていてよ」

 いいえ、あなたは分かっていないと、サリナはふくれているリリムに対して思った。もう少し賢い者であれば、たとえ身内の前でも、自分が世継ぎを産んでみせるなどと言いきったりはしない。不用意な発言一つで何人もの首が飛び、幾多の命があっけなく消える――ここは、そういう世界だ。

 暗く絶望的な気持ちに支配される前に、サリナはさっと席を立った。

「仕事を残してきたので、これで失礼いたします、姉さま」

「あら、もう?もっとゆっくりしていけばいいのに。カヤンはしょっちゅう来てくれるわよ」

 文句を言いながらも、大儀そうに姉が差し出す白魚のような手に、サリナは無言のまま唇をおしあてた。

 

 宝石をびっしりと埋め込んだ扉が背後で締まると、サリナはようやく幾らか楽に息をつけるようになった。軽く頭を振って、仕事部屋へと歩き出す。王宮での地位と贅沢な暮らしを求める大臣達とも、皇族として生まれ甘やかされ敬われることに慣れきっているリリムとも違い、サリナは王宮が嫌いだった。虚栄に満ちた世界は、自分を血の鎖で繋ぐ牢獄だ。

(真実が見たい。偽りのない言葉が聞きたい。街へ下りてみたい。風にこの髪を乱してみたい…)

 サリナは、渇望する。老大臣が数年前に死に、からになった参謀の座を、皇女でありながらその頭脳と威光を武器に奪い取ったのは、その望みに少しでも近づくためだった。

 サリナの内には、熱い炎が燃えている。皇女らしからぬ激しさと奔放さを隠し持つ彼女の真の魂を、けれど見抜いた者はまだいない。

 物思いにふけっていたサリナは、背後から忍び寄る気配にも、伸びてくる長い腕にも気づかなかった。

「サリナ」

 甘く滑らかな声が囁き、細く冷たい指がうなじを撫でた。サリナは凍りついた。これ程美しい声の持ち主は、王宮に一人しかいない。

「…カヤン姉さま。人を驚かせるのがお好きでございますね」

 声の震えをなんとか抑え、サリナはゆっくりと振り返って膝まずいた。雪のような白い肌と、このうえなく魅惑的な声を持つ第二皇女カヤンが、紅をさした唇に笑みを浮かべて立っている。第一皇女リリムと同じく何一つ不自由なく育てられ、やはり花のように美しいが、サリナと六つ歳の離れたこの姉が十も年の離れた長姉とはっきり異なるのは、決して現状に満足することがないという性質だった。

 カヤンは微笑みをはりつけたまま、サリナの頬を撫でた。

「顔色がよくないわ。やはり皇女であるそなたが参謀をつとめるなど、荷が重すぎるのでは?」

「恐れ入ります。けれど私はこの仕事を気に入り、生きがいとしておりますので、どうぞご心配なく」

「そう?疲れた時はそうと申していいのよ。そなたはまだ充分に若いのだから、すぐに嫁ぎ先が見つかる。それに女性のあなたでは、国の機密を抱えきれないのではないかしら」

 蜂蜜のように甘い声の向こうにとぐろを巻く蛇が、サリナには見えるようだった。つかみどころのない淡い色の目を真っ直ぐ見つめ、サリナは言い放った。

「お気遣いに心から感謝いたします、カヤン姉さま。ですが帝は私の仕事に大変満足してくださっております。確かに、先代の参謀大臣が血を吐いてお亡くなりになったのは、さる高貴な方に軍事機密を話してしまわれたことがきっかけのようですが」

 カヤンの白い顔から拭い去るように笑みが消えた。能面のようなその表情を、サリナは薄く微笑んで見つめる。老いた大臣がカヤンの美貌と甘言に惑わされ、各地の兵の動き及び関門や砦の様子などを洗いざらいさらけ出した後にあっけなく毒殺されたことは、既に何人もの密偵を放って調べさせてあった。もっとも、確かな証拠など何一つ残ってはいないのだが。

 再びカヤンが口を開いた時、その声は毒を塗った蝋のようだった。

「サリナ、憶えておきなさい。私はあなたの姉です。私が帝に一言申し上げれば、あなたはすぐさま参謀を辞することになるのですよ。せいぜい出すぎた行動は慎むことね」

 赤い花を血のように散らした長い衣の裾を引いて歩み去る姉を、サリナは頭を垂れて見送る。その頬からは血の気が失せていたが、唇にはまだ薄い笑みが浮かんでいた。

(カヤン姉さまは、私に怖れを抱いている)

