第2話 暴れる川

 夢の中でなら、ルシエーナは見ることができた。

 ごく幼い頃の記憶を再生しているのかもしれない。けれど天から見た広大な山脈、大地の目であるかのような湖は、ルシエーナの記憶ではないはずだ。

 ルシエーナは空を飛んでいた。彼女自身に翼があるわけではない。真っ白い大きな鳥の足に掴まっていたのだ。怖いとは思わなかった。その鳥には、どこかで会ったことがあるような気がした。

 鳥が、翼を羽ばたかせながら澄んだ声で鳴いた。すると、山のあちこちから白く光る、蛍のような球が尾を引きながら飛んできて、鳥のくちばしの奥へ吸い込まれていった。その球はあまりにも無垢で儚い光を放っていて、ルシエーナの目からなぜか涙が溢れた。きらきら零れたその涙もまた、鳥の喉へ吸い込まれていく。眩いばかりに白いその鳥は、長い首をゆったりともたげてルシエーナを見つめた。そして、何かを言った。それは、春を告げる鳥の甘い歌声と、風のびゅうびゅう鳴る音と、空気の澄んだ夜に満天の星空から降ってくる、あの雄弁な沈黙を一つにしたような、そんな不思議な声だった。紡がれた言葉は、ルシエーナの魂に直接しみこんできた。

<あなたの涙が わたしを潤す だから教えましょう 金の花と黒真珠に触れることができるのは あなただけ>

 次の瞬間、ルシエーナの手は鳥から離れた。輝く鳥がどんどん大盛り、ルシエーナは闇の中へ落ちてゆく。深く深く、はてしなく――。


「ほらほら、ルシエーナ。いい加減起きて」

 思いきり揺さぶられ、ルシエーナははっとして目を開けた。途端に瞼に焼けつくような痛みを感じ、慌てて目をこする。

「昨日までの大雨で木がだいぶ流されちゃったから、皆で拾いに行くわよ…って、ルシエーナ?どうかしたの?」

 はきはきした、よく響く声の主の名は、アジャという。ルシエーナの隣の家に住む少女だ。両目を強くおさえるルシエーナの手に、たこのできた手がそっと触れた。

「何でもないの、大丈夫。一瞬…光が見えた気がして…」

「えっ?見えたの?」

「だから、そんな気がしただけよ」

 おそるおそる目から手を離しても、そこには馴染んだ闇しかなかった。ルシエーナはアジャの手を握り、突っ伏して寝ていた毛布の上から身を起こした。慣れた動作でルシエーナを引っぱりながら、アジャはため息をつく。

「春先にこんな大雨が降るなんて。最近変な天気が続くわね…不吉だわ」

「山の神さまが怒ってるんじゃない?」

 そっと訊ねながら、ルシエーナは手渡された空の籠を背負った。一週間近く降り続いた大雨で倒れたり流されたりした木を、谷中総出で集め、切り、資材や薪にするのだ。<霧の谷>は周囲を険しい山々に囲まれており、百人ほどしかいない集落の住人達は助け合いながら、自給自足で何とか毎日を生きていた。

 アジャは明るい笑い声を上げた。

「アハハッ、うちの谷は何にも悪いことをしてないもの、大丈夫よ。それにこの谷は霧に守られてるからね」

「そうよね…」

 友の声の軽やかさに幾分安堵をおぼえたものの、ルシエーナは神経を張りつめて周囲の空気や音を感じとろうとしていた。このところずっと、誰かに見られているような気がする。それは、ごくたまに山から降りてくる熊や猪のように殺意や敵意を感じさせるものではなかったが、違う意味でルシエーナを怯えさせた。まるで彼女を、葉っぱか石ころのように、ひどく冷静に観察し分析しているかのような、温度のない、のっぺらぼうの眼差しだったからだ。

「ほら、またふらついてる!」

 アジャの腕の中に、ルシエーナはふわりと倒れこんだ。知らないうちに、貧血を起こしたのだった。



 しきりに心配するアジャを説得しながら、谷から少し離れた川に着く頃には、太陽が空の一番高い所に上っていた。鳥の鳴き方や気温で、ルシエーナはそれを察知できた。大雨で増水したのか、いつもは歌うようにせせらぐ川の音がゴウゴウと轟いている。

「三日前に大急ぎで石を積んだのに、もう崩れかけてる。危ないから、ルシエーナはここで待ってて!」

 アジャは切羽詰まった声で言い、ルシエーナを小さな丘の上に連れて行って低木の幹を掴ませた。ここなら、万が一のことがあっても溺れないだろう。

「アジャ、気をつけてね」

「ルシエーナも。絶対にここを動いちゃだめよ」

 ルシエーナは大人しく木にしがみつき、軽快に駆け去る少女の足音に耳を傾けていた。風のように軽やかでのびやかな、ほっそりとして長い足を持つ少女特有のその足音を聴いていると、フィナヴァ―を想い出した。

 霧の中の不思議な出会いから、一年が経過していた。あれは二人だけの秘密で、戻った村では何一つ変わらない日常がさらさらと流れ、ルシエーナは毎日思い返してはあれは夢だったのかと思った。

 けれど、あの日交わした約束は紛れもなく現実で、本物だった。ルシエーナは毎晩、フィナヴァ―の記憶に浸った。夜は様々な物が目覚める時だ。風のすすり泣きや枝の踊るひそやかな音に耳を傾け、ただ一人の人が美しいと言ってくれた髪をひびの入った櫛で梳きながら、ルシエーナは静かに歌った。

星守ほしもりは銀の杖を持ち

 空から私に歌いかける

 愛しい人よ 我がもとへ

 愛しい人よ 我が腕へ」

 川のほとりで、ルシエーナは歌う。川は唸り、村人たちは緊迫した雰囲気で駆けまわっていたが、ルシエーナの歌はその隙間を縫って甘やかな笛の音のように細く流れていった。

(そういえば、この歌、どこで習ったんだっけ…?)

