星守りの唄

野原 杏

第1話 霧

 闇の中にいても、頬に張りついた無数の水滴で霧が出てきたのが分かった。ルシエーナは顔をしかめ、手探りで籠を掴むとクローバーの茂みから腰を上げた。ずっしりと重い籠は、もうかなりの数の野イチゴが底に溜まっていることを告げている。

(霧が濃くならないうちに、村へ帰らなきゃ…)

 ルシエーナはしっとりと濡れたクローバーを素足で踏みながら歩きだした。初春の森は生まれたての甘くかぐわしい香りを放ち、少女を優しく包む。肌に触れる柔らかな日の光や熟れたての野イチゴの味が好きで、ルシエーナはこの季節になると毎日のように村を抜け出しては南の森をさまよった。あんまりしょっちゅう行くので、どこに何の木があるのか、どの道がどこに通じているのかまで体が覚えてしまっている。

 ルシエーナは霧が苦手だった。村にいればそれは子守歌のように彼女の世界を包み込んでくれるのだが、一歩外に出るとそれは彼女の五感を奪ってしまう。ルシエーナは慎重に、自分のつけた足跡をさぐりながら歩いた。

 しばらくすると、道に迷ってしまったのがはっきりした。それもどこかのやぶにはまりこんでしまったらしく、少し体を動かすだけで小枝がちくちく刺さる。痛みと心細さに、ルシエーナの目に涙が滲んだ。森に迷い込んで行方知れずになった子供の話を聞かされたことがある。たしかあの話では、子供は悪戯好きの霧の精霊にさらわれて二度と戻ってこられなくなったのだ。思い出してしまうとますます怖くなり、肌を包む雫のヴェールが人の手のように思えてきて、ルシエーナはこらえきれず嗚咽を漏らした。

(村へ帰りたいよう…)

 泣きながら、赤くすりむけた指が無意識のうちに上着の中をまさぐる。ごつごつした石のかけらを掴むと、ほんの少し落ち着いた。ルシエーナはそのごつごつを何度も触り、心の中で繰り返す。

(お星さまお星さま、どうか守ってください。無事に村へ帰れますように)

 今は亡き母が首に下げてくれた小さな石の欠片は、ルシエーナの大切なお守りだ。6歳の誕生日にそれをくれた時、母は秘密めいたひそひそ声で彼女に教えてくれた。これはお星さまが母さんにくれた、星の一部なのよ。困った時にはきっとルシエーナを助けてくれるわ。

 頬の涙をぐしぐしとこすってから、ふとルシエーナは思いついた。

(そうだ、歌をうたってみれば誰かの耳に届くかもしれない)

 それは普段なら絶対に思いつかないような、ばかげた考えではあった。こんな霧の日に、しかも森の中に、自分以外の人間が呑気にうろついているなんて、ちょっと想像できない。けれど、ルシエーナは歌いたかった。大好きな歌は、いつも心を慰め励ましてくれる。それに、自分の声は遠くまで響かせることのできる、常人より強く張りのある声だということをルシエーナは自覚していた。

 籠をいったん地面に置き、ルシエーナはそっと身体をそらせて楽な姿勢をとった。

(星の守り神さま、白い鳥、全ての良き精霊たちよ。どうか私の歌を助け、響かせてください)

 自分で考えた祈りの言葉を、胸に呟く。少しだけ不安が消えうせ、静かで明るい力が湧きあがる。一度全て吐き出した息を、全身に行き渡らせるように深く深く吸い込み、ルシエーナは歌いだした。険しい山脈のふもとに位置する小さな村では、そんなに多くの歌を学べるわけでもなく、ルシエーナがこの時選んだのは子供が言葉を憶えるための童謡だった。

「ばらの花が1輪咲いた

 みつばち一匹 花にもぐった

 おんなのこが1人、ばらをつんだ

 小鳥が一羽、おんなのこの肩にとまった」

 ルシエーナの歌声は水のように澄み、音程もしっかりしていた。単調な旋律が少女の柔らかく真っ直ぐな声に紡がれ、不思議な美しさを帯びる。


 一歩踏み出した先が分からないほど濃い霧が、山脈を流れる。その最中で、誰かの落し物のように高く細く響く少女の歌声を聴きつけた人物がいた。その人物はほっそりした身体に夜の色のマントを巻きつけ、方向感覚を完全に失って動くことができず立ちすくんでいた。もう随分長い間広大な森の中をぐるぐる歩き続けた後だったので、疲れきってまともに考えることもできなくなりかけていた。

