フルーツタルトと喪失感

秋色

フルーツタルトと喪失感

 その夜、応接間の硝子戸の開く音と微かな物音が聞こえたその時刻、僕達家族四人は、全員ダイニングルーム兼居間にいた。


 妻はファッションサイトをネットサーフィン中だったし、子ども達はテレビを見ていた。テーブルにはその日、妻が買って来た限定数量販売のフルーツタルト。

 そして僕はひたすら一冊のノートに向かっていた。それは自身のキャッシュフロー計算書で日記を兼ねたものだった。つまり小遣い帳。家計簿は別に妻がパソコンで作成している。

「あなたもパソコンやスマホで管理すればいいじゃない。ホント面倒な事するのね」

「損失と利益なんて、そんなパソコンで管理できるような単純なモンじゃないんだ。微妙なとこ多いから紙に書かなきゃ分からないんだ」

妻は小さい声で言った。「ホント面倒くさい…」

 でも事実だった。僕は金額の記入と同時に損失の数の★と利益の数の☆を日付の横につけていて、星の大きさは自分の感覚だった。小さな損失には小さな★をつけ、大きな利益には大きめの☆。それは本当に単なる主観で、金額は関係なく貴重な物を購入できたり、得たものが多いと感じると☆は大きくなる。

 突然、十五歳になる長女の優香が僕に向かって言った。

「パパ、洋服を買って。ママに言うと、パパにお願いしなさいって」

「服ならたくさん持ってるだろ?」

「あれは普段着でしょ? 私は友達と出かける時のよそ行きがほしいの」

「こんな高価な菓子なんか買わなきゃ、もっと他の事に使えるんだよ」

僕の言ったその一言が妻の導火線に火を付けた。

「安いものだけ食べろって言うの? これを作ったのは有名ホテルで長年デザートを担当してきたシェフなの。子ども達に本物の味を味わせてやりたいのがそんなに悪い?」

「自分はどうせ味の違いなんか分かりゃしないのに…」

最後の一言は今度は僕が、消え入りそうな小さな声で聞こえないように言った。

 大人しかった娘の優香が服のおねだりをするようになるなんて、いつかは妻のような横柄な口のきき方をする女になるんだろうか?下の子が男の子で良かった。

そんな事を考えている時だった。硝子戸の開くザーッという音と微かな物音、それも人の立てる物音が応接間からしたのは。今ダイニングルームには家族四人と飼い犬のコロンまでいる。

 顔をこわばらせた家族を残し、僕は応接間に走った。応接間には小さな庭に面した硝子戸があり、夏には開け放してもいたが、春先の今、開け放しているはずがない。それなのに大きく開いている硝子戸を見て、慌てて庭に出た瞬間、車庫の横の柵をよじ登って左に駆けていく黒い人影を見た。硝子戸は家族が起きている間、施錠していない事がよくあった。

 僕は庭先に置いていたサンダルを履き、慌てて追いかけた。ただし柵を登る事もできず車庫の戸を開けたため、またスニーカーでなくサンダルで走ったため時間のロスが大きかった。しかも道の左側は五件先で行き当たりの道にぶつかり、犯人が右へ行ったか左へ行ったか分からない。

 僕が途方に暮れていると、角の住人、北村家のダンナが車で帰ってきたところのようだった。ここの夫婦は煩いので、我が家では要注意人物扱いだった。下の子、爽太の幼稚園時代には同じ年の子を持つこの夫婦に妻はかなりこっぴどく言われたらしい。

 だがその夜どうしようか考えあぐねていた僕に北村家ダンナは「どうしましたか」と声をかけてくれた。

「家に不審者が入ったんです」

「不審者ですか?今、大きなリュックの男なら右に曲がって走っていきましたが…」

僕は右に走り出そうとした。すると北村家ダンナはまるでこちらの方が変なオジサンだと言わんばかりに大丈夫かという目で見ている。それもそうだろう。右に曲がってみれば、もうそこに人影はない。時間のロスは大き過ぎた。

「まず警察に電話してみたらどうですか?」

北村家ダンナは僕の足元を見ていた。

つられて足元を見るとボロボロのサンダル。これじゃ仕方がない。

「何か高価な物でも盗まれていないか確かめないと…」

「そうですね、応接間から入ったみたいだから基本、金目のモノなんてないんです。ただ僕の古いレコードの貴重なコレクションがあって…。あ、やっぱオカシイですか?」

相手はなんだか笑っていそうだった。

「いえ、良い趣味をお持ちですね」

「良かった。妻はオカシイって言うんですよ。僕が五十年代や六十年代の音楽マニアっていうのが」

「いや、ボクも好きですよ。ボクの年代の音楽じゃないけど今の曲よりずっと良い曲があるなって思います」

「おっ!話が分かるな。正確には僕の年代の音楽でもないんだけどね。あ、こんな事してる暇ないや。早く警察に届けなきゃ」

「そうですよ。また今度ゆっくりお話しましょう」

「ああ、必ずな!」


 警察が来て庭と家の隅々を調べ、話を聴取し、結果盗まれたのは、応接間に繋がっている夫婦の寝室にあった妻のバッグと服の一部と決定づけた。僕はレコードコレクションを全てチェックし、盗まれた物がないのを確認してほっと胸をなで下ろしていた。妻はキレ気味に言った。