 それは確信だった。サリナは、カヤンが当時推していた若い大臣をさしおいて新しい参謀に着任した。その後、皇族の特権に甘えることなく、他者から学ぶことをためらわないサリナの真摯な姿勢は、すぐに人気を集めた。仕事ぶりもなかなかのものであり、書類を的確にさばき軍事においても国庫においてもまつりごとに関するあらゆる事項を完璧に掌握しているサリナに、今や帝が絶大な信頼を寄せているのが、カヤンは面白くないのである。

(けれど…姉さまの真の目的が何であるのか、まだ分からない)

 サリナは速足で廊下を進みながら考える。前大臣が息災であった頃、最も熱心に進められていた事業とは、隣国アジンの完全征服だった。アジンの国土はライハルの四分の一にも満たないが、資源がとても豊かであり、特に鉱物の輸出が盛んである。今ではその三分の一が、ライハルへの貢物として徴収されていた。

 カヤンは何故、その情報を欲しがったのだろう。


 書斎に戻り、溜まった書類を読み始めたサリナは、慌ただしい足音に顔を上げた。走って来たらしい侍女が扉の所で立ち止まり、女主人の咎めるような視線に大急ぎで乱れた服や髪を整えながら話し出す。

「ご主人様、申し上げます。あぅ、櫛がとれちゃった…えっと、新任の大臣様がご挨拶申し上げたいと…やだ、ここ破けてる…それからえっと、なんだっけ。ああっ、髪が絡まった」

「そこまででよろしい、カラ。まず身なりをきちんと整えてから報告なさい。見苦しいですよ」

 サリナは呆れかえって遮った。独り言と報告がごた混ぜになって、聞き取りにくいことこの上ない。叱られたカラはしゅんとして、せっせと身づくろいを始めた。宮殿に上がったばかりなのか、いかにも垢抜けない感じの少女だ。歳は、やっと十四か十五になる頃だろうか。肌は健康的な小麦色、髪はわずかに赤味がかっている。表情は非常に豊かで、忙しくくるくると変化した。サリナは俄かに彼女に興味を覚え、話しかけた。

「そなたはいつからここで働いているの?今いくつ?私の侍女になったのは、確か半年前だったと思うんだけど」

「覚えててくださったんですね」

 ようやく身なりを整えたカラの目がぱっと輝いた。王宮ではあまりお目にかかれない類いの、無邪気で素直な笑顔だった。

「私、四年前からここにいて、最初は台所の下働きだったんですけれど、やっとサリナ様の侍女になれることが決まって、嬉しくて嬉しくて。あっ、今は十六歳です」

「十六?!」

 それでは自分といくらも違わない。それに四年も王宮でつとめているにしては、ひどく落ち着きのない少女だ。

「よく皇女付きの侍女になれたわね」

「こまねずみみたいだってよく言われます。でも私、お裁縫がとっても得意なんです。それで侍女になれました」

 そう言って笑ったカラの顔が本当に嬉しそうで、幸せそうで、サリナは胸の奥がひどくくすぐったくなった。少女の素直な好意に思わず頬が緩みかけ、慌ててそっけなく言う。

「落ち着いたようね。要件を述べなさい」

「はい、サリナ様。軍務省に新しく着任された大臣様がご挨拶にお見えです。それと、北の山脈から使いが来ております」

「分かったわ、先に大臣からお通しして」

「かしこまりました」

 一礼して部屋を出てゆこうとするカラを、サリナは呼び止めた。

「カラ」

「はい…?」

「きちんと言えるんじゃない」

 振り向いたカラの目がまん丸くなる。やがてその頬がみるみるうちに紅潮し、顔いっぱいに眩く幸福そうな笑みが広がった。ぺこりと頭を下げ、弾むような足取りで退出してゆく彼女を、サリナはいつになくあたたかな気持ちで見送った。

 軽くなった心で、びっしりと文字の書きこまれた書類に目を通す。今年は天候がよく、収穫も豊富であることを示す数字が並んでいた。

(これなら今年は税率を動かさないで済む…)

 サリナは小さく息をつき、次々に書類を読み進めていった。参謀は帝の右腕であり、帝に変わって実際の政の指揮をとる。あらゆる責任と権力を一身に負い、豊富な知恵と機転を持ち合わせていなければ決してつとまらないこの巨大な職務に、サリナは数年かけて全力で取り組んできた。自分と相性のいい仕事であることは分かっていたが、決してこの仕事を好きでもなく誇りに思ってもいなかった。参謀としての能力が高まれば高まるほど、王宮の光と闇がサリナを絡めとる。もしも奇跡が起こって、この宮から出られる日が来たなら、サリナは何の迷いもなく参謀の地位も皇女の名も捨てるだろう。そんな固い決意をひそかに胸に抱いているためか、うら若い皇女の瞳は炎をひらめかせて強く鋭く光っていた。