 笛を吹くように軽やかな歌声がどこからか聞こえてきたのはその時だった。黒いマントの人物ははっと身を固くし、それから一心に耳をすませて、その声がどこから聞こえてくるのかを探った。

 心なしか霧は晴れてきたようだった。白く重たい水滴の群れの流れが分かるようになり、その透明な帯をかきわけるようにして黒いマントの人物は慎重に歩き出した。もやい綱に引かれる船のように、霧の海を漂っていく。不思議とその足が迷うことはなかった。

 獣の革を縫い合わせた靴が湿った苔を音もなく踏む。ちょうど目の高さに覆い被さる小枝を辛抱強く払い続け、黒いマントの人物はついに小さな空き地へたどり着いた。凸凹の地面をふかふかした苔がふんわり覆い、エニシダがわさわさと群生している。そこだけが、離れ小島のように霧から外れていた。

 棘だらけのねじれた枝に閉じ込められるように―あるいは守られるようにして、少女は歌っていた。荒れた小さな手を胸の前で組み、顔を微かに天へ向けるその姿は、一枚の絵画のように印象的だった。用心深くここまで進んできた黒いマントの人物は、声もなく見惚れた。

 ふいに、少女は歌うのをやめた。そして、波打つ長い髪に囲まれた顔を傾げ、じっと黒いマントの人物を見つめた。長い睫毛にふちどられた少女のひとみはとても大きく、光と影が同棲してその明るさをくるくる変える。驚きに見開かれた今、その色は暗い琥珀と輝く黄金の中間くらいに見えた。

 囁きよりほんの少し大きな声で、少女は尋ねた。

「誰?そこに誰かいるの?」

 顔は確かに向けているのに、そんな問いを発し、少女は手を伸ばして彷徨わせる。しかしその動きは棘だらけの意地悪な枝に阻まれ、あっという間に無数の赤いひっかき傷が腕にできた。枝があることも人がいることもまるで分かっていないようなその動きに、立ちすくんでいた人物は思わず呟いた。

「…君は、目が視えないのかい?」

 発せられた声は低く深く、それでいてやけにしっとりとした艶を帯びていた。少女はぱっと顔を輝かせ、さらに腕を伸ばす。傷が増えることなんて、気にしていないようだった。

 檻の中から無心に手を差し伸べ、盲目の少女は姿の視えない人物に無邪気に呼びかけた。

「お願い、ここから出して。一人じゃできないの。イチゴを半分あげるから、どうか私を助けてください」


 苔を踏むひそやかな足音を聴きとり、ルシエーナは腕を伸ばしたままじっと待っていた。やがて足音は彼女のすぐ近くで止まり、ほっそりした柔らかな手がルシエーナの手を握った。

「じっとしていて。今、ボクがここから出してあげるから」

 甘やかな声が囁く。心の中で荒れ狂う驚きと興奮を抑えながら、ルシエーナはその手を握り返して小さく頷いた。大人しくじっとしていると、枝を切り落とす思い音と葉をかき分ける軽い音がしばらく続き、ついにルシエーナの腰に温かな腕が回されて茂みの外へ連れ出してくれたのが分かった。

 救い主の手にすがりついてゆっくりと歩きながら、ルシエーナは何度も深呼吸をした。どんなに体を動かしても邪魔されないことがこんなに嬉しいとは知らなかった。水分を含んだ苔が素足に心地よい。清々しい風の動きが、霧の晴れてきたことを少女に教えてくれた。