「だからそれは盗まれるはずないっつー…」

それを僕が遮った。

「しかし泥棒も災難だな。盗んだのがシャネルやCOACHでなくってシャメルやCOATHだと知ったらガッカリだろうよ」

「何で泥棒の味方してるのよ」

妻がにらんだ。警察官も呆れ顔だった。

「そんな会話は私達が帰った後にして下さい。後は近所に目撃情報がないか一件一件聞きに行きます。また明日異状がないか伺いに来ますから」

「お願いします」とそれだけは夫婦の声が揃った。


 妻は大学時代、ミス学園祭に選ばれた程、昔は美人だった。僕にはSF小説サークルで気の合う女のコもいたけど、今の妻の華やかさに惹かれ、自分まで違う世界に行ける気がして告白した。その結果がこれだよ。得たものと失ったもの…どちらが大きかったかなんて分からない。でもこんな夜には★を大きく塗りつぶしたかった。


 次の日、仕事帰りに最寄りの駅から歩いて帰る途中、学校の部活を終えた優香が自転車で追い付いてきた。優香は自転車から下りると僕の歩調に合わせて手で自転車を押しだした。

「ね、昨日は大変だったね。でもパパが無事で良かった。あたしパパが犯人に追いつかなきゃいいって思ってたの」

「何だって?」

「だってパパが犯人に刺されたりしたら嫌でしょ?」

僕には、自分だけは危険な目に合わないなんて変な自信を持ってしまう所がある。

「ママもね、口ではああ言ってるけど、とても心配してたのよ。爽太もね」と優香。

昨日考えていた「娘なんて」という思いをゴミ箱に捨ててしまいたかった。

夕焼け空が群青色に変わっていた。僕は通りの向こうに例の洋菓子屋を見た。有名ホテルのシェフを長年勤めた人は隠居を考えなかったんだ。その位の人ならもっと気取った店でも始められたろうに、こんな小さな町の洋菓子屋で納得のいくようなタルトを限定数で作っている。やっぱり本物なんだろう。本物の味なんだろう。そして妻に偽ブランドの物しか持たせてやれない自分の甲斐性の無さを恥じた。


 その晩、警察官が再びやって来た。夫婦二人ともが仕事から帰宅する時刻を前日確認していたのだ。警察官はさらに一人の男性を同行していた。

「こちらがどなたかご存知ですか?」

無言な私を伺い、妻はその人物の名前を自ら言おうか迷っているみたいだった。

「奥様はご存知ですよね?」

「え、ええ。北村さんですよね。ねえ?」

と僕の方を向いた。

 僕は自分の観察力に自信なんてなかった。映画に出ている俳優、女優の顔だってろくに覚えきれない位のレベル。そして昨夜は辺りも暗かった。それでも、目の前にいる彫りの深い男性が、昨夜話したスッキリとした目鼻立ちの男性と同一人物でない事は、はっきりしていた。

「僕が昨日の夜、会ったのって…」

警察官は言った。「北村さんは昨日の夜、路上で誰とも話していないって言ってます。塾帰りの娘さんを迎えに行くため車を家の前に二十分程置いていた事は認めていますがね」

警察官は苦い表情をしていた。

「幽霊を見たような顔をしないで下さい。昨日ご主人の見た人はどんな服装でしたか?」

「黒いセーターかトレーナーのような…」

警察官は、妻が北村と認めた男性に聞いた。「黒いセーターかトレーナーを着ていましたか」

「いいえ、シャツにスーツでしたが」

僕は混乱していた。それはつまり…。

「それはつまりあなたの話した男があなたの家に侵入して窃盗を働いた人間という事ですよ」

つまり、車の横にいたから帰ったばかりのその家の主人と思ってしまったという事か。そして僕は幼稚園トラブルも近所付き合いも妻に任せ、近所の住人の顔もろくに知らなかったという事実。


 僕はその日、キャッシュフロー計算書つまり小遣い帳に☆と★を幾つ書くか悩んだ。よく分からないけど被害はあまりない。警察官は盗られた物はいずれ返ってくるだろうと言った。こんな犯罪者はいつか捕まり、そして本物のブランドでないからネットオークションでも売る事ができず、盗んだ物はそのまま手元に残っているだろうからと言う。ちょっとうれしいのか悲しいのか分からない断言。

 結局、プラマイゼロか? いや、突出した喪失感が一つ。せっかく近所で見つかりそうだった気の合う友の誕生が朝見る星のように消えてしまった事。僕は★を書いてちょっとした心地よい孤独感を味わってみた。







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