 頭がぼうっとする。ルシエーナが片手で木にしがみつきながら、もう片方の手で髪をかき混ぜた時、かん高い悲鳴がその場を切り裂いた。

(アジャの声!)

 そう思った途端、ルシエーナは目に焼けるような痛みを感じてぎゅっと目を閉じた。太陽の光の矢がルシエーナの目を貫いたのだ。瞼の裏が一瞬、赤や緑や金の炎でいっぱいになる。身体を折って手で目を覆ったルシエーナは、次の瞬間恐怖と痛みでむせび泣きながら、それでも転げるように駆けだした。

 ここ数日の大雨で増水した川は凶暴な力を増し、ついに堤防を破った。石が緩みかけていた場所を補強しようとしていた少女が、その水に飲み込まれたのだ。

 手足をばたつかせ、いとも簡単に流されてゆく少女を、しかし救おうとする勇気のある者は一人としていない。大波を起こしながら、川は恐ろしい勢いで流れてゆく。川下に廻れと叫ぶ男達の声も、両手をもみ絞って泣き叫ぶ女達の声も、怒り狂った川の轟に吸い込まれる。

 いつ転んでもおかしくないような足取りで丘を駆け下ってゆく少女の、羽のように広がる青い髪に最初に気づいたのは誰だったろう。本当に、その時のルシエーナの髪は勿忘草のように青く輝いていた。気づくと誰もが少女を指さし、叫びあっていた。あれはルシエーナだ、目が視えない子だと。

 ルシエーナは積み上げられた石の上によじのぼり、しばらくの間水の音にじっと耳を澄ませた。細めた双眸から光がうっすらと滲みでて、頬を伝う銀色の涙を金色に変えた。

 ルシエーナは一心に耳と心を川へ集中させる。すると不思議なことに、、恐ろしい川の轟きへの恐怖がすうっと消えた。荒々しく無秩序なようでいて、水は律動していた。たゆたう流れと空中に弧を描く無数の飛沫が織りなす音色、それが囁く水の法則、もう少しでそれが分かるという時、ルシエーナは水面を叩く力ない音を聴いた。途端に囁きは消え、ルシエーナは腹ばいになって手を伸ばしていた。

「アジャ、こっちよ!私に掴まって!」

 少し間があり、ルシエーナは腕の先に重いものがしがみつくのを感じた。互いをしっかりとつかみ、ひきつったようにしゃくりあげるアジャを少しずつ全力で引っ張りながら、ルシエーナはまたわずかに瞼を持ち上げた。これ程高鳴る心臓の音がうるさくなかったら、周囲で頑張れと声を枯らして叫ぶ村人達の声援も耳に届いたかもしれない。とうとうアジャが石の上に身体を投げ出し、子供のように大声で泣き出した。ルシエーナは息を切らせ、呆然としながらもアジャを抱きしめた。

 それからいくつものことが同時に起こった。

 身体を締めつけ縛り上げてくるような強い視線を、ルシエーナは感じた。アジャの手がもぎ離され、大量の水が身体を引きずりこむ。そして、かっと見開かれたルシエーナの目が、勿忘草色の空と白い水の筋を確かにとらえた。

 水の底に叩き落される。視線が途切れる。その代わりに、痺れるように冷たい水の流れと波のうねりがルシエーナをとらえ、肺を押し潰そうとしていた。氾濫した川で溺れたのだと認識した時、ルシエーナが感じたのは、哀しみだった。

(どうして…?あなたはさっき私に、秘密を打ち明けようとしてくれたのに…)

 胸が石のように重い。ばたつく手足から、徐々に力が抜けていく。

 ほっそりとした、けれど強い力を持つ手が、ルシエーナの上着の後ろをぐいっと引っ掴み、もの凄い力で引っ張った。いきなり新鮮な空気が顔に吹きつけ、むせながらルシエーナは、二本の腕に抱き上げられる。そうしてルシエーナは、彼女を覗き込む女性の白いおもてを見た。

 何度も何度も心に描いたその人より、はるかに美しい顔立ちだった。ルシエーナにはすぐに、それが誰なのか分かった。

「フィナヴァ―…?」

 苦しげに掠れた声で、ルシエーナは呟いた。彼女のまとっている黒いマントのフードが外れ、短い黒髪があらわになる。彼女は信じられないというようにルシエーナを凝視する。懐かしい低い声が、ルシエーナの耳をくすぐった。

「見えて、いるのか…?」

 冷えきった指にありったけの力をこめてフィナヴァ―の腕を掴み、ルシエーナは安らかに目を細める。すると再び、金色の光がそこから淡く漏れでた。

「やっと、会えた」

 喜びに満ちた声で囁き、ルシエーナはようやく意識を手放したのだった。









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