 扉の所に誰かが立っていたが、仕事に没頭していたサリナは気づかなかった。軽い咳払いと共に「失礼します」という声がし、サリナは顔を上げた。

 若草色の衣をまとった若い男が入ってくると、サリナの前に膝をついて頭を垂れた。

「新しく軍務省に入った方ですね。名は?」

「リュウと申します」

「そう。リュウ、そなたは平民の出身なの?」

 リュウが顔を上げ、驚き呆れた表情でまじまじとサリナを見たので、サリナは思わずたじろいだ。二十歳を少し過ぎた頃の、背が高く、翡翠のような瞳をした青年だった。

「流石は王宮一賢いと評判の皇女様だ。何で分かったんです?」

「…最初にそなたは、『失礼します』と言いました。物の道理の分かっている貴族なら、『失礼つかまつります』と言います。それにそなたは、皇女の目を正面から見ましたね」

「なるほど」

 リュウは半ば感心し、半ば呆れたような声を出した。明るい翠色の目はまだサリナをじっと見つめている。

「どうしたのです。まだ何か?」

「いや、城下街の奴らが噂してた通り、女神アルテネのような皇女様だなと」

「アルテネ…?」

「ここがどんな人間の巣窟か、俺にはまだ分かりませんが、少なくともあなたは、この宮の外ではえらい人気者なんですよ、サリナ様」

「私が…?」

 サリナにとって、それは青天の霹靂だった。広く豪奢であっても、冷たく孤独な王宮の外には、自分を尊敬し、慕ってくれている人々がちゃんと存在していたのだ。とっさに返事もできず、頬を赤く染めてうつむくサリナを、リュウは楽しそうに見ている。その笑みから何とか視線をそらして、サリナは呟いた。

「もう結構です。お下がりなさい」

「承知いたしました、皇女様」

 色素の淡い髪を揺らして、リュウが出て行く。ついで山脈からの使いが入室するまでに、サリナは頬に両手をあてて気を静めなければならなかった。心臓がとくとくと鳴っている。

(風のような人…)

 恐怖も疑いもこびもなく、サリナを真っ直ぐに見つめてくる澄んだ翡翠の瞳が、しばらく心から離れてくれそうになかった。

 卓の後ろの大きな窓から風が吹き込み、サリナの髪を揺らした。飛ばされそうになった書類をあわてて押さえ、文鎮を載せる。隙の無い身のこなしで膝をついた男が淡々と喋り始めたのを、サリナは危うく聞き逃す所だった。

「<霧の谷>の少女が視力を取り戻しました。現在、『影』が身柄を確保しております」

「あの子が…?」

 意外な情報に、サリナは顔色を変えた。一年前、『魂を招く白い鳥』を手に入れるため、わずかな望みを託して密偵達に指示を与えたのを、この瞬間まで忘れていた。だがいったん思い出すやいなや、サリナの頭の中には文字や数字の羅列が何種類も交わったり離れたりしながら甦った。記憶に沈み込んでいる時の癖で耳たぶをつまむサリナに、男はもう一つの驚くべき報せをもたらした。

「その少女が氾濫した川に引きずり込まれた時のことですが、何人もの村人が、川の上に舞う白い鳥を見たと言っています。少女を翼で包んでいた…波をくぐり抜けて消えた、とか」

「とうとう、現れたというの」

 サリナは呟いた。素早く考えを巡らせ、つと手を伸ばして真っ白な大判の髪を一枚取った。墨を満たしたすずりに愛用の筆をつけ、やや右上がりだが美しい字をさらさらと綴っていく。最後に、いつも首から下げている金印を紙におしつけ、辛抱強く待っていた男に無造作に差し出した。

「新たな指令を与えます。フィナヴァーにこれを持って行き、書いてある通りその少女を扱うよう言いなさい。くれぐれも村の者には気づかれないように」

「かしこまりました、サリナ様」

 サリナはしばらくの間右手を差し出したまま動かず、男が手の甲に恭しく口づけて部屋を退出するのを待った。それから再び仕事にとりかかろうとした時、一人の侍女が青ざめた様子で飛び込んできた。

「サリナ様、すぐに皇太子殿下の私室へおいでください。殿下が倒れられました!」

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