 細いけれどしっかりした腕、柔らかな手を持つその人物は、ルシエーナをどこかの岩の上に座らせてくれた。

「キミはこの近くの村の子?どうしてこんな所まで迷い込んだんだい。目が視えないのなら、森を1人でうろつくのは危ないよ」

「ごめんなさい。それと、助けてくれて本当にありがとう」

 ルシエーナは素直に答え、隣に腰かけているであろう相手を視えない目で探し求めた。つながった手と静かな声が、ルシエーナに与えられたごくわずかな手がかりだった。

「私、ルシエーナ。<霧の谷>に住んでいるの。この森にはよく来るから、普段はちっとも恐くないわ。今日はイチゴを摘みに来たのよ」

 しっかり握っていた籠を差し出すと、隣の人物がくすくすと笑った。

「ふふっ…勇敢な子だね。これを半分ボクにくれるんだっけ?」

「もちろんよ。あなたは私の救い主だもの!」

 ルシエーナは笑い返した。不思議なくらい、初めて会った気がせず、安心した気持ちだった。もっと隣にいたい、話がしたいと素直に思った。

(あなたはどんな顔をしてるの?目は、髪は、何色…?)

 忘れようもないあの事件で視力を失ってから6年という月日が経っていたが、ルシエーナは久しぶりに目が視えていたらなあと思った。知らず知らずのうちにつないだ手に力がこもり、相手が少し驚いたような気配を伝えてくる。

「どうしたの?」

「私、あなたに訊きたいことがあるの」

 ルシエーナは明朗な声で言った。同時に、つないでいない方の手と自分の顔を、相手にぐんと近づける。

「あなた、どうして女の人なのに男の人みたいな話し方をするの?」

 相手の声が思いきりむせた所から察するに、ちゃっかりイチゴをつまんでいたらしい。ルシエーナは構わずに相手の顔を手でとらえ、その輪郭をそっとなぞった。そして、自分の勘は狂っていなかったと確信した。

「…どうしてボクが女だと分かった?」

「なんとなく、そうかなあって。手が優しくて、声はお花みたいで。目が視えなくなってから、『なんとなく』でも色々分かるようになったのよ」

 ルシエーナはそう言って、屈託なく笑った。その手は休みなく動いて、マントの人物の顔をなぞり、もう少しで鼻と鼻がくっつきそうな距離で顔を近づけている。けれどそれをこばまずされるがままになっているマントの人物は、どうやらひどく動揺しているようだった。

「そうか…大抵の人は、ボクに騙されてくれるのだけれど…キミは、ちゃんと見抜いたんだね」

 その声にほんの僅かに宿る、寂しげな儚い響きが、ルシエーナをはっとさせた。彼女は手をとめ、呟いた。

「ごめんなさい、勝手なことをして。でも私は、あなたの声も、手も、顔も、みんな好きよ。女の人が男の人みたいにしてても、ちっとも気にならないわ」

「なら、好きななだけ触って。ボクのことを感じてみておくれ。キミなら、ボクがどんな姿をしているか分かるし、憶えておけるんだろ?」

 そっと引っ込めようとした手を笑いながら握られ、ルシエーナの胸は弾んだ。盲目であればこそ、あらゆる感じ方や見方が常人とは異なってしまうルシエーナを、こんな風に受けとめてくれる人は初めてだ。彼女の手がルシエーナの手を再びその顔に導く。二人はいつしか、数年来の知己のようにうちとけて言葉を交わしていた。

 ルシエーナは無垢な笑顔をおしげもなくふりまきながら、熱心に話しかけた。

「分かるわ!あのね、あなたはすべすべの肌で、ほっそりしていて背が高くて、あごは尖っているの。目も髪も真っ黒で、そしてものすごく美人!」

「はは、流石はルシエーナだ。でも、どうしてボクの目と髪の色まで分かったんだい?」

 ルシエーナは戸惑い、もう一度彼女の滑らかな髪に触れた。顔の造形を指先でよみとった時には、もうはっきり分かっていたのだ。指と、耳と、想像力とで世界を視るようになってから、そうした不思議な確信は時折ルシエーナを訪れていた。

 けれど、それをどう説明すればよいのかが分からず、だから結局ルシエーナは小さい声で言うしかなかった。

「…何となく」

「そうか、何となくか」

 ちょっと笑い、彼女はそれ以上の追及はしなかった。ひそかに感謝しながら、ルシエーナは急いで言葉を重ねた。

「ねえ、あなたの名前はなんていうの?」

「あれ、言ってなかったっけ?」

「…もしかして、忘れてたとか」

「ごめんごめん、うっかりしてたよ」

 からから笑って、彼女は名前を教えてくれた。少年のように明るくあどけない笑いに不意をつかれたルシエーナは、もう少しでそれを聞き逃す所だった。

「ボクの名は、フィナヴァ―・テル」

「フィナヴァ―…」

 ルシエーナは噛みしめるようにその名を繰り返した。聞き慣れない複雑な響きを持つその名は、高貴な姫君のように美しかった。

「フィナヴァ―。素敵ね。私が聴いた中で一番綺麗な名前だわ」

「そう…そりゃ、よかった」

 ルシエーナの心からの賛辞をフィナヴァ―は優しく受けてくれたが、その声にはまた、あの寂しく儚いものが含まれていた。ルシエーナは鋭くそれに気づき、二人は気まずく黙りこくった。繋がった両手だけが―片方の手はフィナヴァ―の膝の上に、もう片方はルシエーナの心臓の上に―互いの存在の証だった。二つの温もりを感じながら、ルシエーナはひそやかに考えを巡らせた。

(フィナヴァ―は、どこから来たんだろう。こんな山奥で、何をしていたんだろう。とっても優しいのに、寂しそうで…哀しそうで…)

 無数の疑問が、霧の粒子のように頭の中を流れていく。けれど、ルシエーナはそれらを一つも口に出さなかった。相手の名前しか知らない、まどろむように心地よい闇の世界に、もう少し浸っていたかった。

「だいぶ霧が晴れてきたみたいだ。ボクはそろそろ行かなくちゃ」

 ふいにフィナヴァ―が呟き、ルシエーナはどきりとした。繋がっていた手が、するりとほどけていこうとしている。

「どこへ行くの?」

「遠い、遠い所。大丈夫、キミのことは村までちゃんと送ってあげるから」

 フィナヴァ―が立ち上がる気配がしたので、ルシエーナは渋々片手を離した。二人はゆっくりと歩き出す。ルシエーナの目の上に無造作に垂れ下がっていた髪の束を後ろへかきやってやりながら、フィナヴァ―は言った。

「ルシエーナの髪はとても綺麗だね。ほんの少し波打っていて、全ての色が入っていて、まるで月の光を浴びた海みたいだ」

「本当?ほんとうに、そう思う?」

 ルシエーナは息をのんで聞き返した。ルシエーナの髪は、その色を自分の目で識別できた頃から一風変わっていた。限りなく青に近いが、強い光の下では銀色に輝き、また暖炉の火の傍では橙色をひらめかせながら白っぽく光る。一言では表現のしようのない、本当に不可思議な色で、もちろん同じような髪の人は村に一人もいなかった。

 フィナヴァ―の手は、くしゃくしゃにもつれて腰まで流れる少女の長い髪を、優しく撫でた。

「本当だよ、キミの髪は素敵だ。キミは歌も上手いし、都の歌い手としても充分やっていけるよ。いつか、大きな舞台で聴きたいな」

「ありがとう。でも私は、ここでの生活が好きなの。都になんか行きたくないわ」

 ルシエーナは軽やかに答えて笑った。フィナヴァ―も小さく笑って、足元の岩を蹴り転がした。空気に煙と木屑の匂いが混じり始め、村に近づいてきたことをルシエーナは知った。

 フィナヴァ―と、もうすぐ別れなくてはならない。だから、ルシエーナは夢のようなことを口走ったのかもしれなかった。

「でも、フィナヴァ―がまた会いに来てくれたら…その時には私の目が視えていて、そうしてあなたが、また私の髪と歌をほめてくれたら、私は都へ行って、国一番の歌い手になる。私の知っている歌を全てあなたに聴かせるわ」

 二人は立ち止まった。村の喧騒が微かに、はっきりと聞こえるくらいに近づいてきていた。ルシエーナの胸は締めつけられるように痛みながらどくどくと脈打っていた。やっと十四になったばかりのルシエーナには、初めて経験するその感情の名が分からなかった。

 光も色もない世界にいても、ルシエーナの手をつかんだフィナヴァ―の手と、その存在は、どこまでも確かだった。フィナヴァ―は真剣な声で言った。

「約束する。キミの目が視えるようになったら、ボクはキミを迎えに来て、言うよ。ルナの髪は誰よりも、何よりも美しいって」

 ルナ、というのが自分に向けられた呼び名だとルシエーナが気づくのと同時に、今度こそフィナヴァ―の手がするりとほどけていった。空っぽになった手をぎゅっと握り、ルシエーナは鹿のような速さと軽やかさで駆け去ってゆく足音に、いつまでも耳を澄ませていた。村ではしょっちゅう泣き虫とからかわれるルシエーナだったが、この時は、胸に溢れる寂しさがあまりに大きくて、泣くことすらできずにいた。

(泣かない…だって、きっとまた会えるわ…)

 それは、願いではなく確信だった。お守りのように胸に下げた石の欠片を強く握りしめ、ルシエーナはもう一度、フィナヴァ―の低く甘く優しい声と、細い手の温もりを想った。



 

この世界には、あらゆる魔法と人智を超えた不可思議があふれ、自然には精霊が宿っている。

 親から子へ、気が遠くなるほど遠い神代の昔から、このライハル王国で語り継がれてきた物語は、今や戦乱の前に霞んで消えかけていた。ルシエーナの住む〈霧の谷〉は広大な北の大地の遥か彼方にそびえるカムツカ山脈のふもとにあったから、まだそうした伝承が根強く生きており、他の辺境の村や街にも微かに残っていた。だが、かつて光満てる楽園と謳われた都では、十年以上に及ぶ周辺諸国との戦が落とす影の下で、夢も物語も精霊も忘れ去られ、人々は生き延びるため互いを疑いあい騙しあっていた。

 そして、全ての戦の根が、十三年前にライハル王国が隣国アジンを征服したことにあることを、ライハル第三王女サリナはよく承知していた。

「アジンの残党が西の村で反乱を起こしたようです。二百名の兵を向かわせました」

「南のアザリ郡に派遣しているスパイからの報告書が届いております」

「サリナ様、姉ぎみから茶話会への招待が来ておりますが、返事はいかがされますか」

 玉座の前に跪いた家臣達が、オウムよろしく感情のない声で次から次へと言いたてるのに、サリナはじっと耳を傾けていた。彼女の真っ直ぐな長い黒髪は純金の簪で結い上げられ、桃色の華奢な喉元には柘榴石の首飾りが光る。ほっそりした身体は、昏い赤や金色の豪奢な衣に覆われ、まさに大国の姫君にふさわしい威厳をかもしだす。だが、繊細なつくりの顔には、若干二十歳の女性らしからぬ達観した色が漂っていた。

 目じりのすっと上がった漆黒のひとみでサリナが遠くを見やり、小さくため息を零した時だった。一人の侍女が息を切らせて執務室の入り口に現れた。

「申し上げます、サリナ様にお取次ぎを願う者が参っております」

「誰が来ているの?」

「フィナヴァ―・テル様にございます」

「えっ、フィナヴァ―が?戻ってきたの?」

 サリナの顔がぱっと輝いた。しゃんと背筋を伸ばして座り直し、サリナは早口に次々と指示を出した。

「兵の出動許可は今日中に出しておきます。報告書は後で私の書斎に持ってくるように。それと、今すぐ全員退出なさい。リサ、フィナヴァ―以外の面会客は全部お断りして」

「かしこまりました」

 侍女が頭を下げ、滑るように出て行く。その後をぞろぞろと退出する家臣の一人に、サリナは声をかけた。

「レン大臣、茶話会の招待をくださったのはどちらのお姉さま?」

 大臣は振り返り、僅かな同情を目元に滲ませて答えた。

「第一王女リリム様です」

 サリナは思わず深い溜息をついた。現在二人目の子供の臨月に入っている姉の話は、とどまるところを知らない。

「分かりました。出席しますと伝えておいてちょうだい」

 疲労の滲んだ声で呟き、サリナは手を振って今度こそ全員を下がらせた。

 入れ替わりに、深い藍色の衣をまとった女性が部屋に入ってきた。サリナは跳ねるように玉座から立ち上がり、笑顔で彼女を迎えた。フィナヴァ―は片膝をつき、胸に右手をあてて一礼した。

「サリナ王女様。先程任務より帰還いたしました」

「お帰りなさい、フィナヴァ―。北方の偵察はどうだった?ぜひゆっくり話を聞かせてください。…リサ、あなたももう下がっていいわよ」

 部屋の入り口に立ち、うっとりとフィナヴァ―を見つめていた侍女が飛び上がって一礼し、怯えたように駆け去った。侍女としてあるまじき非礼だが、この城ではよくあることなのでサリナは咎めるのも面倒になっていた。

 王宮所属の諜報部員、フィナヴァ―・テル。有能な女密偵として家臣たちに一目置かれる彼女は、その評判にふさわしい明晰な頭脳と水際立った美貌の持ち主だった。アーモンド型の黒玉のひとみ、すっととおった鼻筋、花の蜜をふりかけたような唇は、男も女も惹きつける妖しい魅力を放ってやまない。

 サリナは、彼女が好きだった。笑っていてもどこか醒めている、物事を諦観した態度が、自分とよく似ていると感じさせるからかもしれなかった。

 サリナに促されるまま手近な椅子にかけ、フィナヴァ―は扇のような睫毛越しにに王女を見上げた。

「北の大地はとても寒く、この季節でもほとんど花が咲いていません。荒れ野にはオオカミをはじめとする獣がうろつき、村に近づくまで民家も人も見かけませんでした。夏になれば、もう少し違うのでしょうが」

「でも、山の中はさぞ綺麗だったのでしょう?」

 サリナは玉座に戻ったが、そこから落っこちそうに身を乗り出して話の続きをせがんだ。好奇心にひとみを輝かせる様は、童女のように初々しい。そんなサリナに、フィナヴァ―はちらと苦笑した。

「ええ。生憎あいにく霧が濃い日でしたが、イチゴやエニシダが色鮮やかでしたよ」

「霧?霧が出たのね?」

 サリナははっとして、玉座に座り直した。震える手が強くひじ掛けを掴む。

「それで、何か起きたの。白い鳥は現れた?なにか不思議なものを見かけた?」

「いいえ、鳥は一羽も見かけませんでした。伝承では、白い鳥を追いかけるよそ者は霧の中に迷い込み、魂を抜き取られるそうですが、ボクはこのとおり無事に帰ってきましたし…」

「けれどあなたは、少なくとも魂の一部を置いてきたようね」

 サリナはそっけなく言った。フィナヴァ―の口調はいつになくためらいがちで、何かを伝えるのを迷っているかのようだった。フィナヴァ―は否定せず、目を伏せた。

 サリナは、鋭い声で言った。

「フィナヴァ―・テル、私はこの国の第三王女であり、帝の参謀長です。〈魂を招く鳥〉について調べてくるようあなたに命じたのは、この私です。かの鳥が住まうと伝えられる北の地で、霧の中で、あなたが何を見て何を聞いたのか、包み隠さず話しなさい」

 フィナヴァ―の身体が微かに震えた。すっと顔を上げ、感情を押し殺した声で彼女は話し始めた。

「霧の中で盲目の少女に会いました。とても美しい声で歌い、触れただけでボクの髪と目の色を言い当てる少女です」

「まあ…」

 不思議な話にサリナは目を見張った。フィナヴァ―は続けた。

「〈霧の谷〉に住む村人らしいのですが、見たこともない謎めいた色の目と髪をしていました。まるで…人間ではなく、精霊のような」

「白い鳥を追い求めるよそ者が、霧の中で出会った、妙な容姿の少女…」

 サリナは忙しく考えを巡らせ、そして決定を下した。

「フィナヴァ―、〈霧の谷〉とその周辺に、密偵を放ちなさい。三年間少女を見張り、素性を調べ上げ、三年後の〈金の花祭はなまつり〉に歌い手として出すという名目で都へ連れてくるのです。事態はますます切迫してきています…すべては聖なる王族のため、ライハルの存続のために」

 フィナヴァ―は椅子を下り、再び跪く。そしてサリナが差し出した手を恭しくおし頂き、口づけた。深く俯いているため、その表情は見えなかった。

「全ては聖なる王族のため、ライハルの存続のために」

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